休暇は労働で
焼魚圭
第1話 訪れ
ある街に新たな住民が二人、羊皮紙に記された文字がそう示していた。文字によって綴られたほんの一握りの経歴がその人物の歴史を語っている様はなんとも滑稽なものだった。人の側面を汲み取るにも値しない、その程度のものでしかないはずなのに。
キールとユユの二人、恋人同士。ユユはただついてきただけの事に過ぎないものの、キールには二か月という休みを経て学校生活が幕を開けるという大きな変化が待ち構えていた。成人する歳の春に受けることの出来る受験、合格発表は六月、現在七月と月を一度跨いで八月の二ヶ月の間にある程度発展した都会に慣れるようにと一時的にこの街へとやってきたものだった。
「それでも向こうはもっと凄いらしいな」
キールは街の中から更に大きな街を眺める。立派な棘がいくつも生えた青い鉄の生き物のよう。恐らく今立っている土地に慣れたところで気休め程度にしかならないだろう。
「ストレスで潰れないようにね」
ユユはパンを齧りながら同じ景色を大きな瞳の中に収める。見えて来る世界はあまりにも大きくて、しかしながらこの世界の一部と呼ぶにも満たない規模。さらに遠い世界を知っても知らなくとも同じように流れ去ってしまう時間に手を伸ばすも取り戻すことなど出来ない。それを知っているユユは今の気休め程度の慣らしでも大切なことだと感じられる。
「これから住む家を確かめるか」
キールの言葉に従って歩き始める。川は都会へと向かって流れる。二人は川に逆らって歩き、太陽は横から見つめている。あまりにも熱い視線は誰に向けられているのだろう。キールやユユはきっと太陽の視線の中にたまたま入り込んだだけの小さな役者に過ぎない。
時たま馬車が通り抜ける道路を抜けた先に大きな広場があり、そこに立てられた看板を目にしてユユは目を輝かせた。
「ミュージカルとかダンサーが来るんだって」
この広場では常に何かしらの催しが行なわれているのだろうか、演目は田舎者のキールですらどこかで目にしたことのあるタイトルで、筋書きは青年の父親が不倫をして母親に関しても別の男の方へと向かって離れ離れになってしまうというものが一つ。
「あれは苦しいな」
「私たちはそうならないよ」
他にも幾つかのタイトルと日程が小さく連ねられていたもののキールの目はその内容を描く事など出来ない。
「七月の終わりに若手の踊り手が来るんだって」
看板に刻まれた文字だけが頼り。そこに書かれたことを信じなければならないという有り様だった。
「都会なら写真とか」
「簡単には用意できないわ」
半端な知識で安易なことを述べるべきではなかった、キールの奥で恥じらいが揺らめいた。
「一枚撮るだけで飛んでいくもの」
「そんなにか」
「私の人生二回分いっぱいの稼ぎが」
「鳥肌が立つな」
もはや稼ぐ事など考えていない、ビジネスとして成立するような安価で安易な機材ではなかった。飽くまでも貴族の遊びの一つにして権威を示すための現在の手段なのだそう。二人がかつて住んでいた土地にまで伝わる金持ちは自分の顔を名のある芸術家に描かせていたとあったがいつの時代にも己の顔を示す高額な手段こそが彼らの価値を決めてしまうのだろうか。
「ところでユユ」
ユユが意識をキールに向けた事を確認して言葉の続きを紡ぎ始める。
「俺の知らない事までよく知ってるんだな」
「うん、たくさん」
キールが学校へと入学するために勉強を頑張っていた一方でユユは様々な世界を見てきたのだろうか。話によればしばらくの間は港町の近くの農村部で過ごしたと言っていた。様々なものが海を渡ってその片鱗を覗かせる場所。時折町におりて向こうから渡ってきたものと交わるように関わってきたのかもしれない。
偉い人物たちが学問と呼んで尊んでいる事柄をキールが見つめて勉強している間に偉い人物たちが下らないと言って蔑む行ないをユユはその手で実際に行なって勉強していたということだった。
「私は仕事も頑張ってきたからここでも働けるよ」
きっと働くだろう。その言葉が冗談で終わるようにはとても思えなかった。ユユという人間には一つの想いが刷り込まれていた。キールが頑張っている限りは怠けてはいられない、落ち着いて休んでなどいられないという事。
