誰のもの
神雷のたまり場は苦渋の面であふれ返っていた。バレンタインチョコをもらえたとかもらえなかったとか、ふつうの学生のような甘い事態ではないことは言わずもがな。
ホールの中央にそびえる大階段に、ちょこんと座る白園学園の制服を、神雷メンバーは隙間なく囲んでいた。洋館にはあるはずのない、白園学園男子生徒用の制服を。
「は、はじめまして……で、いいんでしょうか……? し、新道寺緋と申します」
1階に勢揃いするメンバー全員が、姫華直々の客人だという新道寺を厳戒態勢で監視していた。風都夫婦の喪に服するため黒やグレーなどの暗い色の装いで統一しているからか、監視の空気に重みが出る。
「……おめえが噂の武器商人か」
我先に凄む勇気に、新道寺は逃げも隠れもせず上着と手袋を外した。人工的に赤く染まった爪が、シャンデリアの光を浴び、どろりと色を淀ませる。内側の肉から血が垂れているようだった。
「お前、自分が何したかわかってんのか。あちこちに武器を流通させたせいで、収拾つけんの大変だったんぞ!」
階段横に置かれた、武器の回収ボックスは、現在3箱目が満杯になりつつある。
「イキがった雑魚の相手するこっちの身にもなれよ。ただでさえ治安の均衡操作に骨折ったっつうのに……。坊ちゃんが気安く裏社会を荒らすな!」
「何か理由があったのかもしれませんが、武器は少々デンジャーすぎましたね。へたしたら戦争勃発でしたよ。町が焼け野原になっていなくてよかったですね。すべて我らが女王様のおかげですよ。感謝してくださいね」
日ごろ仲裁役を買って出る汰壱も、今日はこころなしか口調がシャープだ。シャーペンの芯を無心でカチカチ繰り出すように殺気を小出ししている。
汰壱が敬愛する叔父・風都誠一郎とその妻・桜子の葬儀からわずか1週間、四十九日も終わっていない。交通事故に仕立てた事件の引き金を、結果的に招き起こしたことになる新道寺に、恨みはなくとも鬱憤をためてしまっていた。
「す、すみません……。で、でも、ボス……いや、えっと、元紅組に近づくには思い切った作戦に出ないといけないと思いまして……」
新道寺はおとなしく首を垂れる。電話口で巧みに機械を操り、姫華と対等に話したとは思えない小心な態度だ。
「なんで……」
ぽつりとつぶやいたのは成瀬だった。
「なんでお前らはそうやって自分から危険なことに首を突っ込むんだ……っ」
ニットとジーンズに着替えられた出で立ちは、細身でありながら男性的な骨格をしている。しかしその顔はか弱げに歪んでいた。
成瀬と新道寺、中身の変わらない少年ふたりが相対すれば、そこは贅沢な豪邸からさもしい監獄へと見違える。
成瀬は昔から新道寺を前にすると胸がチクチクした。心臓の外側にトゲが張り巡らされていた。時を経て今、そのトゲは内側にのめりこみ、成瀬自身を刺している。
(ちがう、こんなことが言いたいんじゃなくて、俺は……っ)
速報で新道寺の生還を知ったとき、どれほど胸を打ったか。らしくもなく涙を流し、震える身を抱き、信じてもいない神に祈りさえした。
記憶喪失でもなんでもいいから、どうか、この運命の輪からサンカクを永遠に逃がしてやってくれ、と。
あの日一緒に外に出られなかったから。
「……ふつうに生きていたいから、かな」
「え……?」
「怖い思いをもうしたくないんだ。だから、戦わなきゃって。逃げても、逃げきれる自信がないし」
新道寺は足元を見つめながら口元だけに笑みを宿した。
「そっ……」
「え?」
「う……い、いや」
そう思ってるなら頼ってくれれば。
喉元を過ぎかけた言葉を、成瀬は寸前で流しこんだ。誰が何を言う気か。ずっと逃げ続けていたのは自分のほうなのに。
逃げていたのはボスたちから、ではない。
マル――姫華からだ。
彼女にだけは会いたくなかった。
いつも彼女は自分たちのためにすべてを擲って戦っていた。再会したら、また、自分に責任を課してしまう。
彼女の重荷になりたくなかった。
会わずにいたほうが、きっと苦しくなかった。
(だけど……もういい、認めるよ。俺、ここで会えてよかった。……よかったんだ)
その犠牲をほんの少しでも背負うことができるから。
「どうやら全員覚悟が決まっているようね」
階段上に立つ姫華は、神妙な面持ちでホールを見渡した。癌に耐えかねたような重圧のかかる声音は、成瀬と新道寺と目を合わせたあと、凛と気高く張り上げられた。身にまとうミモレ丈のクラシックワンピースが、予感を孕んでさばかれた。
「それでは戦いましょうか。残り最後の指名手配、憎き男を捕まえに」
紅組壊滅から逃亡を図り、指名手配をかけられた約10名の残党は、この日までにほぼ刑務所に送られている。
長年野放しにされていたなかで、短期間で追い詰めた姫華や新道寺の功績は大きい。その偉業の真意を知る者は水面下にひと握りしかいないけれど。
最後にして最大の敵は、数々の悲劇の生みの親であり姫華の実父。元紅組組長の右腕筆頭。通称、ボス。
「そもそもなぜ紅組の残党たちが日本に留まっているのかおわかり?」
「日本のほうが土地勘があるからっすか?」
「マネーやパスポートが用意できないからでしょうか?」
「検問が張られてるから……?」
「ヤクザ時代のツテがあるから、ですか?」
「そうね、それらも一因でしょうけれど……逃亡の一点でいえば、海外に飛ぶほうが確実だと思わない?」
国外に行けば単純に範囲が広がるし、日本警察の手が及びにくい。国外では基本、日本の指名手配に詳しくないから、無理に変装や潜伏する必要もない。
第二の人身売買の拠点が国外にあったのも、そうした理由からだろう。
「けれどそうしなかったのは、根本的にちがうからだわ」
「ちがうって……?」
成瀬は眉根を沈ませる。
「彼らは根っからの悪者なのよ」
姫華の声量はたいして大きくなかったものの、ひとりひとりの鼓膜をつんざく威力があった。
「人を殺ることは好きでも、自分が殺られることは気に食わない。優位に立つためなら手段を選ばず、邪魔する者は死ぬまで許さない。だから彼らはここにこだわるのでしょう」
裏社会に一時代を築いた、弱肉強食の極道、紅組。殺意の引き金は軽く、それで殺られるような弱者こそが悪と定めた。
その考えが骨の髄までしみた残党は、己が弱者側になるのがどうしても受け入れられないのだ。
「人間として生まれ落ちたのが間違いだったとしか言いようがない、クズなモンスターよ」
今まで逮捕された奴らも、逆襲のときを待っていた。逃げ隠れしながら金や武器を集め、万全な状態に整えようとしていた。
狩りに出る野生動物さながら食ってかかる機会をうかがっていたのだ。
「被害者だけでなく、自分に楯突く警察、協力者、その家族をも根絶やしにしようとしていてもおかしくないわ」
「……だからあんな大きな交通事故を起こしたのか」
くそっ、と勇気は利き足で床を蹴った。
飛行機墜落のころから大規模な事件を好む傾向にある。非道だ。
「焦りもあるでしょう。自らの罪を棚に上げ、復讐に出ようにも、指名手配の懸賞金は上がり、捜査の手はゆるまるどころか仲間がどんどん捕まっているのだから」
「では今ごろ、その焦りはピークに達していますね。怪文書というお膳立てをしてまで舞台を作ったというのに、思い描いていたシナリオから逸れ、都合の悪い存在は犯人役どころか容疑者にも上がっていません。ジャパニーズポリスは無能だと、見当違いなアンチ活動に勤しむやもしれませんね」
冷静さを失わず分析する汰壱に、新道寺も同意を示す。
「このまま引き下がることは、100%ないと言ってもいいでしょう。想像しているより早く、次の手を打ってきますよ」
また怪文書を送ってくるかもしれないし、今度は突然襲いかかってくるかもしれない。自分たちだけを狙い撃ちするのではなく、以前のように近くにいる人も巻き込むかもしれない。痕跡がない以上、完璧に予測するのは不可能だ。
「いつどこにどう来るか確定できないなかで、守備に徹して待っていても勝ち目はないわ」
それなら……もうわかるわね?
