第3話 沈黙の守護者
明け方とも夜更けともつかない、薄闇の色が部屋の中に滲む頃。静寂を切り裂くように、扉が控えめにノックされた。枕もとのランタンの灯りは心許なく揺れ、俺――アーテル=グラキエスは一瞬、目をこすった。生まれ変わったばかりの身体はまだだるく、思考も鈍い。それでも待ち人が来たことは、直感でわかった。
「失礼します」
低く落ち着いた声が部屋に入り込むと同時に、すうと扉が開いた。そこに立っていたのは、背筋を伸ばして一礼する黒髪の女中レーニス。冷涼な空気のように、彼女の存在そのものが静謐さをもたらしていた。くっきりとした眉が目を引くが、表情は極めて乏しい。感情を隠すというより、もともと薄いのだろう。彼女の一挙手一投足には、奇妙なまでの落ち着きがある。
「こんな時間に呼び出してすまない。少し聞きたいことがあるんだ」
アーテルを装いながら、俺は問いかける。内心は「ホンマに味方なんか?」という猜疑心が渦巻いているが、少年の身体を借りている都合上、ここは自然体を装わねばならない。レーニスはそんな心中を見透かしたように、一瞬だけ視線を巡らせた。
「アーテル様のお体の具合はいかがでしょうか。ネーヴェ様が心配そうに呼びにいらしたので、少しでもお役に立てればと」
言葉は丁寧だが、そこに温もりというものは感じられない。事務的で要点を端的に示す、まさに必要最低限の会話だ。アーテルと俺が望む味方としての振る舞いとは少し違うようにも思える。しかし、これが彼女なりの忠誠心なのだろう。アーテルが脳内で俺に語りかける。
(大丈夫だ。レーニスは母の実家のルーナエ家から送り込まれている。決して裏切らないだろう)
――そう言われても、あまりに感情が読めへんのは信頼しづらいやろ。まあ、身元が確かなんはええけど。他の後継者候補から金を積まれてコロッと寝返ったりせんやろな?
(母が亡くなった後も態度が変わらなかった数少ない者の一人だ。今更、裏切るとも思えないな)
――黒幕はもっと猜疑心バリバリなんかと思っとったら、妙に楽観的やな。そんなんで立派な黒幕と言えるんか?
(若は時々、よくわからないことを言うな。黒幕に立派も何もないだろう……。とにかく彼女は味方になってくれるはずだ)
今は猜疑心よりも、その楽観さこそが必要になるのかもしれない。俺は「平気だ」と短く応じ、ゆっくりと上体を起こした。枕に背をあずけながらレーニスをうかがう。
「ネーヴェにも迷惑をかけてしまった。体調は大丈夫だ。心配しなくていい」
レーニスは薄く目を伏せて頷く。それだけで場の空気がふと引き締まるように感じられる。彼女は一度、少し間を置いてから再び口を開いた。
「アーテル様のご容体が安定したのは幸いです。どうか焦らず、休養をお取りください。ご用命があればいつでもお呼びください」
特に波風の立たない台詞だが、その言葉尻にはわずかな響きが宿っていた。「あなたを護る」という意志のようなもの。それが確かめられたのなら、彼女の無表情さも少しは信じてみようと思える。
(ね、言っただろう。彼女は決して悪い人じゃない)
アーテルの脳内の声が小さく弾んでいる。俺も心中で小さく息をついた。まだ警戒心はゼロにはならないが、このレーニスが敵である可能性は低いだろう。母の実家であるルーナエ家が貧乏貴族であるにもかかわらず、こうして人を送ったというのも、長きにわたる結びつきがあればこそ。それがアーテルとネーヴェを護ろうとする大きな力になるかはわからないが、他に味方もいない現状では十分にありがたい存在だ。
ひとまず俺はこくりと頷き、レーニスとの淡白なやり取りを終わらせた。彼女は再び無音の足取りで扉に向かい、一礼して静かに姿を消す。まるで溶けるように去っていく後ろ姿に、俺は言い知れぬ安堵感を覚えていた。なぜなら、その静寂こそがレーニスという人間の信頼の証しに思えたからだ。
(さて、あとは彼女をどこまで巻き込むか、だな)
心の内でアーテルがつぶやく。そうだ。継承権争いという殺伐とした暗雲が渦巻く中、レーニスの力だけでは足りないかもしれない。それでも、今は最初の一歩として、彼女が味方であることを確認できた。それだけでも上出来だ。俺は曇天のような思考の奥に、一筋の光が射し込んだような気がしてならなかった。
***
いつの間にか部屋の外では使用人たちが朝の支度を始めたらしく、廊下を行き来する足音や小声が微かに聞こえてくる。そんな中、俺はベッドに腰掛けたまま、改めてアーテルの声と脳内で情報を整理していた。少年の身体にしては朝の目覚めが早いが、中身はれっきとした大人。ブラック企業勤務の朝帰り生活を経験している身としては、むしろ寝不足が常態というわけだ。
――レーニスは料理に毒が入っていたかどうか、ちゃんと調べてくれたんやろ?
