深淵に喰われた大魔導士
三坂鳴
第1話 闇の城の返り討ち
漆黒の雲が垂れ込める夜だった。
王国騎士団長ライオネルは、荒れ果てた高地にそびえ立つ城門を睨みつけながら、呼吸を抑えて足を進める。
背に翻る傷だらけのマントは、これまで幾度となく血と鋼が交錯した激戦をくぐり抜けてきた痕跡そのものだった。
周囲の兵たちが彼の手の合図で慎重に隊列を組もうとするが、夜陰に溶け込む異様な気配が身体を内側から凍らせ、武具の鳴る音すらごく小さく感じられる。
「全員、抜剣しろ」
ライオネルは低く命じる。
金髪碧眼の瞳にはいつもの猛々しさがうせ、焦燥の色がかすかに浮かんでいた。
鎧の隙間をすり抜ける冷たい空気がいやに皮膚にまとわりつき、汗も凍るかのような不気味さを感じさせる。
それでも彼は剣の柄を乱暴に握り締め、心の奥に沈む恐れを断ち切ろうとしていた。
木製の門が腐ったような軋みを上げる。
そこから吐き出される空気は生温かく、鼻を刺すような腐臭を伴っていた。
ライオネルの背後では複数の騎士が息を呑み、抜いた剣先がかすかに震えている。
「まさか、これほどとは……」
後方に位置していたイシュランが声を落とす。
三つ編みにまとめた黒髪の先がしっとりと湿っていて、彼女の瞳には拭いきれない不安が宿っている。
かつての彼女なら、師と共に優しい笑みを浮かべて薬草の手入れをしていたはずだが、今は闇の底に踏み入る焦燥しかそこにない。
彼女の胸には、偉大な大魔導士だった“師”の記憶が未だ鮮明に焼き付いていた。
その慈悲深い人柄が、いつからか恐怖の象徴に変わってしまった――どうしても受け入れ難い事実が脳裏を離れない。
それでも、イシュランは後ずさりするよりも自らの足で突き進む道を選んだ。
残酷な現実を悟りながら、師を想う心だけが彼女を支えている。
ライオネルは荒い呼吸を抑え、意を決したように片手を高く上げる。
「突破するぞ。後戻りは許されん」
無謀なほどの決断に見えても、ここで止まればそれこそ死あるのみ。
兵たちは声を上げて応え、門を壊す勢いで突入を開始した。
城内へ踏み込んだ瞬間、血臭の濃さに目と鼻が刺激され、視界がわずかに揺らぐ。
薄紫の瘴気が廊下を満たし、粘りつくような闇が壁を覆っている。
頑丈だったはずの石壁は苔とこびりついた黒い体液に覆われ、無数の騎士の亡骸が踏みつけられた形で散乱していた。
潰れた兜からは赤黒い脳髄がはみ出しており、甲冑の胸元を真っ二つに裂かれた身体が折れ曲がるように横たわる。
血の混じった粘液が、わずかに生暖かい蒸気を立ち上らせている。
誰かが鋭い声で何かを叫んだ。
その方向を向いたとき、壁際の闇から恐ろしい叫び声とともにアンデッド化した魔物が躍り出る。
腐りかけた顔面に張り付いた皮膚は青黒く変色し、下顎は歪んだ角度でぶら下がっている。
ライオネルは剣で首を断ち切ろうとするが、魔物は切断された部位から膿のような液を垂らしながらも、恨めしそうに喉を鳴らし、なお足を引きずって近づいてくる。
「くっ……魔法班の援護を頼む」
ライオネルの声は焦りに震えている。
すると、後方からイシュランが術式を詠唱する。
「《聖障壁》」
柔らかな輝きが半球を描き、魔物の手足を焦がすように弾き飛ばした。
だが、その瞬間別の廊下から同様のアンデッドが続々と押し寄せてくる。
いずれも腸や内臓を垂れ流し、舌だけが異様に伸びた者や、両腕がもぎ取られたまま引きずる者まで混じっていた。
やがて、廊下の突き当たりから不自然に開いた扉がぎしりと音を立てる。