ホールを一望した姫華の瞳が、力強く吊り上がった。
「招いてあげましょう、私たちのテリトリーに」
王座に君臨する神雷らしい攻めの姿勢。やる気をかき立てられる構成員に対し、成瀬と新道寺は先行き不安でたまらない。
「ま、招くったって……」
「連絡手段もないんですよ? いったいどうやって……」
姫華はセンター分けの前髪をかき上げて微笑んだ。
「彼は、モンスター。狩りの能力は時代錯誤に巧妙で、汁一滴まで貪り尽くす猟奇ぶり。……ただし、内部の攻撃には比較的弱い」
そうでしょう? 確かめる声に、成瀬と新道寺は思い返してうなずき合う。
「そう、彼はあくまで力で解決する脳筋に過ぎないわ。内側の管理は杜撰で、隙ができやすい」
「へえ……裏を返せば、隙を突かれたあとでも処理できる自信があるってことっすね」
勇気の読みに、姫華は正解を言い渡す。
「だから私たちも油断は禁物。慎重におびき寄せるのよ。罠だと気づかれないように」
不敵な眼差しがおもむろに新道寺に向けられた。
「あなたが盗った、残党の携帯電話を利用してね」
それは、タクシーで洋館への移動中に共有されたことだった。
県境のトンネルで激闘を繰り広げた、神雷vs元紅組幹部の一戦。大敗した元紅組幹部が、千間刑事に逮捕される――その前のこと。
武器商人・新道寺がトンネルを訪れ、ひとつ、使えそうな物を持ち帰ったという。5世代前の画面の小さなスマートフォンだった。
「あ、あれは……ここに来る前に話したでしょ? 初期化されていて使い物にならないって」
携帯にデータは残されていなかった。おそらく戦闘中に消したのだろう。そういう
「
「SIMカードも抜かれてて、電話一本つながらないよ? いいの?」
「あら、ここにあなたのシステムをジャックした天才がいることをお忘れかしら?」
新道寺はハッとして視線を翻す。汰壱が姫華のほうを見上げながら胸に手を当て、礼をとっていた。
「Yes,your highness. ボクにお任せあれ! 必ずやデータを復元してみせましょう」
まだ現物を見てもいないのに「必ず」と断言した。仕事に関してはリアリストな汰壱にしては珍しい。その分いつにも増して鬼気迫る顔をしていた。たとえ不可能でも力づくで可能にさせてしまえそうなほど。
身体の内からあふれる説得力に、成瀬は当然のように前提を決め込んだ。
「携帯が直ったあとは? それで居所を聞き出すつもりか?」
「いいえ、聞き出すのではなく送りつけるのよ。神雷への招待状を」
先ほど彼女は言った。ここに招くのだと。
攻撃ターンの比喩かと思っていたが、どうやらそうではないようだ。
「え? でもせっかくデータ戻るなら、あっちの情報を探ったほうがいいんじゃ……」
「バカかお前は。根掘り葉掘り聞いたら怪しまれるだろ」
「あ、そっか」
女王の手を煩わせてたまるかと言わんばかりに勇気が解説役を引き受ける。
「逆に、ここに攻め入るからお前も来いよ、なんて誘いならどうだ。たまり場の位置や人数配置も含めたら、チャンスに思ってくれそうだろ?」
なんたって相手は、内側の管理が杜撰な脳筋だ。仲間からの、しかも自分に利のある情報を、みすみすゴミ箱に入れたりはしない。
「もちろん仕掛けはその招待状だけではないわ。私たちにしかできないことを、やってみせようじゃない」
「俺たちにしか、できないこと……?」
「そうよ。知らしめましょう、私たちの地獄を」
「……僕たちの、地獄」
成瀬と新道寺は遠慮がちに顔を見合せる。お互いに過去の因縁がフラッシュバックした。表情筋が軋むように引き締まる。重たい鼓動が血の気を上げた。
空気を切り裂くように神雷メンバーが続々と拳を掲げる。
「俺たちはついていきますよ、どこまでも!」
「女王様の思し召しのままに!」
覚悟の強さが、心に炎を灯す。この場の光がすべて消えても恐怖に呑まれることはないだろう。道筋は真っ直ぐ上へと伸びている。
天より授かった黄金の髪が、揺るぎなく照らしていた。
これは弔い合戦。
自らの手で終止符を打つ。
本物の牢屋を、開けて待つ。
◻
辺りに空を遮るものがない、開けた一帯に、おごそかな石造が等間隔に林立する。緑の入り交じる夕陽に焼かれた石の表に、それぞれ異なる達筆な文字が彫られている。「風都」の文字に、白い煙が吹き上がった。
「監督、桜子さん……おひさしぶりです」
成瀬は学校帰り、マネージャーに送ってもらいこの霊園を訪れた。そのマネージャーはというと、急遽仕事の連絡が入り、車に留まっている。
えんじ色のブレザーに、勇気から借りパクしたマフラーを巻いた成瀬は、鼻をずびずび鳴らしながらカーネーションを供えた。白、ピンク、青、紫の鮮やかな彩りが、手入れされた墓を飾り立てる。ここに来る前に立ち寄った花屋で、墓参りと言葉にすることができず、お礼をしたい人がいると遠回しに言ったら、その色とりどりのカーネーションを勧められたのだ。
「今日は、報告があって……来ました」
閉園間近の静けさに、自分の声が一音逃さず跳ね返る。妙に緊張した。
「ドラマ【純真の刃】、撮影再開するんですって」
カラスの鳴き声がこだまし、怯んで声が上擦ってしまう。泣いているわけじゃないからと、口に出して言い訳をした。その場にそれを聞く人も、つっこむ人もいない。
撮影が中断してから放置していた髪の毛は、すっかり白金に戻ってしまった。炙った線香のように変色した毛先を、ごまかすように指に巻きつけていじった。
「本当は打ち切りになりかけたんだけど、スタッフみんなで押し切ったって聞きました。3ヶ月……いや2ヶ月くらいか、その制作期間で風都監督メソッドはしっかり学んだから、最後までやらせてくれって」
視聴者からの要望も多かったことが最終的な決め手だったらしい。
放送再開は、来月、3月下旬。最終章を2話に分け、二日連続でお届けする特別編成だ。さらにその前日には、追悼の意を込め、これまでの総集編を二時間スペシャルでお届けすることが決まった。
撮影に先んじて、意識合わせを兼ねた稽古が始まった。学校と仕事の合間を縫って稽古に参加する日々。毎日ハードで、休む暇もない。良くも悪くも悲しみに暮れる時間すらない。さっきマネージャーに来た連絡も、稽古や撮影のスケジュールの相談のようだった。
墓参りのあとも、利央と雑誌撮影してから一緒に殺陣の稽古に行く予定だ。主人公・土方トシヤが新撰組として戦い抜くラストを描くための重要な練習時間だ。
明日明後日あたりには美容院で黒染めしてもらい、いつでも撮影できる状態にしておきたい。
忙しくてもやるしかない。やり遂げたい。
今も成瀬の背には、ナイロン製の袋に鞘のように仕舞った竹刀がある。
「みんなが学べていても、主演の俺が足引っ張ったらだめっすよね。俺、演技がんばってみます。監督がいなくても、きっとなんとかしますよ」
……なんとかできるかな。
弱音をつぶやくモノローグは、現実世界には反映されない。それをいいことに口角をきゅっと上げた。ななめがけした竹刀用の袋の持ち手を握りしめながら。
「ありがとう、監督。桜子さんも。本当に……ありがとうございました」
信じられなくてごめん。恩を返せなくてごめん。
後悔は募ってやまない。けれどそれ以上に積み重なった感謝がある。
裏表なく、やさしい世界を見せ続けてくれた人。実りある愛が実在することを教えてくれた人。彼らに出会えたことが、成瀬の人生最大の幸福だった。
「俺が――二代目“侍”」
監督が遺してくれた二つ名。成瀬は胸を張ってその身に刻み込む。
「あなたの仇を取ると約束します」
顔つきは怖いほど真剣でありながら、肌はまだらに赤らんでいた。
すると突然、ガサッと音が響いた。まさか幽霊か、いやいやマネージャーだろう。そう言い聞かせながら成瀬は、二度目の音を捉えた瞬間、竹刀を袋から抜き取った。
横の小道に向かって振りかぶった竹刀は、静寂に衝撃波を与えるすんでのところで急停止した。
「Good reflexes! 冴えた動きでしたよ、ミスターナルセ」
「え……?」
「レッスンの成果が出ていますね」
「た、汰壱……?」
小道から現れた汰壱に、成瀬はおろおろしながら竹刀を片付けた。
白薔薇学園の校章が入った淡いクリーム色のジャケットに、毛玉ひとつないダッフルコート。普段より内側にくるんとおさまった栗色の髪。結婚記念日のディナーデートのために準備した風都を彷彿とさせる、絵になる立ち姿だった。
「な、なんで、ここに……?」
日程を示し合わせたわけではない。何かの記念日でも一般的な法事の日でもない。けれど成瀬は単なる偶然とも思えなかった。
「……決戦前、ですから」
汰壱は両手に抱えた大輪の菊の花を、カーネーションと交えて生ける。この広い園内のどこにいてもすぐに見つけられる華やかさだった。
