第5話 山本涼子

「あら、おかえりなさい、陽和ちゃん。夕飯は肉じゃがだからね。もう少しだけ、ゆっくり待ってて」


 家に帰った私を、涼子さんが出迎える。今は亡き、母の祖父母もお世話になっていたらしい家政婦さんだ。

 今日は非番の筈だけれど、『楽しいから』と手伝いに来ている。が、内容は仕事の日と何ら変わりはない。家事全般、涼子さんの独壇場だ。

 私がナルコレプシーを患っていると知った辺りから、そんな日々が始まった。数年程前からは、もう毎日だ。私のことを気遣って、というのが本心かも知れないけれど、涼子さんはそれを感じさせるような振舞いはしない。何度かそれについて尋ねたことがあったけれど、決まって「楽しいからよ」の一言だけだ。

 そんな涼子さんが先に夕餉の準備をしていられるのは、預けてあるスペアキーで好きに出入りして貰っているから。

 涼子さんの言葉を受けた私は、いつもなら返事をしてから一旦自室へと入るけれど、今日はそのままリビングの方へと足を運んだ。ソファに荷物を置いて、テレビの電源だけ点けて、足早に涼子さんの横へと並んだ。


「何かやることある?」

 短く、それだけ尋ねる。

 それだけで何か察したらしい涼子さんは、今まさに煮込み始めた肉じゃがの火の番を任せてくれた。

 私がコンロの前に立つのを見ると、涼子さんは脇に置いていた幾つかの野菜を手に、別の作業を開始する。

 トン、トン、トン。規則正しい包丁の音が響く。

 わざわざ点けておいたテレビの音は聞こえない。

 私が自室へと戻らない時には決まって、私から何かしらの相談事がある。

 それを涼子さんは、


「陽和ちゃんが私の横に立つ時は、何かお話しがある時くらいもののよ」


 ちゃんと分かってくれている。

 ピアノが弾けないと分かった時。進路に迷っていた時。大きな決断に迫られるような時に私は、必ずこうして涼子さんの手伝いを買って出る。

 普段はやらないそんな珍しい行動は、返って合図のようになってしまっているのだろう。

 普通は母に相談するものだとは私だって思っている。けれど、母に相談すると、どうにも流れが重たくなってしまうのだ。他人と言ってしまってはものすごく聞こえが悪いけれど、身内でない涼子さんは相談しやすい。

 二人とも、仕事をしていて忙しいというのは一緒なのに。職種の差なのか、涼子さんには何だか甘えられてしまうのだ。

 涼子さんの言葉に、しかし私は未だ口を開かない。それでも、涼子さんの方から詮索するような野暮もしない。

 一度尋ねた後は、ただ、私が話し始めるのを待ってくれるだけ。それが、こういう時の涼子さんのコミュニケーションだ。

 トントン。カラカラ。幾つかの音を聞き流した頃、私はようやく口を開いた。


「トリニティカレッジ図書館、って聞いて、涼子さんは何か思い当たることってある?」


「えっと……トリニティ、何だったかしら? ごめんね、横文字はどうにも苦手で。でも、多分何もないわ」


 涼子さんははっきりと首を横に振った。


「ううん、大丈夫。その様子だと、ほんとになさそうだね。ごめん、忘れて」


「もう、なあに? 確かに私は聞き覚えがないけれど、それがどうかしたの?」


 知っているのなら、教えて欲しかった。

 けれど、そうとも言えない私は、


「えっと、今朝変な夢を見たんだ」昨夜から今朝にかけての夢を思い起こす。


「夢?」


「うん、夢。寝てる時に見る方の、夢」


 特別な驚きは見せない涼子さんに、私は昼間佳乃に話したように、そのまま詳細を語って聞かせた。

 夢の中で不思議な場所にいたこと。明晰夢らしい現象もあったこと。そこがどうやらトリニティカレッジ図書館という場所らしいこと。そして、知らない声に名前を呼ばれたこと。

 夢に出て来る舞台というのもは往々にして、現実世界で見知ったもの、音、匂いや色が反映されると言われている。

 よくよく知っている場所なら詳細に、ただ一度見た程度、あるいは意識的に見たことがない場所なら大雑把に、舞台が表現されるものなのだそうだ。

 私の見た夢に出て来たあの空間は、とても詳細に、とても素晴らしい出来栄えだった。それはつまり、私がよくよく知っている場所だということになる。何かで見たのか、どこかで知ったのか、実物は見たことがないはずだと思うけれど、ネット上で見たそれらにとてもよく酷似しており、細かく、現実味があって、何より心に響くものに感じられた。

