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  • 紙一重の分岐点への応援コメント

    「5:46」は生涯忘れられない記憶でしょうね…。

    当日、まさかの高熱(43℃)でしたが、生存確認のための全校集会に、頑張って自転車で行きました。

    道路は中央線から1m近くの段差があったり、1階部分がガレージになっているマンションの柱が折れて車が押しつぶされている(クラクション鳴りっぱなし)且つ、マンションが傾いている光景(後日、取り壊されました)。

    校舎の渡り廊下が崩落して更に一部校舎が倒壊、阪急の高架・コンコースが崩れている、あまりにも強い地震の脅威を感じた記憶が鮮明に焼き付いています。

    お陰様で震度3くらいなら安眠できる体質に(現在も)。

  • 紙一重の分岐点への応援コメント

    あの頃はインターネットなんてまだろくになかった、携帯は高くてまだ普及してなかった時代でしたね。

    僕は香川に住んでいて、ちょうど社会人になったばかりでした。
    震度4くらいだったかな?時間が早かったので、もうちょい遅かったら目覚ましにちょうど良かったのに…なんて思いながら。
    そんな思いは出勤してから職場で見た報道で吹き飛びました。

    地震から数ヶ月もしないうちに通りがかる機会がありましたが潰れた家の前に花が添えてある風景はショックでした。

    因みに兄貴は自衛隊で、公園にテントを張って半年ほど復興支援に関わってました。

    私も震度6弱の地震に遭遇したことがあるのですご地面ってこんなに柔らかいものなのか、震度5とは全然違うと思いました。震度7はシャレになってなかったと思います。

    次はいずれ来るだろう南海地震ですね…大規模、広域になると近隣も大きな被害を受けているから早々応援は来ない、当然復旧にも時間がかかると予想して行動することが必要ですね。

  • 紙一重の分岐点への応援コメント

    僕も登場学生で高知にいました。
    突然の揺れで下宿がつぶれるかと思ったのと、テレビを付けて建物が傾いた様子をみて映画を見ている気分でした。

  • 紙一重の分岐点への応援コメント

    その日の朝、伯母の付き添いで病院のソファベッドで寝ていました。
    病院の部屋というのは家具とかもほとんどないし、物がないだけに揺れてるのは分かっても、どのぐらいひどいかとかどこかピンときていない部分がありました。
    ですが、寝ている横にあるはめ殺しのまどがたわんでいるのが分かり、「もしもこれが落ちてきたら死ぬな」と妙に冷静に思ったのを覚えています。

    その数時間後、家と電話がつながって、母が最初に言った一言が「あんた、おばちゃんに助けてもろた!」でした。
    私が寝ていたはずの場所には、大きな物、重い物がばんばん落ちていて、もしも部屋で寝ていたら、命を失うか大きなケガをしていただろうと。

    今、こうして当時のことを話せる方がいらっしゃるのは、本当に紙一重の分岐点の奇跡なのかも知れませんね。

  • 紙一重の分岐点への応援コメント

    当時そして現在も「兵庫県尼崎市」在住の僕。
    こちらも実は当時「朝夕刊新聞配達バイト」の身でありました。
    当日の朝刊を「兵庫県尼崎市南塚口町」の「とあるワンルームマンション」(現存)の一室に届け(「作者様」はご存知でしょうが、『「朝刊配達」時「マンション」の各部屋毎に直にポスト入れ』『「夕刊配達」時「マンション」の集合ポストの各部屋番毎にポスト入れ』)、
    「ワンルームマンションのエレベーター」に入った直後に「例のバカでかい揺れ」が!!「人生で初の『エレベーター閉じ込められ』」を経験する羽目に!!当然「恐怖で『ブザーボタン押し」を何度繰り返したか!!幸いにも「10数分後エレベーターが再起動」して無事脱出しましたが、「エレベーター」降りた瞬間、「エレベーター」入る前と「街の様子が別物の如く様変わり」していたのに愕然…。
    ①「アパートの2階玄関」から水屋が飛び出したのを必死に押さえているおっちゃんの手助け
    ②「分厚いショーウィンドーガラス」がモノの見事に砕け散っている商店をあっちこっちで確認
    ③「早朝一番寒い時間帯」にもかかわらずパジャマ姿で徘徊する街の人々
    ④「一階が駐車場になっている『マンション』が一階の支えが砕けて傾いた状態」(周り民家)

    今でも忘れられない!!

