1章 18話
日常というものは、そう簡単には揺らがない。
変わらない青さの空に、カロアンは舌打ちをする。
「不機嫌かい?」
耳聡くもアニエが笑いながら言う。
「いや、案外機嫌は良いな」
「おや。アンタのことだから感傷的になってると思ったんだがね」
「俺を何だと思ってるんだよ」
間違っちゃいないが、と内心で付け加える。
感傷。
ロベッタが自由でなくなったこと、そしてハクトがいなくなったこと。
ほとんど同義の二つと、それでも変わらない自分への、感傷。
「俺も歳とったかな」
思いつきで呟けば、何言ってるんだいとアニエに頭を叩かれる。
「まだまだ働いてもらわなきゃ困るよ、お若いの」
「いっそ隠居したいくらいだ。いい加減、疲れた」
椅子の背に首をもたせかける。
古びた木造りの天井と、反転しても変わらない世界。
「なぁ、姉さんは疲れねぇの?」
「そんな時期は過ぎちまったよ」
「なるほどなぁ。生き続けるしかないってわけか」
「怪我の一つ、別れの一つや二つが何だって言うんだい。そんなの生きてりゃ日常さ」
「姉さんが言うと重みが違うわな」
「ただね、忘れちゃいけないよ」
諭すようにアニエが言う。
「痛かった記憶ってやつは、いつか人生の答えになるものさ」
「答え、ね」
「アンタもいつか問われる日が来るよ」
小難しい話は好きじゃない。アニエの言う人生論だって、本当のところは半分も理解していなかった。
ただこれだけはわかる。
「俺の答えはもう決まってるよ」
アニエが意外そうに青い目を細める。
「おや、ずいぶん潔いね」
「俺はきっと長生きしないからな。人生の意味なんてたいそうなものは、早く見つけておくに限る」
「馬鹿言ってんじゃないよ」
笑い飛ばされたが、本気でそう思っていた。アニエも恐らくは、カロアンが本気なことに気がついている。
あの日、命を捨てる覚悟をした。
自分にとって何が大切なのか分かった以上はもう逃げられない。
「クソったれの街でも、案外嫌いじゃないんでね」
「ロベッタと心中かい?」
いつだったか、ハクトに同じことを尋ねた気がする。
カロアンはにやりと笑ってみせた。
「姉さん、俺を誰だと思ってんだよ」
「はは、頼もしい限りだねぇ」
何が変わっても、何をなくしても。日々は、生活は続いていく。
続けなくてはならないのだ。
さて、と身を起こして戸口を見る。
「入ってくりゃ良いんじゃねぇの?」
声をかければ、扉が開いて少し気まずそうにレミが顔を覗かせた。
「もう、気がついてたの?」
「そりゃな」
「なに隠れてたんだい」
笑うアニエに、レミは不服そうに口を尖らせる。
まるで親子だなとカロアンはこっそり笑みを浮かべた。
「私だって遠慮くらいはするわよ。二人とも真剣そうだったから」
「別に聞かれて困ることなんてねぇよ」
「そういうことじゃないでしょう」
「気遣うならもっと上手くやれってんだ」
「貴方が目ざといのが悪いのよ」
言い返すレミは思っていたよりも元気そうで安心する。
リディのこともハクトのことも、レミは随分気にかけていた。人を愛する性質なのだろう。
「何よ、二人とも変に笑って」
言われてアニエを見れば、やはり彼女も安堵の表情をしていた。
アニエがひらひらと手を振る。
「アンタが元気で良かったってだけさ」
「あら、別れくらいで泣く女じゃないわ」
気取った口調でそう言ってから、レミはふっと笑みを零す。
「それに私たち、生きているもの。きっとまた会えるわ」
それはあまりに純粋すぎる、愚直な願いだった。
レミ自身も再会を信じてなどいないはずだ。
それでもあえて言葉にするのは、そうであれば良いと願うから。
「ああ、そうだな。また会える」
もしもまた会えるなら、その時はなんと文句を言ってやろうか。
────────────────────────
「雨が降るな」
ルジームが空を見上げて言う。
「ハクト、空は読めるか?」
ハクトは肩を竦めてみせた。
得意というわけではないが、それでも生活しているのだから、人並み程度には天気のながれはわかる。
「この程度の雲じゃ降らないってことくらいはわかるね」
薄曇りの空を指さす。
「そうか。なら一旦常識を捨てよう」
「どういうこと?」
「クリュソは雨が多い。案外簡単に降るぞ」
「天気なんてどの国でも同じでしょ」
「神住まう国だからな。神秘の類だと私は思っているよ」
「話が掴めない」