白い花びらがこぼれ落ちそうなほど開いた一輪をすっと抜くと、「風都」の名の前にかしづくように添えた。
汰壱は手を合わせたあと、しばらく天を仰いだ。腫れた雲が通り過ぎると、深呼吸をして墓石を見つめ直した。その丸くつぶれた瞳には、煤けた陽の光が映ったままだった。
「Don't worry. 大丈夫ですよ、セーイチロー殿、サクラコ。安心してくださいね。ボクもマミーもパピーも、おふたりの愛するユラも、悲しんでばかりではありません。みんな、少しずつポジティブに変わってきています」
風都家の一人娘、由楽は、はじめ汰壱の家で面倒を見る予定だったが、両親の過ごした日本にいたいという本人たっての希望から、桜子の妹に引き取られることになった。
葬儀のとき、由楽の精神状態はかなり危うかったが、汰壱の両親が付き添った甲斐があり、最近は枕を濡らしていない。
汰壱も風都監督作品の鑑賞を一日一作品までにおさめられている。訃報を聞いた日は、ひさしぶりにマンションの貸部屋に帰り、丸一日ぶっとおしで再生し続けていた。
「そう、ポジティブに……がんばっています。でも……それはきっと、事故だと思っているから、できていることで。人為的に起こされた殺人事件だとわかれば、復讐心に囚われかねません。うちのマミーは特に」
風都誠一郎名義の家が売られ、由楽は桜子の妹夫妻の元へ引っ越し、汰壱の両親はアメリカに戻った。
新しく始める日常。それでもまだ、汰壱以外は誰も、あの件のニュースを見ることができない。ましてや汰壱の母――風都誠一郎を親愛する実の妹――は、交通事故というキーワードを目にしただけで目眩を起こすほどだ。
明らかに異常な日常。ふつうが何か、わからない。
「だから、真相はナイショにしちゃいます」
汰壱は困ったふうに首をすくめて言った。
「隠しとおすことはできないでしょうけれど、できるだけ言及を避けて、あの悲劇を遠ざけようと思うんです」
(……同じだ、俺たちと)
成瀬の感情が汰壱のと共鳴する。
人身売買の商品扱いされた被害者の子どもたちが、解放された今、別々の道を歩んでいる理由と同じだった。不幸がよみがえってしまわないよう、早く、多く、新しい幸せを見つけたい。でなければ心が耐えられない。
ふつうに生きられるまでが途方もなく険しいのだ。多少の回り道でも、ゆるやかで歩きやすいほうが断然身体にやさしい。
(まあ俺の場合は、最終的に荒療治だったけど)
ふつうに生きて、ふつうに暮らしたい。
被害者の中で成瀬は特別その念が強かった。
産まれたときから冷遇され、ふつうを知らずに過ごしてきた成瀬だからこそ、マルやサンカクの犠牲を重んじて、生にしがみつこうとした。
しかし気持ちに反して体は進まず、ただ今日を消費するばかり。幸せなんか明日にも昨日にもなかったし、やがて探す気も失せた。
あの日。
遠ざけていたかつての少女と引き合わされた、あの瞬間。
まさに天変地異。
成瀬の世界が変わった。ふつうとはかけ離れてしまっても生きていられた。じくじくと脈を打つ鈍痛が、生きていたい理由になった。
「これが正解だとは思いません。それでも……セーイチロー殿もサクラコも、ボクと同じ気持ちならうれしいのですが……」
いつになく気弱にひとりごちる。だがすぐに気丈に墓石を見据えた。
「復讐については、ボクが代表して請け負います」
はっきりと言うことではない。が、成瀬にとやかく言う資格はない。
だって、
「……俺もさっき宣誓した」
「んふ、気が合いますね」
ふたりは同じ境地にいるのだ。
「仲間がいるのでボクは堂々と戦えます」
線香の匂いが白い花びらにしみていく。
汰壱のかじかんだ鼻先が、隣の成瀬に向いた。
「仲間というのは、キミも入ってますよ、ミスターナルセ」
言うまでもないかと思いますが、と付け加え、その花々を真似るようにほころんだ。
相反して成瀬はびくりと喉仏を引かせる。仲間。直に響くその単語に慣れていないせいだ。
――お前なんか産まなければよかった。
ずっと、望まれない子だった。使えるのはせいぜい端正な容姿だけ。名前も中身も必要なかった。
空っぽだった。
空洞だからこそ、些細な言葉が響きやすかった。
「これもナイショにしていたことなのですが……前々から女王様にお願いされていたことがありまして」
もったいぶった口ぶりが、成瀬の胸を高鳴らせる。
「モデルデビューしたミスターナルセについて、情報があったら逐一報告するように。そして、プライベートなことはひとつ残らず公に晒さないように、と」
「え……? 俺の、こと……?」
「SNSを定期的に見回って通報したり、ホワイトハッカーの真似事もしたりしたこともありました。所属事務所が大きいこともあって、ボクが直接手を下すことはそうありませんでしたが」
――いい? あなたは最初から守られて然るべき存在なのよ。
前にもらった姫華の言葉が、何重にも織り重なり、成瀬の身体に響く。響いていく。どこまでも。消えることなく広く行き渡っていく。
成瀬が孤独だと思い込んでいたものは、ただの物陰に過ぎず、血溜まりのようにも見えるそれは、他でもない彼女の影だった。
「そうして監視と報告を繰り返していくうちに、ボク自身、キミのファンになっちゃっていました」
「……俺の知らねえとこで、面倒かけたな。ごめ」
「あ、謝らないでくださいね? ボク、うれしかったんですから」
「……なんで」
「キミを知れたこと、出会えたこと。この人がボクの尊敬する女王様や侍に愛された人なんだなあって。……Yes,I was really happy」
汰壱はしみじみと噛みしめる。
「女王様が指名手配の懸賞金を積んで白園学園に入ったのも、キミのように大事な人を守るためなのでしょう」
「え……」
彼女はいったいどこまで背負ってくれていたのか。
会わずにいるほうが彼女に負い目を感じさせず済むと結論づけていた過去の自分を、成瀬は恥ずかしく思った。会わずにいる間も彼女はずっと、自分の幸せをあと回しにし、陰ながらみんなを見守っていたのだ。
彼女も、守られて然るべき存在に変わりないはずなのに。
「ボクも守りたいです。愛するファミリー、フレンズ、マイセルフ……みんな、みんな」
「……俺も」
「仲間と一緒だとなんでもできそうな気がしてくるからふしぎですよね。……ボクは本当に恵まれました」
(…………俺も)
口には出さなかったものの、成瀬も小さくうなずいた。
生まれてはじめて抱いた感想だった。
聡明な白薔薇学園や上層の白園学園に通える身分も才能もない。おまけに肉親はろくでもなく、金のために入った芸能界は裏表の差が激しすぎる。言わずもがな神雷も、人並外れた変人ばかり。
だけど……いや、だから、なのか。ゆっくり、少しずつ、体重計には乗らない重みが、成瀬の身体を満たしていた。すべてが身体にいいものではないだろう。それでも、悪いことばかりではなかった。
そう認めるまで時間がかかってしまった。
もう空っぽのふりはできない。
「セーイチロー殿やサクラコも空の上から見守ってくれています……よね」
「ああ、きっと」
「ボク、もっともっと強くなれそうです」
成瀬と汰壱は願掛けを兼ね、ふたりそろって墓に手を合わせた。
「次にここに来るのは、すべてが終わったあとですね」
「だな。明日……がんばらねえと」
「No problem. トラップはすでに発動しています」
天才的な鷹の目が、遠くの山々を霞ませる薄暗い雲を見通す。雨の匂いを含んだ雲は、音もなく家の立ち並ぶ町のほうへ忍び寄り、包囲していく。
もはやすでに袋のねずみだ。
○
稲妻が町を分断しようと走った。降り出した氷雨は、子どもの泣き真似をして町中を冷やかす。夜の帳が下りた町はただ静かに耐え忍ぶ。普段夜が明けてもなおうるさい繁華街も、激しさを増す雷雨の下では脅える一方だ。
水浸しの交差点に、閃光が反射する。振り切るように一台の車が猛スピードで通り過ぎる。
ピチャン。
ひしめく轟音に紛れ、ひとつの足音が水たまりを散らした。
ピチャン。
黒いブーツが、水を拒絶する。
傘を差さず、同色の上着で頭から膝上まで隠していた。肩回りのたくましいハリ感、フードの下から覗く色素の薄い髭が、生物学上のカテゴライズを男と知らしめる。
武器商人の新道寺と似た風貌だが、背丈は頭ひとつと半分ほど高く、迷彩柄のズボンを履いた股下は筋肉の小山が隆起していて、体格にかなりのちがいがある。
筋骨隆々な見た目とは裏腹に、手にはバイオリンケースに似た荷物を持ち歩いていた。高級感漂う荷物に触れる手は、お世辞にもきれいとは言いがたい。何種類もの傷が痕として放置され、それを避けるようにしわが寄っている。50を超える歳の手だ。噛みちぎったように短い爪は、炭を掘ったように汚れていた。