そこに立っていたのは、見るからに生きてはいない肉体が、宝珠の輝きによって動かされているような存在だった。
衣装の破れ目からのぞく骨と乾いた皮膚が、まとわりつく血煙の中で際立つ。
どう見ても、かつて生者だった名残は薄い。
「師匠……」
イシュランの声がこぼれ落ちるように震えた。
先端に不穏な紫光を宿す杖と、その宝珠から放たれる脈動が、石床を妖しく照らしている。
アンデッドリッチとなったアールヴェルトの眼窩は、空虚な闇に満たされていた。
「お前たちが、また来たのか」
しわがれた響きが耳を突き、兵たちの心を締め付ける。
一見、ゆっくりと杖を振っただけなのに、空気が激しく渦を巻いて闇の電撃へと変わる。
それは前線にいた騎士たちの身体を何本もの黒い矢で貫き、内臓を飛び散らせながら壁に叩きつけた。
悲鳴が交錯する。
何度も戦場をくぐり抜けたライオネルの部下たちが、意思とは無関係に断末魔を上げて崩れ落ちる。
脳漿や血が勢いよく噴き出し、まとわりついた瘴気がそれらを黒く染め上げる。
詠唱を仕掛けた魔法兵も、声を放つより早く首をねじ切られ、喉元から泡立つ赤黒い液体を吐き散らしながら命を落とす。
魔力の奔流が廊下全体を制圧し、破砕された肉片が床や壁に張り付き、血の鉄臭さが息苦しいほどに濃くなる。
ライオネルは激痛をこらえながら剣を握るが、まるで重圧に潰されるかのように膝をついてしまう。
「このままじゃ……全滅する」
声を振り絞っても、刹那に無惨な死を迎える仲間の姿ばかりが視界に飛び込んでくる。
鎧越しに伝わる魔力の衝撃は、心臓を握り潰そうとするかのように脈打っていた。
「師匠、どうして……」
イシュランのか細い問いかけは、血と硝煙の臭いにかき消されそうになる。
アールヴェルトの空洞になった瞳は、彼女をただ冷ややかに見下ろすばかりだ。
その瞳に慈悲の欠片は見当たらない。
「撤退しろ。生き残った者は急いで外へ」
ライオネルが肩で息をしながら叫ぶ。
鎧の継ぎ目から赤い液体が流れ、手足の震えが止まらない。
部下を見殺しにするのは苦痛だったが、この場に踏みとどまればさらに惨い死が訪れるだけ。
通路のあちこちで倒れ伏す騎士たちは、内蔵を吐き出しながら断続的に痙攣し、もはや武器を持ち上げることさえできない。
片腕だけが残った者が呻き声を上げながら助けを求めようとするが、闇の魔力に再度貫かれ、瞳から光を失った。
アールヴェルトは、まるで死神のように静かに近づいていく。
すでに人間とは違う時間の流れを感じさせる動きで、一つひとつの命を無遠慮に刈り取るような冷酷さだった。
イシュランは涙を溜めた瞳で師を見つめるが、その姿は悪夢の化身にしか思えない。
かつての慈悲深い笑顔はどこへ消えたのかと、胸が張り裂けそうになる。
だが、濁った紫電の放つ閃光をかいくぐるだけで精一杯だ。
傷ついた兵の呻き声が耳を刺し、血にまみれた床に足を取られそうになる。
切断された腕や脚が転がる通路を、ライオネルたちは必死に後退していく。
一部の兵が石壁の崩落に巻き込まれ、狂乱の叫び声を上げて息絶えるが、救う暇はなかった。
城内では背後から絶叫がこだまするが、それを振り返るという行為は死に直結する。
「くそ……」
ライオネルは深手を負った腕を押さえ、悔しげに奥歯を噛み締める。
騎士団長として誇り高くあろうとする意志は潰え、それ以上の犠牲を出さないためには撤退しか手段がないと悟っていた。
イシュランも最後に振り返ったとき、師のアンデッド化した手足が生々しく闇の中でうごめくのを目にし、足がすくむ。
