灰と息吹

納戸丁字

1

 ユーホの営むクリーニング屋も、昼過ぎには客足が一旦途切れた。汚れものを持ち込む人々の群れを捌ききり、店主にして唯一の従業員である彼女は長く息をつく。


 彼女は鉄粉混じりの油汚れがべったりと付着した作業着を抱え上げ『重度pretty bad』とラベルの付いたカゴに放り込む。次いで、デスクワーカーと思しき青年がまとめて持ち込んだ襟付きシャツの汗染みの具合を手早く確かめ、煮洗いにチェックを入れた洗濯票をステイプラーでバチバチと取り付けて、こちらは『まあまあnot too bad』のカゴに投げ込んだ。


 休憩まで七分が残されている。上階の洗濯場に汚れものを運んでしまっても構わなかったが、この半端な時間に不在票を出して行き来するのも気が引けた。万が一、不在の間に訪れた客が待っていたら応対せねばならない。


 ユーホはよく働いた。必要にかられてもいたが、何よりも彼女の中の暗い部分を思考からもぎ離すために、どうしても必要な行いだった。心の中にはいつだって陰りがあったし、そいつに名前を与えたら最後、どこにも行けずにうずくまってしまう確信が彼女の中にはあった。だからユーホは、何もしていない時間がことのほか苦手だった。例えば今のように、ただ数分ばかりの時間を潰すことなどが。


 けれども仕方なしに作業台に肘をついて、ユーホは店内をぼんやりと眺める。


 この国ではどこもそうであるように、店のある塔型街区にも送風菅が張り巡らされていた。白く塗られた壁には鉛色の配管が血管のように這いまわり、イオンの香りのする空気を絶えず屋内に送り込んでいる。ラックにハンガー掛けされている受け取り待ちの服が、そこに付けられた洗濯票が、気流にそよいだ。まるでダンスのように。


 ユーホは舞台芸術に触れた経験はない。しかし、ドレスやダンスの衣装なら縁があった。この街区にはストリップ小屋やステージの真似事をする飲み屋も何件か存在するからだ。薄暗い照明と酒で鈍った眼を通せばクリスタルで飾られたシルクのドレスに見えるのだろう、そう思いながら粗悪なガラスビーズを縫い付けた薄っぺらい化学繊維の衣装たちの汗と煙草の臭いを抜くことが幾度もあった。


 時告げの鐘が鳴る。十三時になったのだ。ここからほど近い工業区画塔が、従業員に午後の労働開始を告げていた。ユーホにとっては昼休憩の合図だ。


 唐草模様をプリントしたガラス戸に『閉店closed』の札を下げ、ユーホは裏口から外壁通路へ出た。錆びの浮いた手すりを掴み、彼女は遠景を眺める。目を休めるために、三十歳を越えたあたりから始めた習慣だ。すぐ隣の工業区画塔からは蒸気や煙がもうもうと上がり、煙幕を透かして上級区画に林立する超高層の摩天楼がシルエットで浮かび上がった。上空に視線を移すと、たなびく雲が不自然な形で押し退けられ、風の司によって管理された気流ドームの境界が浮かび上がっていた。


 ユーホは外階段を上がり、三階層先にある大衆料理の店へ向かう。がやがやと大声の注文が飛び交う仲を負けないくらいの大声を張り上げて卵と香草の炒め物とライスのセットを注文し、油煙混じりの空気の中で黙々と食べた。サービスの発酵茶を飲み干し、識別票に紐づいたトークンで支払いを済ませて店を出る。


 錆びだらけの階段を足音高く下りながら、ユーホは今から戻るクリーニング店、彼女が苦労の末に勝ち取った自分の小さな城について想いを馳せる。実際のところ、生活は楽ではない。洗濯屋は肉体労働であるし、息子の学資の問題もあった。彼は奨学金を取ると息巻いているが、万一のことを考えれば備えは欲しい。機材のローンも残っているし、税金は上がる一方だ。


 ユーホはため息まじりにバックヤードの扉を開ける。そして身をすくませた。一瞬にして頭の中が冷えきって、異変の原因――カウンターの裏側に身体を折りたたむようにしてうずくまる何者かを観察する。


 大きすぎる無骨なジャケットを搔き合わせて着こんだ、小柄な人影だった。子供か、女のように見えた。裾から覗く脚は翡翠色のカラーストッキングを纏っていたので、十中八九、女だろう。よくもまああんな高くて細いかかとの靴で歩き回れるものだ。ユーホは呆れ混じりの、しかし場違いな感想を抱く。


 ユーホは次に、備え付けの不審者通報システムへ視線をやった。ボタンはカウンターの裏側に据え付けてある。侵入者のちょうど肩のあたりだ。彼女は肩を上下に揺らしながらユーホの顔をのっそりと見上げた。


 視線はクリアで、ドラッグなどの痕跡はない……ように見える。実際のところはどうなのだろう? 医療知識のないユーホに解るはずもない。


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