  • 紙一重の分岐点への応援コメント

    その日の朝、引越しでした。
    産まれて四が月の長女をダンボールが落ちてこんように守りました。
    名古屋は地震が良くあるので、あまり、慌てなかったです。
    その後に神戸があんなんになってるのを見て従兄弟の兄やんは大丈夫なんかいな?と
    連絡を父が必死に取りましたが連絡つかず。
    父は何とかして、神戸に行くつもりだったようですが、やっと電話が通じて、今は
    来ないでくれ、来てもらっても、寝るところや食べ物の確保に返って困るからと。
    父は若い頃に神戸で暮らしてたし、私も神戸産まれで五歳まで暮らしてたので
    あの報道は信じられませんでした。

  • 紙一重の分岐点への応援コメント

    30年前の1月17日は月曜日でしたね、当時私は運送の仕事で15日に倉敷から神戸を経由し、関東まで帰って来ました。
    2日違いで難を逃れられました。

    その後、仮設住宅を設置するため20日程神戸や芦屋の学校や公園に毎日10〜20棟頑張りました。
    クレーン付トラックだったから……


    関西圏のラジオで聴いた話は、関西では京都と和歌山以外では地震が起きないと言うデマが当たり前だったみたい!

    建築士の友人は関西の建築基準は関東より緩やかだと言っていました。

    今更の話しになりますが、人災だった側面もあったと思います。

    亡くなられた方々に御冥福を、被災された方々には今後の生活により良い未来を祈ります。

  • 紙一重の分岐点への応援コメント

    当時長田区の実家でした…
    実はあの時間起きており(というか前日買ったばかりのゲームに一生懸命で寝てなかった)突然下から突き上げてくるような衝撃が一発…その直後停電し
    『え!?何今の!?もしかして地震?でもあれぐらいで停電!?』
    とセーブもしてないゲームが中断された事に半ば腹を立てた数秒の後…
    激しく家ごと激しく揺すられ部屋の壁際に積んでた荷物(少し前に引っ越ししており荷解きをさぼってたのです)が崩れるやら上にあったはずのスピーカーはベッドのみ上に飛び込むやら(もし普段通りに寝ていたら…汗)
    うちは下が結構大きなお店になっており、広いスペースだっただけにまばらだった柱の鉄骨が激しく歪み全壊でした(幸い家族・親族に大怪我などはありませんでした)

    あれからもう三十年ですか…

    まだこの日を知らせる報道の度、当時の様子が克明に浮かびます

  • 紙一重の分岐点への応援コメント

    当時も今も新潟ですがあの日は覚えています。高校生でしたが、その頃は7時を過ぎないと絶対に起きない私がなぜか6時に目を覚ましたら神戸で地震、火災発生とだけ速報で流れていました。
    現在と違って細かな地震速報のない時でしたので時間と共にうなぎ登りになっていく被害に呆然としていました。

  • 紙一重の分岐点への応援コメント

    僕は兵庫県南西部に住んでて地震の最中は夢の中でした
    ベッドの上でめっちゃ揺られて
    こんなに揺れるなんて夢に違いないと本気で思ってましたね

    その後朝食時にTVを見てアレが現実だったことに気付きました

  • 紙一重の分岐点への応援コメント

    もうあれから30年も経つのですね。
    関東圏在住だったので、TVの画面越しに何処か人ごとと現実味を感じなかったのですが、学生時代の同級生が被災し、鬼籍に入った知らせを聞いて一気に現実に引き戻されました。

    地震大国日本に住むものとして、語り続ける必要を感じます。

  • 紙一重の分岐点への応援コメント

    当時は関東圏に住んでいたので、最初はテレビの画面のみの情報でした。
    大阪の親戚に頼まれて水やホテルなどで使う歯ブラシとかを持って行った時の、あの惨状は今も思い出すだけで身震いします。
    あれから30年、あっという間でしたが…教訓として語り継がなきゃいけないですね。