「俺も働きは出来るから大丈夫」
恐らく天へと伸びる角や棘に例えられる立派な青い鉄の屋根の集団の一つが学校のものだろう。もしかすると一つと言わずかも知れない。あの都市に住むためにはこの街を上回る費用が掛かる事だろう。ある程度高い賃金と学生支援のシステムを用いて生活していけるだろうか。不可能だと悟った場合は休日を除いて学校に寝泊まりかつ休日は今の家に帰るという形を取ることも視野に入れておかなければならないだろう。世間知らずな勉強育ちは背に忍び寄る影を現実で叩き落すことなど出来ないまま、今を生きる事となる。
「ユユはここでやりたいことあるか」
突然持ってこられた質問は思考を呼び込みあごに手を当てつつ首を傾ける。
「キールとデートできるならそれでいいかな」
なんとも望みの少ない子なのだろうか、そのような子に育ったことがもはや想定の外側の出来事。キールが知っているユユならきっと具体的な言葉にすることなく色々と見て回りたいとだけ言って街を巡り始めたことだろう。
大人になったんだ。
心に書き込まれるように呟かれるそれはあまりにも重い響きをしていた。キール自身は果たして大人になれたものだろうか。キールに自信はなかった。
そんな行き場のない想いを握り締めたまま、忘れ去ろうと手をポケットに突っ込む。
ユユに向けてキールは一言差し込んでみた、生活に一輪の花のような華を挿そうとしていた。
「なあユユ」
「何かな」
ユユの顔を改めて見つめるともはや別人のように思えてしまう。あの頃のあどけなさは何処へと行ってしまったのだろう。田舎者の二人、キールが勉強のために現実から目を逸らしている間に知らない人間に成り果ててしまっていた。昔と比べて声にも艶っぽさと時折仄かに枯れた音が混ざっているだろうか。
「どうしたの」
彼女の中に宿る心を知りたくて紡いでいたはずの言葉が思わず止まってしまっていた。
「せっかくだしどこか遊びに行きたくないか」
キールにとっては勉強明けの休息のようなものだった。受験を経て次の学校まで、目的も志も何もかも陰に隠し尽くしている。
そんなキールに励ましの言葉の一つも無い。ユユは目を細め、思いきり睨み付けた後すぐさま声にした。
「だめ、家に運ばれてくる家具の受け入れと整理整頓から」
「随分しっかり者になったな」
キールの記憶の中の彼女はいなくなってしまったらしい。今目の前にいるのが本当にあの頃の狩人なのだろうか。農業を一緒に手伝い、隣町の漁業の手伝いをしていたあのユユなのだろうか。あの日の事を思い出させることなど何も残されていないようにすら思えてしまう。
番地が刻まれた看板と記憶の中の番地を照らし合わせて進み続ける。始めて足を運ぶ場所、農村などであればきっと迷っただろう。しかし利用目的に沿って分けられた街の住居区の中だけ、番号という己の名を語る建物たちが並んだここでなら大きく迷う事など無かった。
「住民を大量に仕舞い込むアパートっていう建物は違うから」
それは働く人々のために用意された寮のようなものとして扱われているらしい。異様に背の高い建物たちの間をくぐるように進み、やがて現れた一軒家の群れ。
「この中から私たちが借りた部屋を探して」
あの集団を居座らせる最先端の住宅は防寒防熱共に一軒家よりも優れていておまけに窓にはガラスが嵌め込まれているらしい。木や石を組み込んで作られ、窓は木の扉を取り付けただけの前世代的な造りの住宅とは大違いだった。
そんな前の世代の住宅と貴族たちから指差し嗤われるそこから自分の住まいを探さなければならない。アパートに住まう人々の間では時として人という名の家畜と揶揄される一軒家の貧しい住民たちの生活はどのような色をしていることだろう。これからキールたちが知る事だった。
「丸太のポストって言ってたね」
