第30話 騙された人間

「――こうして話すのも、久方ぶりですね」

 表通りからは目にすることができない場所に存在している、喫茶店。

 あまりの人気の無さであるために利益を得ることができているとは考えられないが、話を聞いたところによると、どうやら道楽でやっているために、店主はそれほど気にしていないようだった。

 ゆえに、内密の会話をする場合や、許されない関係の人間たちの逢瀬の場所として、この喫茶店が使われることが多かったのである。

 自分もまた、そのような目的のために来店していた。

 味はそれなりの珈琲を飲みながら相手の到着を待っていたところ――突如として聞こえてきたその声に、心臓の動きが止まったのではないかと思うほどに驚いた。

 何故なら、この場所に来るはずの人間は、その声の主ではなかったからである。

 驚きのあまり此方が言葉を失っている中、彼は口元を緩めながら、対面に腰を下ろした。

 紅茶を注文した後、彼は意識を此方に戻すと、表情を変えることなく、言葉を続けた。

「先に言っておきますが、彼らは裏切ったわけではありませんよ。依頼を遂行すれば報酬を得られるというだけのことですから、それ以外に関してはどのように動こうとも、彼らの自由です」

 彼は右手の人差し指を立てると、

「ですから、依頼をするとき、成功報酬にしない方が良いですよ。何も渡していないのならば、今回のように、依頼した相手が自分の想像とは異なる行動をする場合もありますからね。返却することができないものを先に報酬として渡しておき、相手が受けた依頼を取り消すことができないようにした方が良いでしょう。まあ、今後も今回のようなことをするつもりがあるのならば、ですが」

 彼のその言葉で、自分がまんまと騙されたことに気が付き、心の中で舌打ちをした。

 坊主頭の首領から、依頼についての大事な話があると連絡があったために、てっきり首尾よく事が運んだとばかり思っていたのだが――それは間違いだったのだ。

 坊主頭の首領とその仲間たちならば、その腕節から、眼前に座っている彼を下すことができると考えたために依頼したのだが――依頼した人間たちの性質が悪いということを、失念していた。

 他者から頼られればそれに応え、裏切るようなことはしないという、尋常なる人間と同じ感覚の持ち主ではないために、頼るべき存在ではなかったのである。

 自分を裏切った坊主頭の首領に対して腹が立つと同時に、己の詰めの甘さにも苛立った。

 だが、沸騰しかけた血液は、即座に冷たくなっていった。

 それは、坊主頭の首領との待ち合わせ場所に、眼前の彼が現われたことが理由だった。

 先ほどの口ぶりから察するに、眼前の彼は、坊主頭の首領と接触したのだろう。

 そして、どのような交渉をしたのかは不明だが、坊主頭の首領を利用して、此方を呼び出したのである。

 それを考えると、眼前の彼は――此方が坊主頭の首領に何を依頼し、何を実行させようとしていたのかを知っているに違いない。

 眼前の彼は、性質の悪い人間も逃げ出すような外見通りの実力の持ち主だが、自分から他者に喧嘩を売るような好戦的な人間ではなく、たとえ喧嘩をすることになったとしても、その理由は困っている他者のためということがほとんどだった。

 しかし、そのような人間であろうとも、自分の身が危険にさらされていると分かれば、自衛行為に及ぶのは、当然のことだろう。

 その肉体を物理的に傷つけていないとはいえ、自分に対して明確な敵意を持って精神的な攻撃を繰り返している人間の正体が分かれば、その相手を無力化しようと考えるのは、自明の理だった。

 ゆえに――眼前の彼が此方に対して報復行為に及んだとしても、不思議なことではいのである。

 それが意味しているのは、完膚なきまでに相手を痛めつけることで、自分に対して危害を加えようとする意識を二度と抱かせないようにするということだろう。

 これから己に刻まれるであろう傷の数々を想像し、思わず身を震わせた。

 坊主頭の首領たちが失敗し、眼前の彼が自分に辿り着くという可能性については、全く考えていなかったわけではない。

 それでも、そのような未来が訪れることはないだろうという根拠の無い自信の方が強かったために、自分がいかに楽観的だったのかが分かる。

 眼前の彼ならば、靴を舐めながら許しを乞えば無かったことにしてくれるだろうか――そのようなことを考えていたが、不意に、この場を乗り切ることができる可能性を有した言葉が浮かんだ。

