第33話 状況を利用する男

 ――このような生活の残り時間は、あとどのくらいなのだろうか。

 衛生的という言葉とは無縁の部屋の中で、頭の悪そうな男女が交わっている姿を眺めながら、そんなことを思った。

 人生において、『学生』という身分を得ている時間よりも、『学生』という身分を失っている時間の方が長いということは、誰もが理解しているところである。

 それが意味するのは、保護者の力に頼ることなく、自分が働くことで生きるために必要な金銭を稼がなければならない時間が、人生ではほとんどだということだ。

 働くということは、我慢の連続である。

 例えば、殺意を抱くほどに腹立たしい人間を前にしても、その相手に対して頭を下げなければならないような状況が訪れることは、珍しいことではない。

 これから先の人生において、そのような時間をずっと過ごさなければならないということを考えただけで嫌気が差すが、避けて通ることはできないのだ。

 だからこそ、『学生』という身分を持っている今――己の欲望に従い、好き勝手に生きようと考えていたのである。

 数秒前まで此方を馬鹿にしていた相手を暴力で屈服させ、靴を舐めさせることは、自慰行為にも似た快楽が存在していた。

 此方が有する力の強さに惹かれ、自身の肉体を提供することで、俺という後ろ盾を得ようとする頭の螺旋と股が緩んだ女を何人も相手にしたということは、同世代の人間が聞けば羨む話だろう。