目印の事だろう。手がかりをもとにようやく目を合わせたそれは二人で都会の自由を満喫するには少し狭いだろうか。小さな平屋は殆ど寝泊まりや勉強といったあまり動かない生活のために使える程度の簡単なもの。楽器を奏でて金を手に握る人の練習場所として扱うならば騒音問題に発展すること間違いなし、やんちゃな子どもを走らせるなら家具の配置次第では最低限の必要性を優先させるだけで満足出来なくなってしまう事だろう。この街の生活スタイルは外での行動が主役のようだった。働きから遊びに毎日の外食まで、全て外で行なう事が当然のよう。近隣住民にあいさつに行った時に告げられたことと言えば家でやる事なんて寝泊まりか次の朝のパンをこねるだけ、との事。かまどは貸出業者から借りることが殆ど、下手したらパンも外で買って帰る手もありなのだという。朝食以外においても自炊する方が高くついてしまうそうだった。
雑談で得た知識を纏めて見つめあうキールとユユの間に生まれた理解、それを先に口にしたのはユユの方。
「私たちが住んでた町とは違うね」
「全部女手だったよな」
男は仕事だけ、女は家庭の事、原始時代から伝わっているとされる狩りと家族の集団関係をそのまま引き継いだような思想。外の街との交流が盛んな家計という特殊な事情があるとはいえ、あの文明の中から学校の受験に臨む者が現れるなど思ってもみなかったことだろう。
「もうあの町には戻れないから」
住民男性の殆どが農家の町はもう過去のもの。戻ることもなく、ただ思い出として流れるだけの事。
運ばれてくる家具や布を敷いてその上に重ねられた衣服や食器を見つめてユユはため息をついた。
「ここの文化からして食器は要らなかったね」
勉強不足、学ぶ手段が殆どなかったとはいえ引っ越す前に役人に訊ねる事は出来たのではないかと後悔を絞って心を湿らせていた。
「いいんじゃないか」
キールの口から出てきたこの上なく前向きな言葉が眩しくて。
「都市では分からないし」
続けて出てきた言葉はユユをしっかりと励ましていた。
「そうだね」
少し昔のユユらしい言葉が出て来てくれただろうか、それとも足りないだろうか。
「早く荷物を整えよう」
キールは妙に張り切っている様子だった。きっと彼は観光がしたいのだろう。
「ええ」
答えてすぐさま作業に取り掛かる。わずか二ヶ月間の滞在の中で不要なものは出さない。必要なものだけ選ぶこと。食器類はほぼ必要としないためその場に放置、勉強用の書類はと訊ねたものの、キールは手を突っ込むことなくただ食器類の入った箱の隣に置くだけ。
そうして少しずつ流れて行った時間の中でユユは久々にキールと一緒に動くという事を味わっていた。
かつてキールの家族が育てる畑の仕事を手伝っていた。あの町の本来の社会への思想を考えると非常に悪い事だったかも知れない。しかしそれでも認めてくれたユユの父は間違いなく他の町の文化も見てきた目と思考を役に立てていた。
「一緒に成し遂げられることの喜びを知れ」
「それって昔の父さんの」
キールも覚えていたようで、曇っていた、どこか今を見ていないような、時折未だ訪れることない学校生活の方を見つめているような目が完全に現在を見ているよう。ユユにとっては待ち遠しかったこの時が訪れた瞬間だった。
「早く終わらせよう、夕飯がまだ」
「早くしなきゃ閉まるね」
それから少しの間、整理整頓にだけ目を向け意識を走らせて。
ようやく荷物整理の終わりにまでたどり着いたその後は流れるように食事へと向かって走り出す。
特に考えることも無く向かった食堂で野菜と肉の油漬けを思わせる炒め物とパン、玉ねぎのスープを頼み、炒め物をパンに挟み込む。油のぬめりが電球に照らされて照りを見せていた。
ユユの指がかわいらしく伸びている。パンを挟むその手を見つめ続けてキールは今までのユユからは感じられなかったものを、時を経て身に着いた女性特有の色気を感じずにはいられなかった。
「手ばっかり見つめてる」
「作業中は顔見てた」
言い返すべき部分を間違えているような発言ではあったものの、否定の感情を持ち出すことはしない。キールも男なのだ、少しのいやらしさに浸っている目を傍目にユユもまたキールの手を見つめていた。
「逞しさは足りない」
キールは気を落としてしまうだろうか。父親の手を思えば予想はついていたかも知れないか。
「けど私を支える事は簡単かな」
それから会話を挟みながら頂いたスープの温もりとパンの味わいと脂っこさに身を絡めながら温かなひと時を過ごして次の朝のパンの値段に驚愕を覚えつつも買って帰った。
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