 それは、今回の件において、『自分は黒幕ではない』と主張することである。

 当然ながら、黒幕ではないのならば、坊主頭の首領に何故あのような依頼をしたのかと問われるだろう。

 その場合――自分は『仲介役』だと主張すれば良いのである。

 諸悪の根源が、自分という存在に外部の人間が辿り着くことがないようにするために、様々な人間を仲介して悪事を働くということは、よくある手段だろう。

 つまり、たとい坊主頭の首領に依頼をした人間が自分だったとしても、自分もまた別の人間からそのように依頼するようにと頼まれたと主張することで、元凶が他に存在すると相手に思わせれば、この場を逃れることができるのである。

 そのためには、嘘を真実のように話さなければならず、誰かを黒幕に仕立て上げなければならないのだが――今はゆっくりと考えている時間は無い。

 即興で、なんとかするしかなかった。

 落ち着きを取り戻すために深呼吸を繰り返した後、眼前の彼に向かって、自分は仲介役であり、この件を計画した人間は別に存在していると伝えた。

 彼は黙って聞いていたが、やがて此方の言葉を聞き終えると、携帯電話を操作し始めた。

 そして、その画面を此方に見せながら、

「――これを見ても、同じことが言えますか」

 その画面を見て――ぎょっとした。

 その画面の場所は、疚しいことが無い人間ならば何とも思わないのだが、自分にとっては違っていたからである。

 此方が動揺するのを目にしてから、彼は画面に軽く触れた。

 画面に動きは無いが、表示されている時間が経過していくところを見ると、単なる画像ではなく動画だったようだ。

 画面に映っている場所を思えば、この後に何が起きるのかなど分かっていたが、目を逸らすことはできなかった。

 そのような行為に及べば、事情を知っていると思われることは確実だったからだ。

 ゆえに、画面を見つめることしかできなかったのである。

 やがて画面には、自分が誰よりも知っている人間が、姿を現わした。

 その人間は、周囲が無人であることを確認するかのように方々へ視線を向けた後――とある下駄箱の扉を開いた。

 そして、鞄の中から容器を取りだし、蓋を開けると――その中身を下駄箱の中へとぶちまけたのである。

 以前は赤々とした液体が流れ出ていたその下駄箱から、今度は毒々しい紫色の液体が流れ出ている。

 下駄箱に液体をぶちまけたその人間は、再び周囲に人気が無いことを確認すると、蓋を閉めた容器を鞄の中に入れ、足早にその場から去って行った。

 画面に映る人間が存在しなくなったところで、眼前の彼は携帯電話を仕舞うと、

「隠し撮りという行為は褒められたものではありませんが、撮影している場所は下駄箱だけですから、困る人間もほとんどいないでしょう。それでも問題が生じた場合には、事情を説明すれば、理解してくれると思います」

 其処へ、彼が注文した紅茶が届けられた。

 彼はそれを一口飲むと、洋卓の上で肘を立て、手を組みながら、

「――では、本題に入りましょうか」

 彼は穏やかな表情を浮かべながらも、此方の心の中を見透かすような目つきで、

「先ほどの動画の通り、ぼくの下駄箱に悪戯をしていたのは――あなたで間違いありません。あれを見て、『黒幕は別に存在している』などという世迷い言を続けるつもりはありませんよね」

 其処で、自分が眼前の彼の罠に嵌まったことに、ようやく気が付いた。

 これまで自身の机や下駄箱などを汚されながらも、眼前の彼は、それらを綺麗にしようとはしていなかった。

 おそらく、掃除をすれば再び汚されると考えていたためなのだろう。

 にも関わらず、ある日、眼前の彼は、突如として、汚された品々を綺麗にし始めたのである。

 あまりの汚れに、さすがの彼も気になったためだと考えていたが――それは間違いだった。

 汚された場所を綺麗にすれば、再びそれらを汚すために行動する人間が現われると考えていたのだ。

 だからこそ、先ほどのような隠し撮りが成功したのである。

 黒幕である自分をおびき出すその手法は惚れ惚れするほどであり、まるで、自分が彼の手の平で踊っているかのようなだった。

 ――思わず、笑ってしまった。

 自分は、あらゆる点において、眼前の彼には敵わないのだ。

 そのことを理解していたにも関わらず、何故彼に喧嘩を売るような真似をしてしまったのか。

 ――理由は単純だ。

 それでも、譲れないものがあったからである。

 だが、此処まで来てしまっては、敗北を認める必要があるだろう。

 そして、敗者として、彼の求めには応えなければならないのだ。

 そのようなことを考えていると、彼は穏やかな表情のまま、

「ぼくが知りたいのは、何故あなたが今回のような行為に及んだのか――ということなのです」

 其処で彼は再び紅茶を一口飲んでから、

「その件について、答えていただけますか――川嶋さん」

 人吉くんのその言葉に――あたしは首肯を返した。

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