ややこしい会話は好きじゃない。
ちゃんと説明しろと言おうとしたとき、不意に水滴が手の甲を打った。
「ほらな」
ルジームが笑う。
見上げた空は変わらず薄い雲が張っているだけで、そこから雨が降り出したなど到底信じられない。
雨粒が頬を打つ。
「ありえない」
「現に降っているだろう。これは強くなるな、一旦行軍を止めるか」
ルジームが前方のロルフに声をかければ、それだけで他の兵たちも静止し始める。
小部隊とはいえ、ルジームの兵士は非常によく統率が取れていた。
兵法の知識があるわけではないが、ここまで指示伝達が速やかに行われる部隊は珍しいということくらいはハクトにも察せられる。
抗戦を選ばなくて良かったと心底思った。
クリュソもレオラも、今までは本気でロベッタを攻め落とそうとしていなかっただけなのだ。だからハクトたちは街を守れた。
レオラの東部兵にしてもルジームの兵にしても、彼らのような部隊に攻撃されていたら、あっさりと陥落してしまったはずだ。
「黒の女神は雨を好むらしい」
何かの書簡に目を落としながら、ルジームが不意に言う。
黒の女神、という言葉が気になりつつも、ハクトは曖昧に頷いた。
ハクトに魔術を与えたアレが彼らクリュソ人の言う女神ならば、随分と面倒な国に足を踏み入れてしまったようだ。
作為を感じずにはいられない。
「君は神を信じるか?」
「……何を信じるかは自分で決める」
「良い心がけだな」
「アンタは信じてないの?」
「いや、そこはさすがに私もクリュソ人だ、信仰はある。だが我々を神が救うとは考えていない」
ルジーム青灰色の目を細めて笑った。
「矮小な人間の、小さな献身がひとつ。たったそれだけで神が己を救うと思うのは傲慢だろう」
「……それは皮肉?」
「好きに捉えろ」
ハクトは肩を竦める。
どうだって良かった。神の国でも何でも、自分に関わる人間がそのために生きていないのなら、どうだって良い。
自分が自分として生きられるなら、どこにいようと同じことだ。
「雨、どのくらいで止むの?」
沈鬱な色に変わり始めた空を見上げて尋ねる。
さあなとルジームは首を振った。
「それこそ神のみぞ知るというやつだ」
「長引いたらいつまでも進軍しないわけ?」
「いや、長引かない」
「わからないんでしょ」
「神はそれほど気まぐれではないからな」
はぐらかされているのか、それが本当に答えなのか。ハクトには判断がつかなかった。
腰に提げた長剣に触れる。
置いて行こうかとも考えたが、結局は自分にも感傷的なところがあるらしい。いずれまた見えるなら、彼の剣を使うのも悪くないと思った。
「良い剣だな」
ルジームが言う。
「レオラの東部領主家のものだろう?」
「領主家かは知らない。どうしてわかるんだ?」
「顎の部分に紋章が入っている。造りの良さから見ても、元の持ち主は爵位持ちだろうな。大した戦利品だぞ、それは」
「別に殺したわけじゃない。貰ったんだ」
「認められて与えられたというなら、それもまた君の功績だ」
「……アンタと話すの面倒くさいな」
狙いが読めない会話というのは、こうも厭わしいものだっただろうか。
少し考えて、これまでは周りに配慮する必要がなかっただけかと思い至る。
この男が面倒なのではなく、自分の立場が変わっただけだ。
「東部兵とは交戦しないに限る、という話があってな」
雨をやり過ごす間くらいは耳を傾けてやっても良いかと思い、黙って頷く。
「この大陸には厄介な相手がいくらかいるんだが、レオラの東部兵はその一つだ」
「どうして?」
「単純に、この大陸でもっとも戦争をこなしている兵たちだからだ。経験というものは侮れない」
「……他の厄介な相手ってのは?」
「セロの騎士団。チレードの海兵。ポレットの神兵。東部兵含めこの四つとは決して正面から交戦してはいけない。まともにぶつかれば痛い目を見ることになるからな」
知らない名前ばかりだった。
自分の生きる世界がいかに狭く、そして外界がどれほど広かったのかを今更知る。
それを恥と思うハクトではなかったが、無力感は拭えなかった。
そんな内心を察したのか、ルジームが微笑む。
「チレードとポレットは数年前に滅んだ国だ。あの街で、君の年頃では知らずとも仕方ないだろう」
「厄介がられるほどの兵団がいても滅びるんだね」
「もちろんだとも。強い兵がいるからと言って強い国とは言えないからな」