ピチャン。
男の節々から醸し出される黒々しさが、霧がかる世界に秘められる。
その交差点を渡ってはいけない。その向こうには女王の城があるのだから――そう釘を刺す役はいない。
男は迷いなく空き家だらけのゴーストタウンに進んだ。
すれちがう人はいない。車両もない。しっぽが白い野良猫が一匹、乗り捨てられたママチャリが二台、ページの抜けたアダルト雑誌が三冊。道端に見つけるものはどれも男にとってはしょうもなく、すべて同じ強さで蹴ってどかした。
道なりにたたずむ無人の雑居ビルに立ち入り、最上階の6階に上がる。元は会議室であった部屋の窓から景色を確認すると、満足気に鼻から笑いを吹かした。
男は上着に吸いつく雨粒を払い、フードを取った。
頭に点々と生えた、金色の毛根。クレーターの目立つ、焼けた顔。分厚い表皮で歪んだ、意地汚い笑い方。
かつてボスと呼ばれ畏れられた男、その人であった。
「ひっ、ひひ……やっと終わらせられるぜ。逃亡劇のクライマックスだ」
男は画面の割れた携帯を取り出す。電力の働かないコンクリートむき出しの室内に、雷とは異なる安定した光がぱっと放たれる。
白い画面に映るのは、めったに受信することのないメール。
『警官を買収してやったぜ! 仲間と脱獄して、俺らをやった神雷とかいう暴走族のたまり場に復讐しに行くんだけど、お前もどう?』
10年以上昔、紅組最高幹部、別名三銃士として共闘した元同僚からだ。
紅組が全滅し、人身売買の計画が表沙汰になったことで一度は逮捕されたものの、ふたりとも手錠を破壊して脱走。計画を再試行し、ボスは闇市のセッティングを、元同僚は商品集めを決行。闇市開催直前で警察にアジトを暴かれ、ボスは腰巾着ふたりを売って船でとんずらした。
日本に残留していたメンバーも巻き添えになり、散り散りに逃亡。その一人、元同僚は、なりすましや整形をしながらやり過ごしていたようだが、先日とうとうお縄になったとニュースでやっていた。ところが実際は、買収に脱獄と、思いのほか好き放題やっていたらしい。
「日本のおまわりは相変わらずちょろいねえ……ふひっ」
笑うと口角が痙攣し、豚のような音が鳴る。船での逃走中、海に転落したときの後遺症だ。
とはいえそのおかげで捜索が難航し、今も捕まらずに済んでいる。顔の一部が欠損しようがプラマイゼロだ。
「やっぱおまわりなんか目じゃねえな」
警察はよそ者の協力がないと特定もできない。冗談は通じないくせに誘惑には簡単に乗せられる。公安警察特殊部隊・クレナイの時代から扱いやすくて助かった。
そんな奴らがどれほど捜査を続けようがどうでもいい、どうにでもできる。
目障りなのは、その「よそ者」のほうだ。
「神雷っつう自警団ごっこのチンピラに、武器で釣ろうとしたらしいおもちゃ屋。それから……返品されちまった、生意気な商品ども。どいつもこいつも俺をなめやがって」
元はと言えば、たかが商品であったガキが出しゃばらなければ、警察の世話になることはなかった。紅組の脅威を知らずに育った、無知なチンピラやおもちゃ屋が、興味本位で物色してくることもなかった。
ハエが耳元を飛び回っているみたいに鬱陶しくて仕方なかった。そいつらのせいで負け犬みたいに逃げるはめになったと言っても過言ではない。
だがそれも今日までだ。
「やられた分はきちんとやり返さねえと」
元同僚との2ターン程度のやりとりを見返し、きひ、ひひ、と断続的な笑いを含む。
今日、神雷のたまり場で集会があり、そこに武器商人も参加するらしい。なぜかは知らない。関係ない。大事なのは、皆殺しするにはうってつけだということだ。
バイオリンケースまがいのカバンを床に置いて開いた。中には、ライフルの部品と銃弾がぴったりはまっている。これは武器商人の取り扱いではなく、人身売買の拠点に使っていたアジトに保管していたボスの私物だ。逃亡の際に、闇市会場の主人からもらった金と一緒にちゃっかり持ち出していたのだ。
「ふ、本当は商品番号33番……新道寺緋から始末したかったが」
唯一いい値で売れた商品が、日本に生還したと知ったときは激昂した。それを機に飛行機墜落や人身売買の件が掘り起こされ、へたに町に下りられなくなった。しまいには、新道寺自身が逮捕に協力し、大衆の英雄を演じている。
商品のくせに何様のつもりだろう。他の
すべて完膚なきまでに壊してやりたいが、新道寺のことは真っ先に処分したかった。
手始めにこの私物の組立式ライフルで、車のタイヤを抜いたときの爽快感は忘れられない。殺るのは誰でもよかった。どうせなら神雷の奴らも泡を吹かせてやろうと、知り合いっぽい奴を選んでぶち抜いた。
あれは最高だった。
お前らもいずれこうなるんだよ。そう宣戦布告するのにふさわしい舞台だった。
やはり逃げ隠れするなんて性に合わなかったのだ。追われるより追う。狩られるより狩る。主導権を握るべきはこちら側だ。
強いて言えば、ただの交通事故で終わったことが心残りだった。わざわざ武器商人の愛顧する銃弾を取り寄せ、ついでに害虫一匹駆除しようと思ったのに水の泡。警察がバカなのも考えものだ。
結局、自分の手で片を付けるのが最適というわけだ。
「今夜害虫駆除して、明日以降在庫処分に回ろう。いひ、ひ、ひひっ」
ちょこまかと邪魔くさいよそ者をさっさと退場させ、フリーになってからのほうが何かと動きやすい。
「あ、そういや、神雷にはあいつがいるかもしれねえんだっけ。あの使えない
殺るなら早いほうがいい。あと回しにしたら後々面倒なことになる。それは、長年裏社会で積み上げた経験からか、ここ最近で急に蓄積された焦りによるものか。あるいは、子を持つ生き物に備わった本能か。……あまり深く考えないようにした。とにかく全部殺ればいい。
窓を開けたと同時にピカッと空が点滅した。ビルの手前にある二棟のマンションが一瞬ライトアップされる。隣合うマンションの間に、物々しい洋館のシルエットが浮き上がった。
1キロ先に構える、神雷のたまり場だ。
ボスのいる雑居ビルから洋館の正面がよく見えた。以前矢文を打ったときに使った絶好のポジションだ。屋上のほうが射撃向きだが、前回使った場所だからかえって狙われやすいし、そもそもこの天候ではせっかくの見晴らしのよさを活かせない。かといって他にいい立地はなく、元同僚からもこの場所を勧められたので、灯台下暗しとして屋上の一個下のフロアを利用することにしたのだった。
開けた窓の隙間から、サプレッサー付きのライフルの先端を挿しこんだ。弾薬を装填し、片膝をついて銃を支える。
銃口を向けるは、洋館の扉口。集会の参加者は洋館の玄関ホールに集合するらしいと、メールに書いてあった。そのメールの送り主である元同僚は、今ごろ仲間とともに洋館の周りで配置についているだろう。
「ひ、ふひ……前にも思ったが、評判のわりに穴だらけだな」
俺らが本気になれば敵にもならない。そう余裕に浸りながらスコープを覗く。
斜線を重ねるように降る雨。雷に驚いてざわめく木々。傘が雪崩を起こす館の玄関先。
集会があるというわりに出入りはない。
誰か来い、来い、来い! 逸る気持ちに、指先が疼く。
一発撃ち込んだら、それを合図に元同僚たちが突撃する手筈になっている。まどろっこしい報告は必要ない。歴戦をともにした阿吽の呼吸があれば、開戦の合図だけで十分だ。
風が吹いた。雨の角度が変わる。
一台のバイクが結晶の混じる雨粒を跳ねのけ、洋館前に停車された。
スコープ越しに目を凝らす。ヘルメットを脱いだオールバックの少年がエンジンを止めた。うしろで同乗していた全身黒の少年とも少女ともつかない高校生くらいの子どもが、あとに続いてヘルメットを取って返す。ヘルメットの下にフードをかぶっていて、やはり素顔は確認できない。手袋と丈の長いブーツで念入りに防寒され確証を持てなかったが、バイクの降り方や洋館の玄関への歩き方で、おそらく男だろうと予測をつけられた。
「あれが例の武器商人か……?」
実際に交渉したことはないが、知り合いが数人世話になったと聞いている。黒づくめの小柄な男、常にフードを身につけていて、赤い爪がトレードマーク。噂の風貌と9割がマッチした男が、今、神雷のたまり場に踏み入れている。
開戦記念の一発目は、あの武器商人らしい奴にしよう。
連れ立つオールバックの少年が扉に手をかけたあたりで、ぐっと脇を締め、グリップを強く握った。雷雨のノイズが感覚の外に遠ざかっていく。武器商人が身震いしてフードの水気を飛ばす、その一挙手一投足を、明瞭に感知する。ぷひ、と間抜けな笑い声が漏れた。
軽いトリガーを引く――ッグァガシャン……!