砕けた兜、折れた剣、内臓を散乱させたまま動かなくなった兵。
異形と化した魔物たちは飢えた喉を鳴らし、人間の死肉に舌を伸ばしている。
その無残な光景から目を背けるように、ライオネルとイシュランは残ったわずかな兵を連れて城門を突破した。
薄暗い夜空が見えたとき、凍った風が吹き抜け、血まみれの身体を切り裂くように通り過ぎていく。
ライオネルは片膝をつきながら必死に息を整え、視線を再び城へ向ける。
崩れかかった石造りの尖塔が紫色の妖光に揺れ、すぐ背後からは亡者たちの唸り声が追ってくる。
イシュランは震える口元を必死に噛み、杖を握る手の力が抜けきりそうになる。
遠くから見た城は底知れぬ闇そのもので、そこに今も師がいるという事実が心の奥に突き刺さる。
しかし、助けを求めて倒れ込む兵たちに回復魔法を施そうとしても、あまりの闇の毒気に術式が阻まれ、思うように治癒できない。
「まだ、死なないで……」
イシュランが震える声で呼びかけるが、その多くは虚しく血泡を吐き、ぐったりと沈黙していった。
ライオネルは兵士の一人を抱え上げようとするが、あちこちに開いた深い裂傷と噴き出す黒い血を見て、死の濃厚さに思わず目を伏せる。
「……悪いが、耐えてくれ」
まだ動ける兵士たちは、互いに肩を貸し合いながら茫然自失のまま荒野へと退却していく。
振り返れば、城の中から狂気に満ちた視線を感じる。
荒れ果てた夜空の下、その場所に踏みとどまろうとする者は、もはや誰ひとり存在しなかった。
イシュランは渇いた唇をきつく噛み、血と硝煙の立ちこめる風に逆らって歩みを進める。
声にならない慟哭が胸に溢れ、記憶の中の優しかった師の姿が凶悪な幻影に重なる。
その表情を見て、ライオネルは声をかけることができなかった。
喉まで上り詰めてくる感情を無理やり飲み下し、残った兵の命をつなぐために動くことが最優先だと自らを戒める。
再度、耳に届く城内からの断末魔に、誰もが震え上がる。
門の外壁を回り込んだとき、また数名の騎士が血塗れの姿で倒れていたが、すでに助ける術はなかった。
ライオネルはうめき声を上げる死にかけの兵士に視線を落とす。
が、彼の肩越しに見える城の影は、まるで闇そのものが意志を持って形を成しているかのように歪み、蝕み続けている。
不気味な光が外壁の割れ目から漏れ、そこから瘴気の帯がうごめいているのが見えた。
狂信とも思える破滅の力を宿したその場所に、アールヴェルトがいる――そう実感しただけで、イシュランは息が詰まるほどの恐怖を覚える。
「ライオネル、急ぎましょう。これ以上、被害が広がれば……」
彼女はわずかな声で言い、悲愴な面持ちの騎士団長もまた無言でうなずいた。
城の方角からは終わりなき叫びと咆哮が交錯し、砕かれた骨と金属がぶつかる音が風に乗って響いてくる。
その夜の闇の下、わずかばかりの生存者は決死の思いで退却を続けた。
振り返る者などいない。
まだ息のある者たちは、ただ地獄を脱するために足を引きずるように前へ進むだけだ。
死と呪いの只中にある城を背に、ライオネルとイシュランは下を向いたまま言葉を失っていた。
そこには、師への敬愛が砕かれた弟子の嘆きも、仲間を喪った騎士団長の痛切な後悔も、やり場のない憎悪の炎も共存している。
ふたりの視線は交わらない。
ただ、生き残りたちの呻き声だけが暗い大地にこだまする。
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