「じゃあ何をもって強いとするわけ?」
「これではまるで哲学問答だな」
ルジームは愉快そうに言ってから、三本指を立てた。
「まず一つ、良き王がいること。悪政を敷かないことは当然だが、臣民の声を聞ける王が国には必要だ。君主のいない国もまた、戦争には弱い。ロベッタに住んでいた君には今更の講釈だろうか」
王政なんてものは嫌いだが、統治機構がなければ戦争ができないという道理だけならばわかる。
納得したわけではないが、ハクトは頷いてみせた。
「二つ目、生活と戦争が区分されること。職業軍人の概念があるのは我が国だけだが、これは大変な長所だよ。戦中においても農工業も商業活動も停止しない。一般市民から徴兵するやり方ではいずれ限界が来る」
「でも兵の数が足りないから徴兵するんでしょ。いくら専業の兵士でも、数で大きく負けていたら厳しいはずだ」
「ああ。だから大差がつくような戦場は選ばない。そこで三つ目、情報力だよ。いかに正確な情報を選び、また相手への情報を管理できるかが戦争では重要になる。もちろん外交においても非常に強い武器になるな」
「敵方に兵を忍び込ませておくってこと?」
「密偵や間者も重要だ。だが、肝心なのは敵方からこちらに寝返る人間を持つことだろう」
ルジームの声に少しだけ沈鬱な響きが加わったことにハクトは気がつく。
裏切らせた、それとも裏切られたのか。
無意味を悟りつつも探ってしまうのは、誰も信用しない人生で染み付いた癖だった。
「……人って、そんな簡単に国を裏切ったりするものなの?」
「愛国心などもっているのは、生活が満たされている人間だけだよ。金銭、地位、そして安全。何らかの利が得られるなら、人は簡単に国を捨てられる」
「庶民層を裏切らせても得られるものは少ないだろ」
「個人の持つ力は案外侮れないものさ。それに、地位ある人間もその思想故に裏切ることもあるからな」
思想、と復唱する。
国や地位や家族や名誉、それら全てを捨ててでも貫きたい思想なんてものがあるのなら、その人生はどれほど幸福だろうか。
「羨ましいね」
皮肉を込めて笑う。
「頭の中のために必死になれるほど暇ってわけだ」
「……なるほど、そういう言い方もできるな。だが君がロベッタのために自己を惜しまなかったように、誰もが自身の思想に過ぎない頭の中のために生きているとも言えるのではないかな?」
「オレは生きるための最善だった」
「一人で生き延びるのならもっと別の道があっただろう」
否定もできず、ハクトは唇を噛む。
カロアンに言われた通り逃げることもできた。
何故そうしなかったのか、問われるまでもない。
「街でも人でも良い。何らかへの情が君をこう動かしたのなら、君もまた形ない思想のために生きているんだ。思想でなく、愛や情と言っても良いかもしれないが」
「……他人のために生きるとか、そういうのは好きじゃない」
自分の人生だ。
そう思っているのに、どうしてか自分はここにいる。
結局捨て切れなかった人間性が持つ弱さは、いつだって自己矛盾になってハクトの首を絞めるのだった。
それは違うな、とルジームが首を振る。
「他人のためではないだろう?」
何が言いたいのかわからず目を瞬かせれば、ルジームは手元から目を上げて、その青灰色の目にハクトを映した。
「自分の思想、自分の愛。物事の主体はいつだって君にある」
「主体?」
「自分が抱く他者への愛のために生きるなら、それもまた君自身の選択であり、君自身の人生だろう」
「……そう考えたことはなかったな」
そうか、とルジームは笑う。
絡まってしまっていた糸は、解いてみればたったの一本だった。
自分以外はわかっていた、簡単なことだったのかもしれない。
ハクトは膝の間に顔を伏せた。
捨て去ったものを、急に惜しく思う。
「さて、長い人生だ。これから君も、嫌というほど得るだろうよ」
ルジームの言葉はやはりどこか感傷的で、ハクトは存外素直に頷けた。
これからの人生。
これから、なんてものを自分も得てしまったのだ。
全てを捨ててでも貫きたいものを、いずれ自分も得るのかもしれない。
心地良い幻想だ。
そのために生きる価値があるほどの、遠い幻想。
見上げた雨空の遥か彼方、雲の切れ間がハクトの目には見えた。
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