突如、鼓膜を引きちぎるような爆音が、雨風を押しのけ雑居ビル6階に吹きこんだ。
直後、スコープのレンズに集中していた右目に、何かが擦れる。瞼からこめかみにかけて皮膚がちぎれていく。
「ぅっぎぃやあああっ!!!」
ブッシュァアッ!右目から勢いよく血が噴射された。発火したような熱さと激痛。右の眼球が赤黒く染まり、やがて視覚機能を失う。
スコープのレンズもカバーも砕けて散らばる床を、這いずるように悶える。バランスを崩したライフルが、ガクンッと床に落下した。
左目に、薬莢もひとつ転がっているのが見えた。
銃の不発か?いいや、ちがう。
音がしたのは、トリガーを引く間際だった。
どこからか射撃されたと考えるのが妥当だろう。ライフルのスコープをピンポイントで撃ち抜き、最終的に右目に到達させたのだ。
だがそんなの可能なのか。チンピラ風情がヤクザ並に銃撃戦に慣れているとは到底思えない。
しかも今夜は雨風が強く、雷も鳴っている。この悪天候で正確性を保つのは、実力者でも難しい。
考えられるとしたら、敵襲を読んで超のつく実力者を雇ったか、超近距離から撃ってきたか。どちらにせよ姑息な手を使ったにちがいない。まさか天候さえ計算できるキレ者がいるわけでもあるまいし。
(俺を撃った奴はどいつだ! どこにいる!? ぜってえ許さねえ……!)
窓の下に背をつけ、息をひそめる。インナーに着ていたタンクトップの裾を破り、右目を止血しながら眼帯のように裾の切れ端を巻き付ける。
ケースに入れていた予備の部品で、銃を組み替える。外の様子を窺いながら再び射撃体勢に入った。
近隣に6階以上ある建物はない。上を取られる心配がないから、何も気にせずこのビルを使っていたのだ。
となると、凄腕スナイパーが神雷にいるということになる。一発で仕留められていい気になっているかもしれない。想像しただけで癪に障る。
自分より腕の立つ人間なんかいない。いてたまるか。煮え立つ血流が、右目の眼帯を赤く燃やした。
左目を新しいスコープにセットする。
神雷のたまり場周辺を探るも、入口に人が集まってきているくらいで、それらしい人物は見当たらない。
範囲を上にずらしていく。2階、明かりのついた大窓で、ふよふよとカーテンが揺れていた。
(この天気で窓を開けてるなんて、ここから撃ってますって教えてるようなもんじゃねえか)
あらかじめメールでもらった洋館の設計図と照らし合わせ、あそこを広間と見当をつける。
風をまとってカーテンがぶわっと波を打つ。似た波形を描く長髪のシルエットを、左目にしかと捉えた。上質な紅のベロア生地に、沿って編まれる金糸。
(あいつだ。前に矢を打ったときもあそこにいたから間違いねえ)
あいつが撃ってきたのかと思うと胸くそ悪い。殺気が抑えられない。
教育してやるつもりで狙いを定める。また茶でも飲んでいるようで人影は微塵も動かない。もはや殺られたがっているようにしか見えない。片目しか使えなくても、脳天に照準を合わせるのに苦労はなかった。
あとは撃つだけとなったそのとき、雷が鳴った。影が打ち消される。
闇がよみがえると、洋館の2階の大窓に人影が増えていた。ショートヘアと思しきシルエットが、狙いの長髪のシルエットと交じり合う。
ふたつの人影の中心から長物の影が伸びた。
「っは、ひ、やば――」
――バァッン! バァァッン!
とっさに横にスライドするようにして受け身を取った。突風が窓ガラスを叩く。雨と血で黒ずんだコンクリートの床に、銃弾が二発のめりこんだ。
立て続けに数発の銃声。コンクリートが穴だらけになっていく。
もうここにはいられない。会議室に置き去りのデスクを盾に銃とケースをまとめ、撤退した。
待ち伏せしている奴がいないことを確認しながら慎重に階段を下りていく。物音ひとつ聞こえてこないことを確信すると、携帯を操作し電話をかけた。相手はもちろん元同僚だ。無機質なコール音が無性に苛立たせる。貧乏ゆすりが止まらなかった。
六回目のコール音でようやくつながった。秒数をカウントし出した通話画面に、右目の血がべったりと付着していた。
「ひはっ、お前何やってんだ、あぁ!? 洋館の2階にスナイパーいんのわかんだろうが!」
反応はなかった。いや、よく耳を澄ますと音が聞こえる。ザー、ザー。まるで電波がさざめいているような雨音だった。
「おい……おいっ! 聞いてんのかよ! ひふっ、ちゃんとしろっつってんだよ!」
『……ふふ』
返ってきたのは、自分の後遺症をからかうような笑い声。
『逃げ足が速いのね』
中年男にはけっして出せない、声の高さ。どこか懐かしさを感じるその声音に、思わず電話を切った。
黒く閉じた携帯画面を、くだる血。ぬるりと指が滑る。気持ち悪い。階段の踊り場で携帯を叩き割った。ブーツで何度も何度も踏みつける。中身の細々とした部品もろとも粉砕した。手に取れないくらい粉々になっても踏み続けた。
一旦立て直そうとビルの裏口から外に出る。
そこにはすでに人が待ちかまえていた。
「お、お前……っ」
中高生くらいの華奢な上背を、安っぽいビニール傘が守っていた。
黒いモッズコートに、布が余って動きづらそうなズボン。フードを深くかぶり、コートのポケットに手を突っ込んでいる。
さっき洋館の入口にいた武器商人だ。
(俺がすぐにビルから出てくると読んで、先回りしやがったのか……?)
洋館からこのビルまでは1キロ以上ある。バイクを使ったとしても先回りは間に合わない。
(奴がふたりいねえと説明がつかねえな。いったいどうなって……ふたり?)
