四十六話 新たなる力

 雷が落ちたのではないかと思うほどの衝撃が、迷宮内で何度も響いている。

 姿の見えないスライムとの戦闘が始まって数分。

 未だに僕はそのカラクリも、見つけ方も分かっていなかった。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」


『ピ、ピピ……!』


 息が切れる。

 五回避けただけでこの疲労度だ。全くふざけている。

 脳みそはチリチリ焼けるように痛むし。

 転がって避ける度に、集中力がごっそり削られていく。


 ……そう。

 避けることは、辛うじて可能なのだ。

 

『ピギッ……!』


「く、ぅっ」


 死の前兆。


 背筋に氷を入れられたような恐ろしい感覚を覚え、それに逆らわずに横へと転がる。

 一瞬、後に。

 衝撃音、爆音、振動。


「はっ、はぁっ、はぁっ! ……くそっ」


 所謂、殺気というやつだろうか。

 そんなの漫画の世界での話だと思っていたが、どうもそうではないらしい。

 仕組みも理屈も分からない察知能力。

 だが、このおかげで生き延びている。


 今は考えるな。

 感覚を研ぎ澄まして、それに従え。


「はぁ、はぁ……」


 攻撃は、避けられる。

 しかしこれがジリ貧であることは僕にも分かっていた。

 何か状況を変える一手が欲しい。


 眼前には恐らくスライムがいる。

 薄暗い洞窟の中で、完全に壁と同化したスライムが。


『ピギ、ギ……!』


「……っ」


 戦闘において姿が見えないということが、こんなにも恐ろしいなんて知らなかった。

 攻撃の方向も分からず。

 反撃しようにも核の位置が見えない。現状は詰んでいる。


 どうすればいい。

 何をすれば、あのスライムを倒せるんだ。

 

『ピ、ギィッ!』


 思考はそこで中断される。

 七度目の突進。背筋が凍る感覚。

 同じく僕は横に回転しようとして……。


「や、ばっ……!」


 ガガガガガッ!


 と、洞窟の壁からけたたましい音が鳴り響く。

 視界には入らないが、凄まじい速度で壁を反射しながら進んでいる。


 やばい、どうする、やばい、やばい!

 前に転がる? その際に当たったらどうする。

 じゃあ横に転がる? 駄目だ。スライムの軌道がもし、今の僕に合わせられているとしたら。横に逃げるのは危険すぎる。

 だったら……ああもう時間がない!


 どこを狙っているかも分からない以上、極端な避け方は却って危険だ。

 僕は頭を包むように手で丸め。

 少しだけ屈んで、斜め左に飛び出した。


「お願いします神様!」


 音の感覚からして、タイミングは今しかない。

 頭を覆っている腕越しに聞こえる衝撃音が、更に近くなって……。


 後ろに、ずれた。


「……はぁ、あぁ……!」


 膝をついて安堵の息を吐く。

 たった一度の攻防。ただそれだけで、精神がゴリゴリと摩耗していく。


 ……危ない賭けだった。

 ぎりぎり見える、壁の亀裂と反射音で何とか予想できた。

 でもこれじゃ駄目だ。

 いつか限界が来て、仕留められる。


「ふぅ、ふぅっ、ふぅーっ……!」


 手が震えて止まらない。

 死の危険は既に経験したのに、その恐怖心は変わらないまま。

 同じだ。

 この前と同じ、死の予感。


 まだダメージは負っていない。それが寧ろ、恐ろしい。

 今の状態から少しずつ削られていって、死ぬことが確定している。

 まるで死刑を宣告された囚人のように。

 じわじわとした恐怖が、後ろから迫ってきている。


「おち、落ち着け……はぁ、大丈夫、大丈夫だ……」

 

 腕を掴んで震えを止める。

 思い出せ、あの日の怒りを。激情を。

 あの時の僕に恐れなんかなかっただろう。


 誓ったんじゃないのか。

 僕はこの、どうしようもなく絶対的な理不尽を。

 僕らを虐げるこの理不尽を、倒すんだろう。


 奮い立たせるんだ。

 怒りでも、勇気でも、狂気でも何でもいい。

 戦うんだ。


「く、ぅうっ……!」


 こみ上げる恐怖を押し殺しながら、抜刀して正眼に構える。

 スライムの姿はない。

 されど、確かにそこにいる


『ピ、ピ……!』


「……ひ、ぃ」


 場を包む圧力が増していく。

 肌がひりつく感覚。恐ろしい、怖い、もう無理だ、逃げたい。


 ……あぁ、怖い。


『ピギ、ギギギ……!』


「ひっ……ひひっ」


 怖い。


 怖い。


 死にたくない。


 独りぼっちで消えたくない。


「ひひ……はは、ははは……」



 だから、殺す。



 頭の何処かで、スイッチが入る音がした。

 

「はははっ、ははははあああああ!」


 無理矢理に笑う。

 狂気を装い、道化を真似る。

 

 張りぼての出来損ないでもいい。

 どうか僕に、勇気をください。


『ピ、ギィッ!』


「お゙おおおおおおおおおおおおっ!!」


 声を張り上げ、刀を振り上げる。

 相手が狙う場所を頭だと仮定。

 瞬時、空気を切る音が聞こえた。攻撃方法は先程と同じ。

 壁にいくつもの亀裂を走らせながら、僕へ向かってくる。


「――」


 爆音、衝撃、風。


 スライムがこちらへ向かってきている。 

 斬るんだ。

 振り下ろせ。タイミングを合わせろ。


 斬れ、斬れ、斬れ!


