第36話 罰を受ける女

「本当に、体調に問題は無いのですか」

 ぼくの問いに対して、川嶋さんは即座に答えることなく、嘔吐によって汚れた口内を洗うためか、うがいを繰り返していました。

 やがて、彼女は濡れた口元を手巾で拭いながら振り返ると、

「ええ、大丈夫よ。具合が悪いというわけではなくて、吐き出したいものがあったから吐いていただけのことだから」

 川嶋さんは、普段と同じように振る舞っていましたが、その顔面は蒼白であるために、とてもかくても体調に問題が無いとは考えられません。

 たとい、彼女の言葉を信じたとしても、自身の喉に指を突き込み、己の意志で嘔吐しなければならないような状況に陥っているということになるために、何にせよ、川嶋さんのことが気がかりであることに変わりはありませんでした。

 ぼくの表情から、その懸念を読み取ったのでしょうか、彼女は大きく息を吐くと、

「――まあ、そうね。人吉くんには、話しておくべきなのかもしれないわね」

 川嶋さんは通学鞄を手にすると、無言で歩き始めました。

 どうするべきか分からず、ぼくがその場に立ち尽くしていると、彼女は此方に振り返りながら手招きをしました。

「場所を変えましょう」


***


「端的に言えば――あたしは罰を受けているのよ」

 川嶋さんと共に向かった場所は、以前にも彼女と二人きりで話す際に使ったことがある、人気の無い喫茶店でした。

 学校を出てその喫茶店に移動し、出入り口から最も離れた席に座るまで、それなりの時間がかかりましたが、それまでぼくたちの間に会話はありませんでした。

 おそらく、これから触れようとしている話題が、他者の耳がある中で軽々に扱うべきではないことを、互いに理解していたためでしょう。

 それぞれが注文した飲み物が運ばれると、川嶋さんは自身の珈琲に角砂糖を一つずつゆっくりと入れながら、不意に先ほどの言葉を漏らしました。

 他に客は存在しておらず、ぼくたちの間に漂う空気から何かを察したのか、店主は何時の間にか姿を消していました。

 その状況から、自分たちの会話を聞いている人間が皆無だと確信したために、彼女は話す気になったのでしょう。

 しかし、角砂糖の溶けた珈琲を匙で掻き混ぜている川嶋さんの表情は、決して晴れやかなものではなく、その話題を口にすることに対して嫌悪感を抱いているようにも見えました。

 にも関わらず口を開いたことを考えると、それほどまでに、ぼくに対して話しておきたいことなのかもしれません。

 ぼくは紅茶を一口飲んでから、

「川嶋さんの言う『罰』とは、どのような『罪』を犯した結果によって生じたものなのですか」

 平時のぼくは、自身の問いが相手にとって答えにくいようなものだった場合、『答える必要は無い』と前置きをするようにしていました。

 ですが、彼女がぼくに対して『話しておくべき』だと判断し、そのためにこの場所まで連れてきたことを思うと、そのような気遣いは、今は不要でしょう。

 ゆえに、ぼくは率直に問うたのです。

 ぼくの問いに対して、川嶋さんは自嘲にも似た笑みを浮かべると、

「――人吉くんに対する嫌がらせに、決まっているでしょう」

 ぼくは、紅茶を飲もうとしていた手を止めてしまいました。

 何故なら、ぼくに対する嫌がらせの件は、既に解決していたからです。

 ゆえに、彼女が罰を受けるなどということは、無いはずでした。

 たとい罰を受けることになったとしても、嫌がらせの一件で川嶋さんに対して罰を与えることができる人間が存在しているとするのならば、それは、ぼくだけのはずです。

 彼女が明確に敵意を向け、嫌がらせをしていた対象がぼくだけであり、ぼく以外の人間を傷つけようとはしていなかったことを思えば、そのように判断するのは、当然のことでしょう。

 その中で、川嶋さんは、性質の悪い三人組を雇い、ぼくを傷つけるために彼らを差し向けたこともありましたが、ぼくも三人組も、かすり傷を負うようなこともありませんでしたから、完全なる被害者と加害者が誰であるのかは、明白です。