向かいで傘を持つ、その手は、赤いネイルを施していた。
なるほど、さっきのは囮だ。
たまらず舌打ちをした。冷えこむ外気が、布を通って右目の傷を刺す。
本物の武器商人に向けて、ライフル用のケースを投げつけた。即座にビニール傘が対抗し、正面に振りかぶられる。ケースが傘に弾かれ、地面に転がり落ちる。その間にライフルを持ち直し、矛先を決めた。
傘の奥に透けて見えるコートのど真ん中。バクバク跳ね上がっているであろう心臓の位置。
今度こそレバーを引き、発砲した。
傘のビニールの面が破裂し、骨組みが宙を舞う。折れた銀の光沢を、左の視線で追いかけた。
カシャンッ。
傘があられもなく地面に倒れこむと、ふしぎと手元が重くなったのを感じた。
反射的に視線を下ろす。ライフルの先端に鮮やかな赤が点していた。血がついたにしては発色があまりにきれいで、思考が鈍る。数秒遅れて染料による装飾と気づき、次いでそれが他人の右手と理解する。
ハッと首を回せば、右目の死角に武器商人が移動していた。コートがひとりでに浮遊しているかのようで、背筋がぞくりと粟立った。
武器商人はライフルを持つ手を不意に力ませる。力を加減して先端を前に引き、そしてスピードを上げて力いっぱいに押し戻す。ライフルのグリップがボスのみぞおちに食いこんだ。
「ぅ、っえぉ……ゥグホッ……!」
呆けた口から舌がだらりと伸び出て、唾液なのか胃液なのかわからない濁った液体を垂らす。水分量を調節するように雨が口の中に入っていく。
脱力した体からあっけなくライフルを奪い取られてしまう。
頭中をめぐる血管が膨張していくのがわかった。鼻から湯気が立つ。雨に当たってもまったく冷めやらない。
これで出し抜いたつもりかよ、調子に乗んじゃねえよ、ふざけんなよ、狩られるのはそっちなんだよ。雷鳴に負けない奇声を上げながら、渾身の右拳を振り上げた。
武器商人は華麗にジャンプして一歩分あとずさる。フードの端に拳がかする。フードがふわりと広がり、外れていく。
放り出された髪の毛は、想像以上に長く、軽やかだった。
夜を縫う稲妻のような金色の髪。
氷雨を浴びて艷めく女の顔。
爪と同じ色で闇を弄ぶ、真っ赤な口紅。
(……は……武器商人じゃ、な)
「あら。娘の顔も忘れてしまったのかしら」
雷雨をすり抜けて直接聴かせてくるその声に、記憶を揺さぶられる。古いものから、新しいものまで。
「ひ、ひ、ひ……さっき電話に出たのは、やっぱお前だったのか」
「ふふ」
「つうことは、2階にいた奴こそが本当の囮だったのかよ、ふん、つまんな」
商品番号0番として大金に替えるはずだった、血を分けた実の娘。
それが年を重ね、今、なぜか不良グループの総長となり、立ちはだかろうとしている。
商品のときは従順でかわいげがあったのに、今や見る影もない。恩知らずなゴミだ。いったいどこで育ち方を間違えたのか。
ボスは憐れに思った。心の底から。自分のことを。
「携帯の持ち主をどうした」
「……」
「くひっ……黙ってねえでさっさと白状しろ!」
「あらあら……癇癪を起こす癖は直っていないのね」
笑い方の趣味は変わったようだけれど、とあやすような口調でささやく。どちらが親なのかわからない振る舞いに、ボスはカッと顔を赤くする。並びの悪い歯を剥いて喚いた。
「おめえのことを忘れてたかって聞いたよな? ひはっ、思い出したわっ! 裏切り者の女狐がっ! お前を産んだ女とそっくりだ! いるだけで害になる! 金になんねえなら、あの女みたくはよくたばりゃいいのによ! ひっはは!」
「そんなくだらないことを憶えていたの? 頭の使いどころを間違えていなくって?」
「あ? てっめえ……くひっ、ひ……俺ァ知ってんだぞ。お前が俺らんこと追っかけ回してる
「そう、最近調べたのね。新道寺緋に挑発され、躍起になって。そうでなければ今さらすぎるもの、この再会も、銃撃も」
終始上からな物言いが気に食わず、ボスはキッと目に力を入れて睨みつける。右目に激痛が走った。雨に濡れた頬に、ぬるい温度が伝う。
図星だった。
今まで逃亡生活に必死で、子どもを持っていることなどすっかり忘れていた。というか我が子だと思ったことは一度もない。
名前は……はて、何だったろうか。
所詮取るに足らない存在。いてもいなくてもどうでもいい。使い勝手がよくて、金になるからもらってやっただけ。
(……こんなことになんなら、
忌々しいこの
いらないものは無視するのではなくて、ちゃんと処分しないとだめなんだ。
上着の下のベルトにかけていたサバイバルナイフを取り出した。彼女の右目へ一直線に切っ先を突き上げる。
彼女はしなやかに背を反らしてかわした。そのまま足を逆立てる。足はボスの顎を蹴って頂点に達し、宙返りをして着地した。
ボスはしゃくれながらもナイフを振り回し続ける。彼女のコートの袖がビッと切れた。間髪入れずにナイフを両手で持って畳みかける。全体重をかければ、女子どもでは太刀打ちできまい。
しかし彼女は避けようとせず、耳元の髪をいじってよそ見をしていた。無防備な彼女に容赦なく体当たりしに行く。
衝突間際、奇しくも雷が落ちた。強烈な光線に左の視界が一瞬遮られる。勢いがゆるんだ、その一瞬のうちに、ナイフを握りしめる両手の首を捕らえられた。動脈をつぶしかねない強さで払い落とされる。
よろめいた体を持ち直そうとするも、雨で足が滑り、地面に膝をついてしまう。ナイフの表面に疲弊した自分の顔が映った。負けを認められず、ナイフを彼女に投げつける。
彼女は平然とナイフの柄の部分を殴って跳ね返す。風に乗り、ナイフは遠くのマンホールまで吹き飛んだ。カランカラン……と金属音がよく転がる。
(……なんだ……なんか、おかしくねえか……?)
一対一でここまで一方的になっている戦況が。
右目を殺られた代償が大きいのか。いや、紅組幹部だった戦闘力はその程度では衰えない。
戦闘力ではなく身体機能のほうが、自分でも気づかぬうちに衰えていたのだろうか。いや、相手も未成熟な小童、しかも女だ。まったく歯が立たないなんてことはありえない、形勢が逆ならまだしも。
ツキがない。その一言に尽きた。まるで天があちらに味方しているかのように。
誰も加勢しに来ないのもおかしい。敵の大将と戦っているのだから、ふつう元同僚や誰かしらは駆けつけるだろう。無駄に音や声を出していたのは、位置を周知させる意図も含んでいたというのに。
そういえば、と周囲を見渡す。どこからも似たような騒ぎが聞こえてこない。真夜中なことを思い出させる静けさだ。それでいて、人の気配はぷんぷんする。
(何かがおかしい……。味方は生きてんのか? ……本当は、俺ひとりだけが囲まれてるんじゃ……?)
(――と、気づき始めているころかしら)
膝を痛めて四つん這いの姿勢を崩すボスを見下ろしながら、姫華は密かに目を細めた。
髪の水気を絞るふりをして、右耳につけた超小型イヤホンに触れる。
『Good job! 女王様、次の作戦にまいりましょう!』
あいにくこれは一対一ではない。
はじめから彼女は独りではなかった。
遠隔でつながる汰壱の声に、姫華は安心してひと呼吸置いた。
幼きころ、手も足も出なかった
姫華は横目にビルの裏口を一瞥する。
扉の上についたささやかな屋根には、実は監視カメラが内蔵されてある。新道寺のコネで手配してもらったものだ。同様にたまり場圏内に数ヶ所設置している。ボスが出現する可能性が高いと考えた場所に。
当初、ボスの行動パターンは証拠不十分で予測不能とされていたが、かつて地下牢のあったアジトにライフルが保管されていたことを記憶していた姫華は、先日の矢文の件も鑑みて、ボスが遠距離攻撃に出ると当たりをつけた。
そして、勇気が下っ端たちを率いてたまり場周辺の地形や建築物などを洗いざらい調べ直し、射撃スポットを含め侵入しやすそうなエリアを割り出した。
その調査結果を元に、いくつかのエリアに監視カメラを配備。候補に挙がった射撃スポットに関しては、洋館を狙いやすく、それでいてこちらからも迎え撃ちやすい場所をひとつ選定し、メールでそこに来るよう誘導した。
そのメールのやりとりも、実際に迎え撃ったのも、見事こなしてみせたのは汰壱だ。新道時が新たに開発した特注の狙撃銃を、短期間で物にし、彼なりに仇を討った。
狙撃任務後も、こうして監視カメラと音声通話を通し、下っ端数人とともにサポートに徹している。
トンネルでの一戦のように敵の攻撃ターンをシミュレーションしたかったが、ボスのデータをリアルタイムで取得するには多大な犠牲を要することになる。そこで代替案として、汰壱が狙撃任務にも役立てた、勇気らの調査結果と天候の知識を駆使し、巧みに戦況をリードした。
力がある、味方がいる、そう思いふんぞり返っていたボスの表情が、みるみる崩れ落ちていった。
起きたことはすべて偶然ではない。因果応報。自身でまいた種だ。
図らずも種は根を張り、枝を伸ばし、無数の葉や実を開かせた。
(イヤホンで聞いていたけれど、囮作戦も見事だったようね)
私たちだからできること。
みんなで作り上げた戦略が、想像以上にきれいに花を咲かせていることに、姫華は胸がすく思いを抱く。
無論、これで終わりではない。作戦は今も継続している。
「ひ、くそっ、おかしい……っ。なんで……どうして……!」
「ふしぎに思うのなら、一度現実をご覧になってみては?」
ぱちん。今朝塗りたての赤い爪を自慢するように指を鳴らす。音がビルの壁をよじのぼっていく。
『Next is……ホームレス軍団!』
巻き舌の声がイヤホンを貫くと、一斉に道を取り囲む建物の窓が開いた。
驚いてボスは顔を上げる。ガン開きした左の眼に雨が刺さり、思わず目を瞑りうつむく。タイミングを見計らったように四方八方でパンッ! パンッ! と空気が振動する音が連鎖した。
ボスはすぐさま感覚だけを頼りに宙を鷲掴みにする。手中には、雨玉が凝結したような小さな弾が3つほどおさまっていた。
「び、BB弾……?」
取り損ねた十数個が、雨と自認しているかのようにパラパラと降り注ぐ。暗い夜道が瞬く間にカラフルに彩られた。
「ひひっ、俺をからかってんのか!? あぁ!?」
ボスは雲に塞がれた上空に向かい威嚇のポーズを取った。
ボスが使った雑居ビルを除く、3階以上の高さのある建物から、多種多様な人々が多種多様な銃をかまえている。
「はっ、何なんだてめえら!」
通称、ホームレス軍団。新道寺の提案で協力要請を出した、武器商人と交渉済みのホームレスの人たちだ。軍勢、およそ20名。エアガンを操作する手つきは拙いが、命中させることが目的ではないので問題ない。むしろ射線がバラけたほうが好都合だ。
素人ゆえの不一致な軌道とどしゃ降りの雨が、ボスの勘を惑わせる。
飛び交うBB弾の半分はボスの巨大な体に当たった。小石がぶつかった程度のダメージしかないが、数が多いとストレスがたまる。
もう半分は路地一帯に散らかった。ぽちゃん、とひとつ、水たまりに沈む。それはやけに重たい音だった。
「くっ、ふへ……失せろよ、エアガンごときにかまってる暇は――」
――バァッ……ン!!
ボスは反射的に横に飛び上がった。
プラスチック製の小粒であふれ返った地面には、重厚な鉄の弾が埋まっていた。持ち前の危機管理で一歩ずれていなければ、確実に黒いブーツはお釈迦になっていた。
ふふ、と笑みが落ちた。ボスの狂気じみた後遺症ではない、姫華の薄ら笑いだ。
「失礼」
「なっ、何がおかしい……!」
「……ふふ」
「ひはっ、ああそうか……全部お前の差し金だろ。そうなんだろ! バカげた真似しやがって! 俺相手に遊んでるつもりか!? はっ、ひひひひぃ!」
遊びというと当たらずも遠からず。実際は、脅しだ。
ホームレス軍団の各潜伏場所には、神雷の下っ端を複数名置き、それぞれに実弾の入った銃を持たせている。
神雷のモットー。
殺しはなし、100%生け捕りにすること。
銃はあくまで脅し。命を奪うまではしない。
だが生半可に臨めば逆襲される。だから気持ちは常に本気で、銃弾には根深い敵意がこもっている。
脅しはちゃんと脅しとして機能し、ボスはまんまと手のひらで踊らされている。
情緒とは関係なく繰り出されるボスの笑い声が、雷鳴を凌駕した。
それでも姫華の微笑は揺るがない。高潔に咲き誇っているようで、その実、悪のすべてを掌握していた。
もう大人に支配される
彼女は“女王”だ。
――あの館は、神雷のもの。立ち入ったら最後……女王の贄となるだろう。
この場を統治する王なのだ。
「お楽しみいただけて何よりだわ。私の庭は気に入ってくれたかしら」
「ひ、ふひっ、ふ、ふざけんのも大概にしろよ! お前、どっから仕組んでやがった!? お前のせいで全部台無しだ! お前のせいで……お前のせいで……!!」
バァンッ!
「そんなに元気なら、まだ遊び足りないわよね?」
姫華はライフルを拾い上げ、片腕で造作もなく発射してみせた。ボスの上着の裾にぽっかりと穴が空く。
あとに続くように再び建物から発砲音が反響する。乱れ撃ちのBB弾に紛れ、明確な意志を持った銃弾が、ボスの背後を抜いていく。ボスは前方に飛び退け、鉄の塊だけを器用に避ける。
弾丸の雨は天気を倣って激しさを増す。考える隙を与えない。ひたすら前進していくボスの尻を叩くように、姫華は次の弾をセットしたライフルを伸ばした。あわてて進行方向を東へ転換するボスに、それでも躊躇なく引き金を引く。曲がり角に売却の看板を立てたアパートの外壁が鋭利に削られた。
『女王様、ナイスコントロールです!』
イヤホン伝いに周知される汰壱の賛美が、盲目的な評価でもお世辞でもないことは、その場にいない人でも理解できた。
外壁にヒットしたのは、わざとだ。
わざと、東へ向かわせた。
脅しの有効活用。ただ行動を抑止するのではなく、コントロールする。
『ホームレス軍団、第二陣いきますよー! Ready?』
騒音が突き当たりの向こうへ移行していく。
音を追い抜いて苛烈な雷光が我先に弾けた。業火さながらに盛る先は、化けても出られない女王の城。
「招待したからにはちゃんとお越しいただかなければ――我が館へ」
そう簡単には帰さない。
首に絡まる金髪を背に流し、姫華も悠然と歩き出した。
「ひ、はっ……ふひ、ぃひひっ、ひはあああ!」
もはや笑い声とも言いがたい絶叫が、宵闇の町を震撼させた。
道路にへばりついた血生臭い痕跡をたどる姫華の視界に、ホームといえる洋館が映った。そこに全速力で近づくボスのうしろ姿も。
ボスは背中にBB弾を連射されてもいとわず、一方で鉄砲の照準に捕まりにくいスピードで直進していた。餌にがっつく飢えた猿のような顔をしているだろうと、姫華は手に取るようにわかった。
(洋館の扉前には、彼がいるもの)
自分と瓜二つの格好をした、彼が。
目と鼻の先に捉えたその姿に、ボスは興奮を隠せなかった。手ぶらでひとり扉横にもたれかかり、フードを鼻あたりまで下げている。先ほど囮だと思い込まされた、あの武器商人だ。
音楽でも聴いているかのように規則的に首を倒す仕草をする彼は、館前の嵐に見向きもしない。それがよけいにボスの破壊衝動を爆発させた。
銃撃戦はツイていなかったが、ステゴロの戦闘スタイルには紅組の矜恃がある。形勢逆転の踏み台にするには、またとない獲物だった。
落雷の衝撃がボスをいっそう逸らせる。前傾姿勢で速度を上げた。数え切れないほどのBB弾が黒いブーツにつぶされていく。
ボスが洋館の敷地内に片足を突っ込んだ。
途端に発砲音がぴたりと止んだ。
『ターゲット、ゴールイン』
「ようこそ、神雷のアジトへ」
豪雨で変化に気づかないボスは、まるで恋するようにフードの彼に迫り寄る。
それを500メートルほど離れた地点から姫華は見守っていた。依然として歩みはゆるやかで、手まで打ち鳴らし始める。足音と同じリズムの拍手も、延々に流れる雨が包み込んだ。
「歓迎のあいさつをしなければいけないわね」
腕に抱いたライフルを掲げた。装填された弾を余さずすべて送り出す。ボスの頭の輪郭を象るように飛行していく。
ヒュンッと風がうなり、雨が避ける。
フードの彼に拳を向けたボスが、身を屈め頭の位置をずらすまで一瞬だった。
その一瞬で、十分だった。
音もなく洋館の扉が開かれた。着弾前に人ひとり分の隙間ができるや否や、内側から棒が突き出された。先端がU字の形をした刺股だ。U字型の金具がくの字に曲がるボスの体を圧した。背後にアンテナを張っていたボスは、一瞬の間に締め上げられた下腹部の感触に、はっ? と声を漏らした。
理解できないままに、一発目の弾が、無いも同然のボスの髪を刈った。感電したような熱が頭皮を焦がす。痛い、頭も目も腹も、痛くて苦しい。悲鳴を押し殺しながらも傾く体勢を止められない。勢いを増して押してくる刺股に、どうにか足腰を踏ん張っていた。
二発目以降の弾はすべて、開かれた片方の扉をノックした。ギリリ、とボスの歯ぎしりと同時に、沈黙していたその片方の扉も軋み始める。
刺股に全体重を預けた、勇気の上半身が躍り出た。冬場の深夜、雨風さらに助長されているにもかかわらず、 Tシャツ一枚で、袖は肘の上までまくっていた。2メートル以上ある棒を押して押して押しまくる両腕は、丸めた袖を引きちぎりそうなほどパンパンに膨張している。
全力をかけても、ただでさえ筋肉量の多いボスをなかなか動かすことはできなかった。
痛覚に慣れてきたボスは、U字に切り替わるつなぎ目部分をつかみ、押し返し始める。かと思いきや、つと力を抜いた。
「ぅりゃああ……うおっ!?」
反動で勇気は前に倒れかかる。
口角をひくひくさせたボスは、屈伸しながら飛び退き、U字の囲いを軽々と逃れた。刺股を蹴り上げるが、勇気の手から離れはしなかった。
頭皮の火傷のような傷口に、ピチャン、雨がしみこんだ。なぜか左目まで霞み出す。
左目をこすり、もう一度フードの彼に焦点を合わせる。口角が中途半端な高さで攣った。
目が、合っていた。フードの陰に潜んでいた眼が、いつの間にか自分を射抜いていたのだ。雷神の逆鱗に触れたような烈々たる光を帯びながら、夜の深い闇の中に溶け込んでいた。
ボスのこめかみに青筋が浮かぶ。
「ひひ、いひひ、ひはははっ! そのままじっとしてろよ間抜けがっ!!」
すかさずフードの彼に詰め寄り、拳を走らせる。自ら白濁させた空気が散っていく。
ボスの言ったとおり本当に微動だにしないフードの彼は、瞬きすらせず、ボスの厚い面を静視する。まるで作り物にも思える、そのいやに冷めた眼めがけて、ボスは殴りかかったつもりだった。が、視覚の不調で軸がぶれていたらしい、拳は彼の顔すれすれを横切った。
空振りする拳。せめてもの風圧でフードを落とす。
あらわになったのは、姫華と似て非なるブロンドヘアだった。
「お前が、本物の武器商人……?」
日暮れの雪をかぶったような髪を、黒い皮の手袋をはめた手がかき上げる。内側にかけて長くなる髪の毛は、色落ちした毛先を隠すように背に垂れたフードの中に入っていく。
