第7話 母が描く未来

 庭園を抜けた先、青々とした木々に囲まれた東屋ガゼボで、俺――若とアーテル=グラキエスは、一人の女性と出会った。鮮やかな衣装と、あふれんばかりのフェロモンをまとった、まさに傾国の美女と噂される妾アウルム。館の中で見かけることはあったが、こうして間近で話すのは初めてだった。


 アウルムはにこりと笑いかけると、躊躇なく口を開く。


「アーテル。一緒にお茶でもいかがかしら?」


 ふわりと揺れる赤い生地の衣裳。館のほとんどの女性は侍女を従えているのに、彼女はなぜか一人きり。俺が不審に思う間もなく、アウルムは東屋ガゼボのテーブルへと案内する。


「ごめんなさいね。マナーが悪いと思われるかもしれないけれど、私、侍女を連れずに過ごすのが好きなの。周りに気を遣うと、どうしても疲れてしまうから」


 そう言うや否や、彼女は自ら茶器を取り出して湯を淹れ始める。その滑らかな所作には言いようのない艶やかさがあり、思わず雑念を払うように、俺はこっそり脳内でアーテルと会話を交わす。


 ――派手な見た目とは裏腹に、自分で茶を淹れてるんやな。侍女もおらへんし、警戒しておいた方がええか。


 すると、アウルムはさらりと笑って言った。


「毒なんて入っていませんよ。むしろ私自身が毒だなんて言われるほうが多いのだけれど」


 妖艶な微笑みに、俺は少し身構える。確かに傾国の美女ともなれば、辺境伯が留守中に浮名を流しているという噂もあるのも仕方ない。だが、彼女の瞳には、その妖しさと同時に、何か別の意図が宿っているように感じられる。少なくとも、敵意は見受けられない。


 茶を一口啜ったところで、アウルムは切り出した。


「あなたにお願いがあるの。……もしアーテルが後継者となった暁には、私の息子、カエルラを取り立ててはくれないかしら?」


 どこか切実な声音が意外だった。世間では彼女を遊び人と揶揄する者もいるらしいが、こうして話してみると頭の回る女性だとわかる。外見の派手さとは裏腹に、一人の母親として強い想いを抱いているのが伝わってきた。俺はわざと軽い調子で問い返す。


「弟のカエルラとは、それほど面識がありませんが、どうして僕に?」


 アウルムは頷きながら、カップを持つ手を小さく震わせた。


「平民出の私が産んだ子ですもの、継承権も持っていない。辺境伯にとっては妾の子にすぎないでしょう。でも、それでも私はあの子の将来を閉ざしたくないの。……もちろん、声をかけているのは、あなただけではないわ」


 あえて暗殺のような下策に走らず、こうして正面から願いをぶつけてくる様子に、俺は心が少しざわつく。彼女の派手な装いだけ見れば軽蔑する者も多いだろうが、実際には息子を出世させるためにあらゆる手段を探っている。自分を犠牲にすることも厭わない姿勢は、まるで母性の塊のようだった。


(カエルラは闇系魔法に天稟の才を持つ子だと聞いたことがある。彼が協力者になってくれたら、僕らにとって心強いかもしれない。だが……闇魔法は危険も大きいぞ)


 脳内でアーテルが呟く。そう、カエルラはまだ十歳にも満たない少年ながら、陰惨な力を扱う闇魔法の素質を持つという。妾の子として周囲からは白い目で見られがちで、彼本人がどう思っているのかも気になる。


 アウルムは少し息を吐き、言葉を継いだ。


「知っているかしら? カエルラには闇系魔法の強い適性がある。でも平民出の私には、息子にふさわしい学問の環境を整える力なんてないわ。貴族の親戚もいないし、実家からの助力もない。辺境伯家にいるとはいえ、私やカエルラの序列は低いまま……いずれ、誰かにとって邪魔な存在になってしまうでしょうね」


 確かに、館の中での扱いは芳しくないだろう。アウルムが母としてカエルラの将来を憂慮するのは当然だ。彼女はさらに視線を落とし、言い切るように言葉を続ける。


「誤解されるかもしれないけれど、私は噂になっているような派手な男遊びをするつもりなんてない。外見がこんなだから、色仕掛けだとか浮名を流しているとか言われるけれど……本当はどう思われてもかまわないの。息子が力を伸ばせる環境が手に入るなら、それでいいわ」


 予想外の芯の強さを感じ、俺も少し心を打たれる。実際、派手な見た目が反感や偏見を買っているのは否めないが、噂ほど軽薄ではなく、むしろ堅実な母親像がそこにあった。


 俺は茶を置き、静かに答える。


「正直、僕も継承権を欲しがっているわけじゃありません。でも……そうですね。いつかそういう立場になったなら、カエルラの将来を閉ざそうとは思いません。何かできることがあれば力になりますよ」


 語尾こそ曖昧だが、アウルムはその言葉を希望と受け取ったのか、ぱっと顔を明るくして微笑んだ。


「ありがとう、アーテル。……ほんの些細な可能性でも、私は縋りたいの。何もできない平民出の身だからこそ、息子のために動かなきゃならないの」


 アウルムは席を立ち、衣裳を整える。辺境伯の妾というだけで周囲から妬まれ、平民上がりというだけで見下される。そんな逆風でも諦めず、息子を立派に育てたい――そう願う母の揺るぎない愛が感じられた。


「それじゃ、お話しできて良かったわ。もう少し休んでいくのかしら?」

「いえ、僕はそろそろ失礼します。いろいろ話せてよかったです」


 東屋ガゼボを後にするアウルムの背には、傾国の美女の妖艶さと、切実な母の想いが同居していた。その姿を見送りながら、俺は脳内でアーテルに問いかける。


 ――闇魔法の才能を持つ弟か……。ネーヴェを守るために、いつか力を借りることになるかもしれへんな。闇魔法の危険性って、具体的に何なんや?


(闇魔法は人の精神や生死に作用することが多くて恐れられている。扱い次第では、使い手本人や周囲の人間を滅ぼしかねない。だとしても、カエルラが味方になってくれるなら大きな助力になるはずだ)


 館へ戻る足取りは、わずかに重い。暗殺や継承権争いのリスクを抱えるこの状況で、辺境伯になったら息子を取り立ててほしいなどと願われるとは。周囲の人々から次々と期待を向けられるのは、黒幕ルートを回避したい俺にはまさに試練だ。


 とはいえ、アウルムの願いは純粋な母の愛情。命を懸けてでも息子を守ろうとする姿勢を前に、無下に断るのも気が咎める。闇魔法の素質を持ったカエルラという存在が、今後の邪神復活や世界の命運にどう関わるのかは不明だが、少なくとも彼の力を確かめる必要はあるだろう。


 最後に振り返れば、東屋ガゼボにはもう誰の姿もない。そこに残っているのは、ほのかに漂う甘い茶の香りだけ。


 ――やれやれ、次はカエルラ本人と話してみるべきやな。闇魔法を扱う弟、一体どんな奴なんやろか。


 そんな呟きを漏らしながら、俺は館の廊下へ足を向ける。アウルムとの会話に残る母の愛情を胸に、いずれ彼女の息子カエルラとも顔を合わせる日が来るだろう。それが黒幕ルートにどんな影響を与えるのかは、まだ誰にもわからない――そんな予感に苛まれつつ、俺は次なる一手を思案するのだった。

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