「――ぁ、う」


 ……その時、脳裏に浮かんだのは。


 腕がひしゃげ、肋骨が折れ、肺が破壊される光景だった。

 あまりに鮮明な予感。

 痛みすら伴うほどの確信、恐怖、絶望。


 ……あぁ、駄目だ。

 

「く、あぁっ!」


『ピッ……!』


 僕は刀を手放し、その場に屈んだ。

 ほんの少し遅れて頭上から、轟音と共にスライムが過ぎ去っていった。


「――はぁっ、あぁ、ああぁぁぁ……」


 涙が流れる。

 体中が震えて思考も定まらない。


 ……なんで僕は、いつもこうなんだ。


 臆病で、馬鹿で、弱くて、卑怯で、何もできない。

 たった一度刀を振るうことすらできない。

 あの日の激情は消え失せ。残ったのは、痛みへの恐怖と絶望だけだった。


「ひぐっ……ぅう、うあぁぁ……!」


 怯え震える右腕で、何度も地面に殴りつける。

 手の甲からが破れて血が流れても、痛くはなかった。

 

 卑怯者め、意気地なしめ、この最低な愚か者め。

 散々母さんを救うと言っておいてこの様か。

 結局、お前は自分だけが助かろうとしている屑野郎だ。

 今更怯えて……逃げて、蹲って。


 本当に、情けない……。


「っ……ずび、ぇふ、うぅ……」


『ピ、ピ、ピ……!』


 ……遠くで、スライムの鳴き声が聞こえる。

 いっそのこと一度、吹き飛ばされた方がいいのかもしれない。

 あの日と同じように。

 死ぬギリギリまで自分を追い込めば、また立ち上がれるかもしれない。


 そんな、馬鹿げた思考に染まりかけた時だった。


『ピギッ!』


「――」


 何かが破裂するような音が響き。

 壁から伝わる振動を、身を竦ませながら聞いていた、その最中。

 

 脳裏に浮かび上がったのは、頭を破裂させられた僕の姿だった。


「――え?」


 妄想……というには、あまりに鮮明な光景。

 心臓が煩いほどに動いて、恐怖が体を突き動かす。


 気付けば僕は、頭を覆って地面に平伏していた。


 そして……。


『ギギ……!』


 先程と同じように、頭上をスライムが通り過ぎていく。

 その速度は果てしなく。

 一度当たれば最後、頭など簡単に粉砕されるのだろう。


 ……今のは、一体。

 

「ぅっ、お、えぇ゙っ!?」


 バチン! と頭の後ろに電気が走ったと思えば。


 唐突に込み上げた吐き気。

 それは到底逆らえるものではなく、僕は勢いよく嘔吐した。

 ビチャビチャと吐瀉物が地面を汚す。

 鳴り止まない頭痛に苛まれる中、僕は消えかける意識のまま考える。


「ひゅー、ひゅー……ぅ、げほっ、ぇふっ」


 さっきのは、何だったんだ。

 いや、さっきではない。あの時、刀を手放して屈んだ瞬間。

 あの時もそうだった。

 脳裏に、腕がひしゃげて吹き飛ばされる光景が浮かんで。それで……。


「はぁ、はぁ……」


 ……あれは、僕の弱い心が見せた幻覚。

 そう思っていた。

 でも、もしかしたら。


『ピ、ピピッ……!』


「はぁ、んぐ、はぁ、はぁ……!」


 よろよろと立ち上がり、恐らくスライムがいるのであろう場所を睨みつける。

 刀は持たない。

 今からやろうとしていることに、獲物は不要だ。


 ……正直、確証はない。

 それこそ幻覚、妄想かもしれない。

 僕の予想が間違っていたら最後、僕は死ぬ。

 掛け金は莫大。それでいて、得られるのは一つの確証のみ。

 

「いいね……やるんなら、そっちの方がいい……」


 無理やりに笑って、前を見据える。

 経験からしてあと数秒でスライムが来る。

 集中しろ。

 感覚を研ぎ澄ませろ。


 集中。


 しゅう、ちゅう……。



『ピ、ピ……ピギィッ!』



 肌からも感じられる暴虐の衝撃、振動。

 硬い岩壁を粉砕しながら到来するのは姿の見えない死神。

 その無慈悲な鎌が僕の首に迫らんとした瞬間――



「――見え、た」



 右の脇腹を砕かれ、内臓を破壊され、血反吐を吐く僕がいた。

 頭の中で浮かび上がるその映像は、まるで現実のように鮮明だ。

 世界が加速する。

 死のタイムリミットはすぐそこまで来ている。


 だから、一歩。

 右足を前に出した。


『ピギッ……!?』


「……はは」

 

 右斜めの姿勢になった、僕の背中に。

 圧倒的な速度で通過していく弾丸の風が舞い込む。

 後押しされるように僕は前へと進んだ。

 その足取りは軽く、思わず微笑みを浮かべるほどだった。


 ……あぁ、よかった。

 自分の身に何が起きているかなんて、一つも分からないが。

 今だけは感謝したい。


 ありがとう。

 僕はまだ、戦えるようだ。

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