短編『仕事でやらかして死にたくなった時に読む噺』
三ケ日 桐生
第1話『みっともない奴』
職場でわあわあと泣いてしまった。
そのせいで今、夕暮れにも早い商店街をとぼとぼと歩いている。
きっかけは他愛もない、ほんの些細な失敗だった。
ただ今日は朝から何かとケチの付いて回る1日で、アラームが鳴らずに朝飯を食べ損ね、改札に引っ掛かって電車を1本逃し、営業に持っていく資料を忘れた上、そんなときに限って虫の居所の悪い得意先に怒鳴られて辟易はしていた。
極めつけは昼に入ったラーメン屋で、炒飯のセットについてきたスープに胡椒の山を作ってしまった事だ。
無論わざとじゃない。瓶を傾けた途端に蓋が取れ、叫ぶ間もなく2割がた残っていた中身の全てが流れ出ていった。店主の冷たい視線を背中に感じながらひと口啜ったものの、とてもじゃないが食べられたもんじゃかった。注文し直すにも昼の時間に間に合う筈がなく、残った炒飯を掻き込んで逃げるように店を出た。
気分転換にいつもと違うものを頼んだことが、思い切り裏目に出た。普通のラーメンにしておけば、あの胡椒の量が入ったところで何とか食べられたかもしれないのに。
……たまたま、ちょっと、不運とタイミングの悪さが重なっただけさ。
理不尽に軽くなった財布をポケットにしまいまがら、いつもの呪文を唱えて動機を落ち着かせる──その『たまたま』がもう10何年連続している気もするけど。
とにかくそんな自己暗示と深呼吸に缶コーヒーの一気飲みを加え、仕上げに煙草を半箱消費する事でどうにか抑え込む。そんないつもルーティンが功を奏し、昼飯も食べ損ねたもののどうにか普段通りの午後を迎えられた。
そう思っていたのだが、夕方締め切りの稟議書にペンを走らせている(未だこのご時世に手書き?と思うだろうが、上がITに疎ければ有り得る話なのだ)うちに同じ漢字を繰り返し間違えた。
多分、それが最後のひと押しだったんだろう。
何度も擦られてすっかり薄黒くなった紙に三度目の消しゴムを掛けているうちに、何の前触れもなくぽたぽたと涙が落ちてきたのだ。
初めは本気で、頭上にある空調の吹き出し口から水が落ちて来たのかと思っていた。視界がぐにゃぐにゃと輪郭を失っていったところで、ようやく今机を汚しているのが自分の涙だと気付いた。そこからはもう、心が坂道を転げ落ちるかのようにあちこちに傷やヒビが走って、そこから頭へと痛みが駆け上がってきた。
ここは会社だぞ、いい大人が何を、と一般論で堪えようとしても全く効果はなく、押し殺していた鼻の啜りが嗚咽から雄たけびに似た泣き声に変わるまで、そう時間は掛からなかったと思う。
堰を切ったように──とはよく言ったもので、身体のどこにそんな貯め込んでいたのかと不思議になる程延々と、涙が頬を伝って顎へと落ちていく。もう稟議書は読める箇所の方が少ない程、びしょびしょのぐしゃぐしゃになっていた。
けれど、ここまで号泣といって差し支えの無い醜態を晒して尚、誰も声を掛けてくることはなかった。
天井を仰いで大口を開けたあたりでどよめきくらいは起きたもの、その後に気遣う声ははおろか嘲り笑いさえも続いてこない。
入社以降どころか、もしかしたら人生全体を省みても有数の注目を集めただろうに。まるで見えない壁があるかのように一定の距離を保っていた視線は、しばらくするとまるで自分が見えていないかのように各々の仕事へと戻っていった。
どう声を掛けて良いかわからなかったのか、あるいは声を掛ける気すら起きなかったのか。恐らく、理由としてはどちらも正しいだろう。何せ不惑の歳が見えてくるような中年が、何の前触れもなく声を上げて泣き出したのだ。とにかくその場にいる誰もが、突如としてオフィスのど真ん中に生まれた『異質』を扱いかねていた。
──心をダムに喩えるとして、その決壊というのはいちどの台風や豪雨のような大きな出来事で引き起こされるのではない。
きっとそれまで少しずつ、上手く消化していたつもりのストレスは実のところ澱のようにたまっていて、表面張力いっぱいになったのが今日の昼。それが誤字というスポイトの一滴でいよいよもって溢れてしまったんだろう。
どうしてこんな簡単な事も出来ないのか。
どうして周りと比べて上手くいかないのか。
どうして失敗ばかりを繰り返すのか。
どうして自分は、俺は、僕は。
思考は勝手に物心つく頃にまでまで遡り、自責という刃を探し出しては律儀に自分へ突き立てていく。そのたび涙はまるで湧き水のように、いくらでも溢れてきた。
ただ今でも意外に思うのは、自分で思っていた以上に、周囲に対する恨み節の類は浮かんでこなかったという点だった。社会に適応しきれない
だから、こんなに泣いたところで何も変わることはない。
悪いのは環境ではなく、不完全に生きている自分そのものなのだから。
そんな乾ききった結論に達する頃にはいい加減頭も冷え、もはや痛みにも慣れ始めていた。それでも嗚咽を止めないのは、泣き続けていないとこの後どうしていいか分からないからひとまず泣き続けている……という本末転倒な状態に陥っていた。
誰かが声を掛けてくれるまで、というおもちゃ売り場の幼児みたいな打算を胸に、半ば義務感に苛まれながら声を上げ続ける。
『今日はもう帰っていいから、少し休みなさい』
泣き崩れてどれくらい経っただろう。1時間か、あるいは5分も過ぎていないのか。
休む間もなく天井に向かって叫んでいた喉が掠れて痛みを訴えてきたころ、遠慮がちな課長の呼びかけが後ろからそっと肩へ乗っかって来た。
腫れもの扱いを絵に描いたような顔で絞り出されたその声に一瞥だけをくれたきり、何を答える事もないまま椅子から立つ。午前中に持っていくはずだった資料が入ったままの鞄を引っかけてエレベーターへ歩き出すと、遠巻きに成り行きを伺っていた野次馬の波がさっと引けていく。やがて見たことはないがモーセの奇跡が如く割れて、気の早い花道を作ってくれた。
そういえば、今日は第3週末恒例の飲み会があったっけ。
これできっと話題には事欠かないだろう。
久々に自分の存在が、社内に貢献できたかもしれない。
「お先に失礼します」
そんな事を思い浮かべていたせいか。
冷え切った頭で口にした最後の挨拶はどこまでも普段通りで、すれ違いざまに俺の顔を覗き込んだ女子社員が小さく悲鳴を上げた。
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