 このような生活をこれからも続けることができるのならば、勿論そうしたいところである。

 だが――何事にも、終わりは存在しているのだ。

 快楽を得ているときには、そのようなことを考えることはないのだが、ふとしたときに、これから訪れるであろうつまらぬ時間の存在に意識が向いてしまい、気分が悪くなる。

 ゆえに、その気分を霧散させるべく、俺は生意気な相手に対して拳を振るい、教育の無意味さを体現している女たちに、腰を打ち付けるのだった。

 だからこそ、自分が善人であると考えたことは、一度も無い。

 事件や事故の報道を目にしたとしても、同情することなどなく、どのように被害者が苦しんだのかを想像して口元を緩ませていることが、その証左だろう。

 俺の実力を知って何らかの依頼をしてきた人間が存在したとしても、その依頼を遂行する途中で此方の立場が悪くなれば、依頼人を裏切ることに一瞬の躊躇もないのである。

 そんな自分が恥ずかしいと考えたことはないどころか、自分に正直に生きている姿を他者は見習うべきだとさえ、俺は思っている。

 そんな人間であるがゆえに、下心を抜きにして俺に近付こうとする他者など存在していなかったが、それは当然の結果だと考えていたために、寂しさに襲われることもなかった。

 しかし、それでも俺に関わろうとする物好きが、一人だけ存在していた。

 隣家に住んでいるためだろう、彼とは幼少の時分からの付き合いだった。

 だが、俺が他者に褒められることがないような道に進み始めると、互いに付き合う人間の種類が変わったこともあってか、共に過ごす時間は段々と減っていった。

 彼とは人間としての性質が異なるゆえに、疎遠になったとしても仕方の無いことである。

 また、そもそも幼少の時分と同じような関係を何時までも維持することはできないものであることは理解していたために、当然の結果として受け入れていた。

 ――それでも彼は、俺に対する態度を変えることはなかった。

 俺が、その姿を目にすれば誰もが避けるような評判の悪い人間と化しても、彼だけは、幼少の時分とは変わらぬ言動で、俺に接していたのである。

 俺という強者を後ろ盾とするために、親しい間柄であるということを周囲に示しているのではないかと考え、あるときそれを訊ねたところ、

「ああ、そういう考え方もあるのか」

 気が付かなかったというような反応を見せた後、彼は首を左右に振ると、

「きみをそういう対象として見たことはないよ。確かに、お互いに付き合う人間は変わったけれど、俺にとってきみが昔からの友人であることには、変わりないからね」

 恥ずかしげもなくそのような言葉を吐く彼を前にして、俺にしては珍しく、相手を馬鹿にするような言葉を口にすることができなかった。

 彼があまりにもおめでたいことに、呆気にとられたためか。

 俺のことを悪人として考えていないことに対して驚いたためか。

 あるいは――何の下心もなく俺と接してくれる人間が珍しかったためか。

 その理由は、分からない。

 同時に――胸の中でじんわりと広がったものの正体も、俺には分からなかった。


***


 彼に何かがあったと即座に分かったのは、ここ最近まで彼が浮かれる姿を目にしていたことが影響しているのだろう。

 彼が浮かれていたのは恋人ができたということが理由であり、それは彼らしい単純なものだった。

 そんな彼がどこか沈んだ様子を見せ始めれば、その変化に対して疑問を抱くのは自然のことだろう。

 俺は遠回しな物言いをすることなく、彼に対して疑問をぶつけた。

 彼はしばらく逡巡する様子を見せていたが、やがて開かれたその重い口から飛び出したのは、

「――実は、彼女から『別れたい』と言われてね」

 彼の話を要約すると、どうやら彼よりも好意を抱くような相手が現われたことが理由らしい。

 そして、その相手とは、彼が所属している部活動の後輩であるようだ。

 関わったことはないが、その名前を聞いただけで相手にするには分が悪いということがすぐに分かるほどに、その後輩は有名な人間だった。

 その後輩は、道を歩けば全ての他者の目を奪うほどの眉目秀麗という言葉が相応しい存在だが、その外見を鼻にかけることはなく、同時に、たとえ相手が自分よりも劣っていたとしても見下すことがない人当たりの良い性格であり、それに加えて運動神経が抜群だという、非の打ち所がない人間だったのである。

 そのような人間に恋心を抱いてはならないという方が、難しい話だった。

 そのことは彼も理解しているらしく、薄い笑みを浮かべながら、

「仕方の無い話だよ。同性である俺だって、その後輩には憧れにも似た感情を持ってしまうほどに、素晴らしい人間だからさ」

 ――俺は、自分が善人だと思ったことは、一度も無い。

 だが、自分に非が無いにも関わらず破局することになってしまった彼を見て――その心を少しでも楽にしてやりたいと考えた。

 同時に、そのようなことを考えた自分に、驚いた。

 俺は、己の欲望に従って行動し、他者を苦しめることで快楽を得るような人間だったはずだ。

 そのような人間が、誰かの心を楽にしてやりたいなどと思うことがあるとは、信じられなかった。

 自覚していなかったが、それほどまでに、俺にとって彼という存在が、大事だったということなのだろうか。

 どのような理由であるにせよ、俺が彼のために動きたいと思ったことは、間違いなかった。

 しかし――俺に、何ができるのか。

 これまで、俺は他者のことなどお構いなしに行動していたために、誰かの心を楽にするにはどのような行為が相応しいのか、まるで分からなかったのだ。

 誰かに相談してみようかとも思ったが、傍若無人だった俺が他者を案ずるような態度を見せれば、これまで築き上げてきたものが崩落することは、間違いないだろう。

 そうなれば、これまでのように自身の欲望に従って生きることが、難しくなる。

 そのような日々を失うことは避けたかったために、俺は、自分で解決策を考えなければならないのだ。

 だが、当然ながら、即座に思いつくようなことではない。

 沈んだ様子の彼を目にしながら毎日を過ごしていたが、妙案が浮かぶことはなかった。

 いっそのこと、彼に新たな女性を紹介してみるかなどと考え始めた頃――俺に、とある依頼が舞い込んできた。

 それは、俺の実力を活かすことができるものだったために、気晴らしも兼ねて引き受けることにした。

 しかし、依頼が達成されることはなかった。

 それは彼と同じで、相手が悪かったからだ。

 だが、達成することができなかったことに対する申し訳なさなどといったものは、感じていない。

 何故なら、俺は依頼をされただけで、報酬も何も受け取っていなかったからだ。

 依頼を必ず達成しなければならないというような状況ではなかったために、依頼人を裏切ることになったとしても、何も感ずることはないのだ。

 その依頼の一件以降、代わり映えのない日々が再び訪れるのだろうと思っていたが――現在の状況を見て、彼のためにそれを活かすことができるのではないかと考えた。

 それが何なのかといえば――くだんの後輩を物理的にも精神的にも苦しめることで、彼の心が少しでも楽になるのではないか、ということである。

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