 その説を信じるのなら、たまたまテレビや雑誌で見かけた、程度の話でないのではないかと、そう思えて仕方がないのだ。


「夢――夢、かぁ。陽和ちゃんは、その夢を見てどう感じた?」


「え、どうって?」


「感動した。素敵だった。綺麗だった。好きになった。逆に、気持ちが悪くなった。不快だった。嫌いになった」


「うーん」


 少し考えてみるけれど、答えは一つしか浮かばなかった。


「私……とても、心地が良かったんだ」


「具体的には?」


「ずっとこの場所にいたい、みたいな。うーん、どう言ったら良いんだろ。ここにいるような安心感って言うか」


「ここって、自宅のこと?」


「うん。身を委ねても、何も悪いことは起こらないだろうって、そう思える感じ。あ、お母さんとか涼子さんと一緒にいる時みたいな感覚だ」


「へぇ、安心感、か」


 応えながら、涼子さんは切り終えた野菜をさらに添えていく。後からドレッシングをかけるだけの、簡単なサラダだ。


「そろそろ火、止めてもいいかも。あと、悪いけどお茶碗とかも出してくれるかしら?」


「うん。今日は涼子さんも食べていくよね?」


「ええ、有難いことにね」


 親戚同然に、いやそれ以上にフランクな相手である涼子さんは、その場で食事を摂ってから帰ることが大半だ。

 随分と昔に旦那さんとは死別しており、子どももいないから、どこでどんな時間を過ごそうとも誰に迷惑をかけるわけではない――と話していたことを覚えている。


「夢、ねえ。また視たいって思った?」


「そりゃあ、視られるならね。でも、ネットとかでよく聞く『視たい夢が視られる方法』って、あれ全部嘘だから。そう簡単にはいかないかも」


「あら、試したことがあるの?」


「随分と前だけどね。お母さんにお菓子の家をプレゼントして貰ったんだけど、食べるどころか、その家の中に入ることも出来ない内に目が覚めちゃったんだよ」


「あらあら、それはぜひとも視てみたい夢ね」


「でしょ! まぁ、だから叶わなかったんだけどね。あーあ、どうせならそれも一緒にもう一回視たいなぁ」


「贅沢ばかり言ってると、幸せが逃げちゃうわよ?」


「口にすることで呼び込むタイプってことで」


 私は笑って言った。

 願望野望は口にしてなんぼ。そんなことを言っていた偉人がいたような気がする。

 そんなことを話している内、二人分の料理がテーブルに並び揃った。

 さぁいざいただきます――という手前で、私は涼子さんに言っておかなければならないことを思い出し、制止した。


「どうしたの?」


「いつもはお母さんが対処してくれてたけど、今はいないからさ。きっと、沢山迷惑かけると思う」


「迷惑って――あぁ、ナルコレプシーのこと?」


 私は頷いた。


「そうそう大きな発作は起こらないと思うけど、ゼロとは言い切れない上に、いつ出るかも分からないからさ。学校の行き帰りは佳乃の助けもあるから大丈夫だけど、家ではそうもいかないでしょ? でも安心して。何か起こっても、別にどうなるって訳でもないから、何か適当な毛布でもかけて、そのままほったらかしておいてくれたら良いから。救急車とか呼んだって意味がないし。毛布だけで良いから、お願い」


 佳乃には、万一発作が起こって急に寝落ちるようなことがあれば、迷わず救急車を呼ぶよう伝えてある。路上では誰かしらの迷惑になるからだ。

 けれど、家には涼子さん一人。それも、ナルコレプシーだと知っている人だ。

 家なら基本的に危険はない。タンスや机、椅子など、家具は丸みのあるデザインに統一し、どうにもならない角の殆どには、柔らかい緩衝材を取り付けてある。階段で最悪の事態になってはいけないからと、私の自室も一階にある。

 これから先、まだどのくらいに渡って涼子さんの世話になるか分からないけれど、これまでだけでも散々世話になって来た。迷惑だって沢山かけて来たことだろう。

 これから迷惑をかけると前置いたのは、それはこれ以上無駄に迷惑をかけない為だ。ほったらかしにしておいてもらうくらいで、丁度いい。


「出血してるとか骨が折れてるとか、そんな風に何か目立った事がない限り、特に何もしなくて良いからね」


「もう、そんなこと出来ると思ってるの? 陽和ちゃん一人くらい、いざとなれば抱えて――」


「うん、出来ると思う。涼子さん力持ちだし。でも、それで腰とかやっちゃったら大変でしょ? それに、私どこで寝たって風邪とかひかない体質だから」


「本気で言っているの?」


「冗談言ってるようには見えないでしょ?」


「それはそうだけれど……」


 納得いかない、といった面持ちではある。


「家事全般以上のことで、涼子さんにはお世話になりっぱなしだから。これ以上、迷惑かけたくないの」


 そう言うと涼子さんは「分かったわ」と答えながら、「間違ってることもある」と続け、私に向き直る。


「陽和ちゃんの祖父母さんたちからの恩もある。それは確か。でも、だからって私は『仕事だから』というだけで来ている訳ではないのよ。美那子さんも陽和ちゃんも、私はとても大切に思っているわ。だからこうして、毎日来ているの。仕事だからじゃない。大好きだからよ。お給金を頂かなくたっていいくらいよ? 毎日笑って、楽しく過ごすことが出来て、私はとても幸せだわ」


「いや、それは流石に――」


「本当よ? でも、だからこそ放っておくことなんて出来ない。家族がいないからこそ、家族同然に大切なんだもの。任されているからとか、仕事だからとか、そんなんじゃないのよ」


「……涼子さん、お人好しって言われない?」


「貴女のおばあちゃんによく言われたわ。でもそれがなあに? 私はそれでいいと思って生きてるもの」


 屈託なく言うものだから、私はもう何も言い返す気にはなれなかった。

 私が折れるしかなかったのだ。


「分かった。ごめんなさい。うーん……じゃあ、壁に背中を立てかけておくくらいで。やっぱり、踏み放題の絨毯にはなりたくないな」


「それで良いの。うんとお任せなさいな」


 横たえて放置しているよりかは、まだマシだ。涼子さんも、それで了解してくれた。

 それからはまた、夕餉をともにしつつ何でもない会話をして、有名なバラエティー番組を観て楽しんで、お風呂に入って、自室に戻る辺りまでは覚えていて――

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