 そして、その被害者であるぼくが、加害者である川嶋さんを許したために、彼女が言うところの『罰』を受ける理由など、存在していないはずなのです。

 にも関わらず、川嶋さんが『罰』を受けているとは――一体、どういうことなのでしょうか。

 ぼくの疑問に対して、彼女は珈琲を一口飲んでから、

「確かに、被害者である人吉くんが、加害者であるあたしのことを許してくれたから、あたしが『罰』を受ける必要は無いとあなたが思ったとしても、当然のことでしょうね。――それでも、完全なる無罪だということにはならないのよ。あたしが人吉くんに対してどのようなことをしたのかという事実は、無くならないから」

 川嶋さんは茶碗を置くと、ぼくの目を見つめながら、

「そして、人吉くんに対して嫌がらせを行ったことで――ゴウくんを傷つけることにもなってしまった。たとえ人吉くんがあたしのことを許してくれたとしても、ゴウくんからは、許しの言葉を貰うことはできない。何故なら、あたしはゴウくんとの関係を維持したいがために、人吉くんに対する嫌がらせの一件を明かすことはできないからよ。――だから、決して許されることがないゴウくんのために、あたしは『罰』を受けなければならないの」

 標的としていたぼくから許されたとしても、ぼくに対する攻撃の影響を受け、精神的な傷を負うことになってしまった山本くんには許されることがないために、自分は『罰』を受けるべき――彼女がそのように考えていることは、理解しました。

 それは同時に、川嶋さんに対して『罰』を与えられる人間は山本くんだということになるのでしょうが、事情を何も知らない彼が『罰』を与えるということは、不可能でしょう。

 つまり、山本くん以外の誰かが、川嶋さんに『罰』を与えているということになるのです。

 しかし、それは――筋違いではないのでしょうか。

 加害者が被害者から報復されるのならば仕方の無い話ですが、被害者と何の関係も無い相手から加害者が傷つけられるとなると、加害者はその『罰』を受け入れられないでしょう。

 ゆえに、直接的に関係がある人間同士で解決するべきなのです。

 一方で、公のものと化した事件ならば、被害者の代わりに、法が加害者を裁くことになるということは、誰もが理解していることでしょう。

 しかし、今回の件は内々で解決したために、ぼくや川嶋さん、そして、山本くん以外の人間が介入するような話ではありません。

 まして、ぼくや山本くん以外の人間が、川嶋さんに対して『罰』を与えることなどは、あってはならないのです。

 ゆえに、到底納得することはできませんでした。

 ぼくがそのことを伝えると、川嶋さんは薄い笑みを浮かべながら、

「人吉くんなら、そのようなことを言うと思っていたわ。だけど、これはあたしの問題だから、あなたが気にする必要は無いのよ」

 そのように言われたものの、先ほどの嘔吐していた姿などを考えると、彼女が受けている『罰』が、犯した『罪』に見合ったものなのかがどうかが、気になりました。

 被害者が肉体的に傷つけられていた場合、その報復の方法としては、加害者が被害者と同等に傷つけられることで、双方が納得することができるでしょう。

 しかし、山本くんを精神的に苦しめた『罪』に見合う『罰』とはどれほどのものなのか、ぼくには想像することができなかったのです。

 精神的な傷というものは、目に見えないからこそ、どれほど深い傷なのかが、分からないのです。

 そのことを伝えると、川嶋さんは眉間に皺を寄せながら口元を緩めました。

「確かに、わかりやすく数値化することなんてできないわよね。でも、ゴウくんが深く傷ついたことには、間違いないわ。だから――あたしが現実逃避をしたくなるほどに辛い目に遭えば良いと思っているのよ」

 そのように告げながら、彼女は手を動かし始めました。

 人差し指と親指で円を作り、それを前後に動かしていることの意味を知らないほどに――ぼくは初心ではありませんでした。

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