(ああ、彼女は自分で確かめた上、念入りに検分してくれた。結果はシロだったそうだ)
意外な結論に俺は思わず首を傾げた。この屋敷のどこかに暗殺者がいると考えれば、最も手っ取り早い手段は「食事への毒混入」だと思うのだが。確かにレーニスが口にしたり、匂いを嗅いだりするだけではわからない毒もあるかもしれない。しかし、彼女は薬剤師に詳細な鑑定まで依頼したようで、それでも何も検出されなかったというのだから、ひとまず料理への毒物混入説は退けてよさそうだった。
――ほな、食事が原因とちゃうんか……。せやけど、アーテルは夕食を摂った後、息も絶え絶えやったわけやろ?
(……そうなんだ。熱が上がり、息苦しくなり、湿疹までできた。母が亡くなる直前にも似たような症状があったと、レーニスは覚えているらしい。でも、肝心の毒は見つからない。母の死にも何の疑いもかけられなかったと聞いた)
母の死は病死とされ、今回のアーテルの症状も突然の体調不良で片付けられそうになった。しかし、アーテルもレーニスも、直感的に何かがおかしいと感じている。俺もゲームのPV情報をほんのかじり程度に覚えているが、黒幕ルートに繋がる何かがあるなら、単に毒殺ではなく、もっと根の深い問題がありそうだ。
――ちゅうことは、食事に毒を入れる以外の方法が使われたかもしれんってことやな。
そう脳内でつぶやくと、アーテルは小さくため息を返した。
(そうだ。寝室の水差しやリネン、あるいは湯浴みなど、何らかの形で身体に悪影響を与える方法があるのかもしれない。もしくは長期的な蓄積が原因となる毒を普段から誰かがこっそり盛っている可能性もある)
アーテルの推理には一理ある。短時間で肌に湿疹が出て呼吸が苦しくなるとなれば、接触や吸引の毒を疑うのは当然だ。俺もミステリ知識を総動員し、いくつかのトリックを挙げてみた。
――犯行時刻がずれている可能性もあるやろ。たとえば、食前に塗布されたものが食事の頃合いに効いてくるとか。あるいは依存性のある毒を少しずつ盛られていて、母親のときと同じ症状が出たのかもしれへん。
(だが、決定的な証拠がない以上、今は疑うだけで終わる。確証がないなら動けない)
少年の声は苦い響きを帯びていた。母が同じ手段で暗殺されている可能性を考えれば、アーテルの命が再び狙われる危険性は高い。しかし、断定の材料がなければ下手に動いて逆に藪をつつくことになりかねない。
そこで俺たちは「しばらくは自衛を最優先にする」という結論に至った。レーニスには何か動きがあればすぐ報告するよう伝え、屋敷内の派閥や人間関係を洗い出してもらう。今はその程度しか手を打てない。
――ほかに信頼できる人材はおらへんのか?
俺の問いに、レーニスはやや言い難そうな否定の言葉を返した。母の実家ルーナエ家にそこまでの余力はなく、彼女一人を送り込んだのが精一杯なのだという。そもそも財力も権力も乏しい貧乏貴族では、これ以上の支援など望めるはずもない。
(分の悪い戦いだな、若……)
アーテルだけでなく俺も心中でぼやいてしまう。家族の中にも敵がいるかもしれず、頼れる駒はレーニスのみ。そんな状況でどうやって生き延びるか。考えただけで胃が痛くなる。
だが、ここで思い出すのが、俺が生前、積んでいたRPG「アストラルオーダー」だ。この世界観を多少なりとも知っているならば、強くなる道を選ぶのが手っ取り早い。ゲームの紹介記事で見た限り、アーテルは氷属性の魔法と剣術に長けていた。狙われている今こそ、その才能を引き出さねばならない。
――やっぱり、鍛錬しかないんちゃうか。せめて襲われたときに対処できるよう、戦闘力を上げようや。プレイングマネージャーやなくてファイティングフィクサーや!
(……まあ、もともと母から氷魔法を教わっていたし、剣術もある程度は心得ている。今はそれを急いで極めるしかない)
アーテルの声には決意が宿りはじめていた。俺も思わず拳を握り込む。命を狙われているなら、座して死を待つわけにはいかない。最後はやはり自分自身の力が頼みの綱だ。
――俺……いや、アーテルが強くなるしかないな。
第三夫人の子に過ぎない少年と、中身が冴えない元サラリーマン。そんな奇妙な組み合わせでも、やることはひとつ。未来を変えるために、俺たちは覚悟を新たにするしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます