第7話『差し向う奴ら』
──見間違いじゃない。
高さはこちらとほぼ同じくしているものの、対岸との距離は近視気味な眼を瞼で軽く絞らないとよく見えない程度には開いている。
なので引け腰で岸壁を覗くその姿が子供のものであると踏んだのは、辛うじてはためくジャケットとスラックスに着られているような風体から推し量っただけのものに過ぎなかった。なのでうつむき気味のその顔立ちなど碌に拝めるはずもなく──身長も制服の裾と同じ方向へ流れる髪の長さも微妙で、性別の判断も付きかねる有様だった。今は多様性の時代だか何だかで、女の子でもスラックスを選べる学校が増えているというし。
箸を持ち上げたままなのも忘れてしばらく眺めていると、お互いの間へ急に大きな風が吹いた。上に乗っていた米が風に飛ばされて崖の下へと落ちていく。思わずその行方を追った目を基に戻そうとしたとき、そこで初めて数歩後ずさった子供と目が合った。
……今、『あっ』って声に出したな。多分。
元々高い所が得意なわけではないんだろう。すっかり臆病風に吹かれて下がっていた両眉が、こちらを認めるなり一瞬で驚きに吊り上がっていた。そこから数秒の間を置いて浮かべた渋い表情は、恐らく意図せず他人に見られたくない姿を見られたことへの羞恥に起因しているのだろう。
何せ一世一代の出鼻をくじかれたんだから無理はない。申し訳ない気持ちはある。
けど、その不都合はこっちも同じだなんだけどな。
軽く心の中で毒づきながら、これからどうするかという疑問を自分へ投げかける。向こうもどう動くかを決めかねていたのか、絶壁を挟んだ奇妙な睨み合いはだいたい2分弱くらい続いた。それから半ば根負けのような形でこっちが先に立ち上がり、すっかりと冷めた弁当に一旦蓋をして歩き出す。
そうして対岸まで大きく迂回するまで間に時々目を向けると、子供の顔は常にこちらを驚きの色を浮かべたまま捉えていた。
「来ないで!」
そして互いの距離が10歩分にまで近づいてきた途端、勢いよくご挨拶の文句が飛んできた。思っていたよりも細くて高く、透き通った声。それを懸命に震わせて睨みつける様は、何かに怯え切って吠えたてる子犬を思わせた。
構わず近づいて初めて映るディティール──裄丈が余り気味なせいで着られている印象が拭えない制服姿や、整える事に頓着が無いような前髪──をやっと束ねる髪留めの色使いが、余計にその年頃を分からなくさせた。
足元で口を開いているバッグの端に付いている、見覚えのあるアクリルキーホルダーもそうだ……というかあのいわゆる学生カバンって、まだ現役なのか。リバイバルブームって奴なのかな?ネイビーの生地に銀灰色の太い持ち手がぐるりと通っているデザイン。その中央にある『H・I』という刺繍の斜め書きはイニシャルだろうか。
──なんて観察と見極めに時間を費やしていたせいで、つい続く声を掛けるのを忘れていた。こちらが何の反応も示さない見るや、子供は思い出したように曲がっていた背を直した。一度こちらをきっと睨みつけてから、すっかり崖に対して向けていた背を反転させる。
「こ、来ないで、下さい……」
同じ文句で警告を繰り返すものの、効果が疑わしいからか最初の勢いはすっかり失われていた。支柱を抜き取られた朝顔の蔓みたいに頼りなく揺れるその声と同様に、こちらを見る眼も怪訝さと懐疑にゆらゆら泳いでいる。
「これでやっと、楽になれるんです。だから」
「いや、別に止める気はないけどさ」
──えっ?
それまで突然の乱入者へ潜めていた眉が、はっきりと驚きに形を変えた。
とはいえこちらも頭の中で続きを組み上げながら言葉を発している訳ではないので、ひとまず座り直して弁当箱を開けながら時間を稼ぐ。
「ちょ、え?どうして、ごはん……?」
浮かべている顔の沈痛さからは、ちょっとシュールにすら聞こえる言葉だった。飛び降りに声を掛けた人間が取る行動として、余程予想外だったのだろう。しかしその子はすぐに表情を自嘲じみたものへと戻し、俯きがちに逸らした瞳で弾劾を見やる
「……そう、ですよね。自分の事なんか、誰も止める訳ないですもんね。何の取り柄もない、生きてるだけ無駄な──」
「いや知らんがな、そんな事」
──絶句が音になって聞こえるようだった。
短い文句で嘆きを遮って、引き続き牛肉を掻き込む。そんな俺を見る子供の顔は、もはや完全に呆気に取られているようだった。
明らかに事情を気にして欲しそうなオーラを醸しておきながら、こっちの態度は完全無視して自分の結論へと突っ走っている。そんな対応に若干のイラつきすら覚え始めていた。
どうしてこう、今わの際まで望み通りにならんのか。
俺はここに『いのちの電話』や『出張こども相談室』をやりに来たわけじゃないんだぞ。
「……今さっき出会ったばっかりの奴にてめえの人物評訊かれても、その、なんだ。困るんだよね」
「じゃあ、どうして」
こっちに来るのか。
放っておかないのか。
そう問いたいのだろう。対してこちらが用意している答えは、十中八九お望みのものではない。どう答えたものかと迷っているうちに、こちらを見る眼の奥が段々と非難の色を滲ませ始めた。
「み、見せ物じゃないんですよ──」
「いや面白半分で見てる訳でもないから。先客がいると、ちょっと飛びづらいなってだけ」
弁当箱の端についていた漬物を、口の端でぽりぽりと齧りながら誤解を解く。どういう訳だか米や肉と比べて、この茶色い沢庵だけは妙に温もりを残していた。
「先客──」
──あ、やべっ。
余計なことに関心を払っていたせいか、つい口が滑ってしまった。
そこに多少のしくじりを覚えているうちに、こちらを見る目が別種の驚きに丸みを帯びていく。
「あ、あなたも?」
「あー……まぁ、ね」
曖昧な答えと表情を濁す俺を見る視線が、今度は何か珍しいものを見たかのような無遠慮さを以て上下左右に往復した。
ちょっと根暗そうだけど、よくよく感情の動く子だなあ。今の俺とは真逆だ。
目まぐるしく変わるその表情を眺めながら、ぼんやりとそんな感想を抱く。同時に初めてここへ来た目的を口に出したことで、心の内へ湖面に小石を投げたような揺らぎが広まっていくのを感じていた。
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