第39話 苛められる男
――『苛められる側にも、原因がある』
その言葉を聞いたとき、縁もゆかりも無い外国語を聞いたような感覚に陥った。
相手がどのような意味の言葉を口にしているのかが、不明だったからだ。
だが、次の瞬間には、怒りを抱いていた。
学業成績が芳しくなかったり、目を背けたくなるような醜悪な容姿の持ち主などといった、自分よりも明らかに劣った存在ならば、その人間は虐げられても仕方が無いというのだろうか。
経験者からすれば、それはとんでもない暴論である。
他者に怒りを抱かせることを目的とした行為に及んでいたのならばともかく、俺は自分以外の人間を立腹させるために生きていたわけではなかったのだ。
それどころか、周囲と揉め事を起こさぬように生きていたのである。
そのように心がけていたものの、俺は虐げられることになった。
後で聞いた話では、どうやら俺の能力の低さや、醜い外見が理由だったらしい。
能力が低いことや外見が醜いことは、俺が望んだわけではないために、理不尽な話である。
***
当時の俺は、大人から褒められるほどに出来が良い子どもではなかった。
それでも、赤ん坊の頃からの付き合いである幼馴染とは良好な関係を築き、学校の友人とも喧嘩をすることがなかったことを思えば、良い時間を過ごしていたといえるだろう。
しかし、その穏やかなる日々は――とある女子生徒と同じ学級になったことで、崩壊することとなった。
同じ学級になったことはなかったが、それでも俺が知っているほどに、彼女は有名な存在だった。
それもそのはずで、父親は大企業の重役であり、母親は子どもから大人まで誰もが知っているような人気のある俳優だということに加えて、本人の学業成績や運動能力が他の追随を許さぬほどであることを思えば、黙っていても有名になるだろう。
彼女は、いわゆる『勝ち組』の人間だったのだ。
それでも、彼女はそれらを鼻にかけることはない人当たりの良さで、他の生徒や教師からの受けも良かったために、彼女と同じ学級になれたことは、幸福なことだと思っていた。
俺はそんな彼女から、とある放課後に呼び出された。
子どもながら、愛の告白でもされるのではないかと緊張しながら、待ち合わせの場所へと向かった。
浮き足だっていた俺を其処で迎えたのは、彼女だけではなかった。
複数人の男子生徒もまた、その場に存在していたのである。
その状況に対して、俺は疑問を抱いた。
彼女以外の人間が、何故この場所にいるのだろうか。
俺がそのようなことを考えていると、彼女が口を動かした。
何を言ったのかは不明だが、次の瞬間――男子生徒たちが一斉に飛びかかってきた。
突然の出来事だったために、俺は逃げることができなかった。
意味も分からず、俺は殴られ、蹴られ、唾を吐かれ、小便をかけられた。
暴力の雨が止み、激痛に苦しむ中で、彼女が俺に声をかけてきた。
「――明日から、愉しみだわ」
その言葉を聞いた後、俺の意識は消失した。
***
昨日の放課後のことを思えば学校を休みたかったのだが、俺の仮病は、呆気なく母親に看破されてしまった。
息子が怪我を負って帰宅したときには心配そうな様子を見せたが、その一方で仮病は許さぬとは、よく分からないものである。
渋々と登校した俺を待っていたのは――泥が詰め込まれた下駄箱だった。
その光景が現実のものだと信ずることができず、俺はその場に立ち尽くした。
其処で、俺は昨日の彼女の言葉を思い出した。
彼女の言葉は、これを意味していたのだろうか。
つまり、今日からずっと、昨日の放課後のような行為や、眼前の下駄箱のような嫌がらせが続くというのだろうか。
考えただけで身体が震えてしまうが、それと同時に、疑問を抱いた。
何故、彼女は俺に対して、このような行為に及ぶに至ったのだろうか。
これまで俺は、彼女と関わったことが無いために、彼女の機嫌を損ねるような真似はしていないはずだ。
にも関わらず、彼女はまるで、俺に対して恨みが存在しているかのような行為に及んでいる。
知らぬうちに、彼女が怒りを抱くような行為を、俺がしてしまったのだろうか。
だが、自分の行為が見知らぬ人間の怒りを買ってしまうかもしれないと常に考えながら生きるなど、難しいにも程がある。
しかし、怒りを抱くに至った理由を本人の口から聞き、俺がそのことについて謝罪することで、状況が変化するかもしれない。
――今にして思えば、この考えはおめでたいにも程があるものだったのだが、当時の俺は、真剣だったのである。
俺は気持ちを切り替えるために両手で頬を叩くと、泥まみれで使うことができない上履きを放置し、靴下のまま、教室へと向かった。
俺が姿を見せた瞬間――先ほどまで喧騒に満ちていた教室は、水を打ったように静まった。
登校した俺に対して、何時も声をかけてくれる友人もまた俺から目を逸らしていたために、教室内が異様な状況であるということは気付いたものの、具体的にどういう事態なのかは、分からなかった。
だが、自分の席の有様を目にしたことで、それが分かった。
机の上には様々な罵詈雑言が書き連ねられ、机の中には道端で拾ってきたものと思しき糞が入れられており、椅子には先端が天を向いた状態の数多くの釘が接着されていたのである。
おそらく、俺の机に起きたこの出来事が、教室内の異様な状況を作り出すことになったのだろう。
あまりの光景に立ち尽くしていると、何者かが俺の肩を叩いた。
「――さっさと座りなさいよ」
振り返ると、其処には邪悪な笑みを浮かべた彼女が立っていた。
その姿を見、その言葉を耳にした途端、俺は彼女に対して、何も言うことができなくなってしまった。
この人間には、あらゆる言葉が通じない――そのような確信にも似たものが、俺の脳内を支配したからだ。
蛇に睨まれた蛙のようになった俺から離れると、彼女は何事も無かったかのように友人と談笑を始めた。
彼女が離れたことは喜ばしいことだったものの、変わり果てた自分の席は、使うことができなかった。
其処で、俺は助けを求めるように他の生徒に対して目を向けたが――彼らは一様に目を逸らした。
その反応に、俺は衝撃を受けた。
昨日まで笑い合っていた友人に対して、誰も手を差し伸べようとしてくれないのだ。
今にして思えば、俺に手を差し伸べることで、自分までもが標的にされるのではないかという恐怖のために行動することができなかったのかもしれないが――当時の俺にとっては、彼らの反応は裏切り行為に等しいものだった。
俺が言葉を失い、呆然としてしていると、やがて授業の開始を告げる鐘の音が響いた。
それに合わせるようにして、担任教師が教室へと入ってきた。
俺は、そのときほど担任教師が頼もしいと思ったことはない。
他の生徒はともかく、大人である担任教師ならば、この状況をなんとかしてくれると思ったのだ。
ゆえに、俺は担任教師に向かって声をかけ、自身の席を指差した。
俺の行為に対して、担任教師は硬い表情のまま、
「何をしている。早く座りなさい」
――愕然とした。
担任教師は、学級内の問題を解決してくれるのではないのか。
それを行わないのであれば――何のために存在しているのか。
そんなことを考えていると、俺の後頭部に何かがぶつけられた。
床に落ちたものに目を向けると、それは丸められた紙だった。
それを拾うことなく見つめている俺に、次々と文房具などが投擲されてきた。
俺は腕で頭部を守るようにしながら、その場にしゃがみ込んだ。
――まるで、この教室に存在する全ての人間が、敵のようだった。
堪らなくなった俺は、教室から逃げ出した。
すぐに、教室から笑い声が聞こえてきた。
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