フードの陰がなくなっても、髪をうしろに流しても、顔色はほの暗かった。元が血管も毛穴もなさそうな青白さで、明かりという明かりが見当たらない暗雲の下では、どうしても薄闇のフィルターがかかる。
その陰が、むしろ彼の造形を際立たせていた。まなじり・鼻・顎のとんがりが、この世にふたつとない刺激的な画を生み出す。視覚の暴力ともいえる美貌だった。
「なんかどっかで……」
ボスは無意識に瞳孔を広げていた。
「あ……はは、そういやいたな、売れなかった商品でテレビに出てた奴が」
「俺の名は……!」
堂々と言葉をかぶせたフードの彼――成瀬は、今なおボスを睨み続ける。上着の袖をしゃんと伸ばし、息を深く吸い込んだ。
「俺の名は、成瀬円! 侍・風都誠一郎の名を継ぐ弟子だ!」
すると、成瀬の袖口から刀の柄部分のみが滑り出た。細身の柄をぎゅっと握りしめる。刀身がなくてもかまわず、そのまま振りかざす。
単なるパンチの強化かと、ボスは笑って受けて立つ。
成瀬こそ、ニヤリとほくそ笑んだ。勢いに乗った柄から段階的に刀身が伸びた。予想の何倍もの速さでボスの首にたどりつく。
「侍の覚悟なめんな」
汰壱が一から作った、伸縮自在の小刀。これが模造刀なことを、成瀬は今さらもどかしく思った。
仕方ない、神雷は生け捕りがモットー。刀を震わせる握力を必死に抑え込み、銀メッキの切っ先でボスの喉仏を突いた。ぅえっほ、と唾を吐いてえづくボスに、成瀬は念押しで追撃する。
「うっ……く、ひ、ガキの妄想にゃ、付き合わねえよ」
二度目の突きは、片手で止められた。ボスは手のひらにおさめた切っ先を、メキメキと圧迫させて砕こうとする。
成瀬は引き抜こうとするも力及ばず、両手で柄を支えるので精一杯だった。それなら、といけるところまで引き、耐えて、耐えて……ボスがズンと近づいたのを合図に、柄を投げ放った。
シュンッシュンッシュンッ! 柄の中に刀身が片付けられていく。
そのまま柄にぶつかって喉がつぶれろ。成瀬の呪いを鼻白み、ボスは持っていた切っ先を捨てた。
「ひ、ひへっ、そんな手に引っかかるかっつうの。脇が甘ぇんだよ」
「おっさんもガラ空きだぜ!」
槍さながらに刺股を携えた勇気が、高く跳躍し襲いかかった。
ボスはこともなげに見上げた。ピチャン、タイミング悪く唯一使える目に何かが入った。雨にしてはごわつき、視神経をじわりと蝕む。下瞼の縁から赤い液体があふれた。左目を一時的に封鎖させたのは、頭皮からこぼれた鮮血だった。
U字の棒先は難なく重量ある体をホールドした。上から刺さる棒に追われ、巨漢が転倒する。刺股を地面に突き立てた勇気は、ズドンッと膝を曲げて着地した。
よくやった円! と勇気は一瞬、横で足をすくませる成瀬にアイコンタクトを送る。ん、と成瀬は片肘を張ったまま首肯した。
雑誌撮影にドラマの稽古にと目まぐるしい生活を過ごす成瀬は、それでも今日の決戦のために毎晩洋館で素振りをしていた。それを見て勇気は実戦形式の戦闘訓練に付き合ってあげるようになった。決戦当日の今晩も、武器商人になりかわる成瀬のボディーガードに志願し、いつでも援護できる体勢を整えていた。
努力が実った。実感はない。
吠え面をかかせたボスを、ふたりは興奮気味に見下ろした。力技で脱出されかけ、ふたりがかりで刺股を押しつける。
「ひっ、はひ、ふ……どけ……! グェホッ、ゥホッ……どけよゴルァ……ッ!!」
ゴロゴロ……ピッシャァ……ン!
洋館の建つ道の奥に雷が落ちた。ちょうど薄目を開けたボスの視界が白く消える。
数秒の静寂。
ボスの充血した左目が、ぼんやりと泳ぎながら外部情報を探る。洋館の2階、大窓の輪郭が血の膜を張って映りこんだ。
カーテンがうごめいていた。裏から現れた姿を、ボスは痛みをこらえて凝視する。
「……あ、いつ、は……」
渋みのある金の巻き髪は、館の主人である女王を連想させる。
が、ちがう、そんなはずがない。ボスはかぶりを振るように眼球を震わせる。館前の通りを闊歩する、真の女王、姫華が確実に近づいてきている。
2階の窓ガラスに透過した、その顔は、女といえば女に見えるだろう。しかし姫華と明らかにちがうのは、海を越えて産まれた経歴を如実に物語っているところだ。
「さ……33番……ひ、は、っ……新道寺、緋……!」
女王の囮に徹していた新道寺は、三角にすぼめた眼光で、地べたに寝転ぶボスを見据えた。
今にも窓を叩き割って殴りかかりそうなほど手のひらを内に閉じこめている。骨が皮膚を突っ張らせ、血色感が先端に集まっていく。
窓に滴る雨が、新道寺を泣かせていた。
新道寺は眉間にしわを寄せながらも渋々瞼を伏せた。す、と左手の指を開き、肩ほどの高さに掲げた。そろえられた指の先には、熟したりんごの皮を借りたような爪が尖る。空を縦に切るようにして手が下ろされた。
周囲の建物から地鳴りのような音が響き渡った。BB弾でボスを罠にはめたホームレス軍団が、競走でもしているかのように洋館に集まってきていた。
刺股で捕獲したボスに、ひとりが体当たりで伸しかかる。またひとり反対側からダイブし、次は左腕をつかみ、その次は両足に体重を乗せた。そうして順にホームレスの人たちが積み重なった。土台のボスはもう、うんともすんとも動かせない。
「ひ、はっはふ、ぅああああっ!!」
声量で勝負しても、ホームレス軍団は耳を押さえることもしない。
声を張ったあとボスの肺がへこみ、重圧をもろに食らうはめになる。あばら骨にヒビが入った。鍛えた自慢の筋肉がかえって骨を苦しめる。
その痛みでさらに暴れ、応急処置の眼帯がずれていく。ボスの顔周りに血がたまる。雨水と混ざった赤色は、煙のように淡くなじんでいった。
そんな末路を見届けた新道寺は、おもむろに視線を少し遠くに移した。
「いかがだったかしら。私たちのおもてなしは」
パチン、パチン、と雨足を遠のかせる拍手が、場を制した。
遅れて洋館に戻ってきた姫華は、まず落ち着きのないボスの黒目を覗きこむ。
「……めえ……てんめえええっ!!! ぃひっ、こんなことしてただで済むと思ってんのか!! く、ひひっ、許さねえからなっ!! すぐにぶっ殺してやる!!! ふはははっ!」
骨を折ってでもぶちまけずにはいられなかったようだ。よだれを泡立て、カチカチと上下の歯を鳴らしている。
そのうるさい口に、姫華は問答無用で銃を挿しこんだ。
「んっ、んが……!」
「おだまり」
「うっ、ははへ……んあ……!」
「何様のつもりなのかしら。その老体で何ができるというの?」
さらりと引き金をつかむ。中身は空。音も鳴らない。それでも銃口にしみついた火薬の匂いに負け、ボスは口を開けて固まった。
きっと今なら指先ひとつで屠れる。
(とどめを刺すのは、娘の、私の仕事)
ずっとそう思って生きてきた。
だけど。
(……どうやらそうではないみたい)
雨で潤って見える姫華の眼差しが、周りを一巡する。確保に一役買った成瀬と勇気、2階で耐え抜いた新道寺と汰壱、縁の下の力持ちだった下っ端たちとホームレス軍団。
特に成瀬と新道寺は、自分の囮という命に危険があってもおかしくない役だった。
作戦中心配していたのだが、意外にもふたりに恐怖は見受けられなかった。憑き物が落ちたような表情で姫華を見つめ返している。
(……そう……そうよね……。私たちにできることは、これでおしまい)
姫華は銃を下げた。薔薇色の口紅に逆さの虹を架ける。
意識を朦朧とさせたボスに、甘く、残酷に、ささやきを残した。
「生かしてあげるわ。あなたが昔愉しそうに笑っていた、地獄の底で」
命の価値が堕ちるその日まで。
空が晴れていく。雲間をかき分ける月明かりが、姫華の濡れた頬を撫でた。
鉄の臭いが漂う神雷のたまり場に、サイレンが走ってくる。赤く回るパトカーランプが、辺りをこれ以上ないほど明るく照らす。山々を越えて射す朝日のようにまぶしかった。
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