第十四話 震える夜に温もりを

 こういう早く帰りたい時に限って、仕事が終わらないんだよなあ。

 急ぎ足で歩きながらスマホを見ると、既に八時を超えていた。金曜日はいつもより少し忙しいけど、それに加えて先方が、少し早めに資料が欲しいと連絡してきたのだ。全く、少しはこっちの気持ちも考えてほしいものだ。

 と、グチグチ心の中で思ってもストレスは解消されないため、考えないようにする。

 帰ったら希愛に会う。帰ったら希愛に会う。

 ひたすらそればかり考えていたけど、三回目で、波夢のことを思いだした。何も聞いてないけど、呼び捨てでいいのかな。ちゃんと年下だよな?

 それなら貴奈子さんも呼び捨ての方がいいかとも思ったけど、それはまた本人とも相談しようと決める。

 大通りを左に曲がって、暗い住宅街に入った。そこから五分行ったところに立っているのが、俺が住んでいるアパートだ。

 一月下旬の夜は、まだまだ冷える。でも、白い息が出るほどではなくなっていた。これからどんどん、温かくなるといいな。

 何てことを考えていたら、いつも通りすぐにアパートに着いた。階段を上って二階に上がり、ドアの前に来て鞄から鍵を出そうとした。

 その時、左隣のドアが静かに開いて、少しびっくりする。ヌッと隣人が出てきた。黒髪が肩につきそうなくらい伸びていて、あごには無精髭が見えた気がする。規則正しい生活とは、程遠そうな見た目をしている。普段はそんなにすれ違ったことのない人だった。


「あ、こんばんは」


 一旦動きを止めて挨拶するが、相手から返事はなかった。

 数少ないが、すれ違った中でも、無視されたことはなかった。返事はしないが、軽い会釈は返してくれてたから人見知りなのかと思っていたけど、違うのか。

 怪訝に思って早く家に帰ろうと鞄を漁っていると、声が聞こえた。


「俺には何もないのに……」


 どうやら、隣人が話しているらしかった。声が小さくて、俺は自然と体を寄せる。


「メイドなんか雇いやがって……ずるい……」

「え?」


 何故か、俺にメイドがいるらしいことが分かって、嫉妬しているようだ。確かに、あの格好で出勤しているのなら、見られていてもおかしくないだろう。あんな格好で歩いていたら誰でもびっくりするだろうから、これからは俺の家で着替えるように頼もう。

 そう思っていたら、彼の右手で何か光った気がした。見ると、そこには包丁が握られていた。

 …………え、包丁?


「はあああああ!?」


 近所迷惑も顧みず、俺は叫び声をあげて来た道を引き返して階段を駆け下りた。後ろから、カンカンと音がする。追ってきている。

 いやいや、意味わかんないし! 八つ当たりにもほどがあるだろ!

 世知辛い世の中だけど、他人を恨む前にまずは見た目を整えろー!!

 こんなところで死んでたまるか。俺はまだ、希愛にお金を使うんだ。一緒に最後まで戦うんだ。

 そうだ。鞄があるし、包丁にも対抗できるかもしれない。……いや、無理だ! イメージしてみたけど、刺されるところしか浮かばなかった。

 スマホ、警察! コートのポケットからスマホを出そうとした。そして出した瞬間、手が震えすぎて取り落とした。後ろを振り返ると、男はそれを気にせずにこちらに猪突猛進状態だ。

 くっそ、何でこんなことになった!? いつも世界の平和を守るために、こんなの比じゃないくらいの怪物と戦ってるのに! おれじゃなくてメイドがだけど!

 やばい、体力なくなってきた。俺、ここで終わるのか……?

 ――死にたくない。まだ、やりたいことがあるんだ。

 年甲斐もなく涙が出そうになった時、後ろで呻き声が聞こえた。


「ぐえ!!」


 後ろから聞こえてきたから振り返ると、男が後ろにのけ反る形で倒れていた。そこからロープのようなものが伸びていて、それを辿っていくと人が立っていた。その人が少し歩くと街灯の下になり、メイド服を着ていることが分かる。さらに、ラベンダー色の髪の毛だ。

 見間違えかと思って目を擦り、目を凝らしてもう一度よく見てみる。けれど、それは間違いなく波夢だった。


「え……波夢?」


 俺が声をかけても、波夢は男に歩み寄る足を止めなかった。安心して、俺も自然と波夢に近づいていく。

 波夢の方が先にたどり着いて、男の近くにしゃがみ込んだ。男は後ろに倒れた拍子に包丁を落としたようで、脅威はなさそうだ。


「お、お前、あいつのとこのメイドだな! 俺にこんなことしやがって、タダで済むと――」

「どの立場で話しているんでしょうか? あなたこそ、琳太郎様に刃を向けて、覚悟はできているのでしょうね?」


 暗闇で良く見えないが、家での波夢と表情は変わらない気がする。でも、纏っている空気が違う。言葉の温かさが違う。これは、俺の知らない波夢だった。

 波夢は男を見下ろして、容赦なく胸元を踏みつけた。その足には、家で履いていたスリッパがあった。


「波夢……?」


 もう一度呼びかけると、波夢はゆっくりとこちらを向いた。


「叫び声が聞こえて急いで来たのですが、ご無事でよかったです」


 温かい、安心する。さっきと目立った違いはないのに、まるで別人のようだ。いや、それもそうなんだけど……。


「それ、何? え、戦うの?」


 質問すると、波夢は自分の手元を見ているようだった。それから、静かに答えた。


「これは、わたし専用の武器の鞭です。琳太郎様、またはわたし自身の身を守るために、戦うことを許可されています」

「へ、へえ……」


 状況整理が追いつかない。

 戦うって、それ『君とならどこまでも』と似てない。メイドが戦うって……!

 いやでも、ここは現代、ゲームは西洋ファンタジー。舞台が全く違うし、戦う敵も違う。そもそも、これはレアケースで、これからは戦う機会はないだろう。

 少しずつ落ち着いてきて男を見ると、波夢の鞭が首に巻きついていた。それで引っ張られて、後ろに倒れてたのか。


「助けてくれてありがとう。じゃあ、警察に連絡するね。それから家で――」

「いや、この男は、東雲家で処分します」

「処分!?」


 思わず大声を出してしまい、慌てて口を塞ぐ。

 処分って、え、海に沈めるとか? 拷問の末に、帰らぬ人になったりとか?


「それって……」

「安心してください、命は取りませんから」


 俺を刺そうとして男を気にする心は微塵もないが、それでも波夢の言葉には恐ろしさがあった。もし刺されていたらと思うとぞっとするけど、俺は助かった。それは運が良くて、恵まれているからだとも思う。


「こいつは俺を刺そうとしたから、同情の余地なんてない。けど、改心の心があるかもしれないから、その、再起不能とかには――」

「しませんよ。少し、お話しするだけです」

「そうか……じゃあ、よろしく頼む」


 こんな思考じゃ、俺はいつか本当に殺されるのかもしれないな。けど、どんな人でも、思いやりをなくすようになるくらいなら、後悔のしないようにしたい。


「じゃあ、頼みますね。行きましょう、琳太郎様」


 波夢がそう、こちらに左手を差し出した。俺は自然と、それが当たり前かのようにその手を取って歩き出した。

 一体、誰に何を頼んだのだろう。

 少しして後ろを見ると、そこにはもう男の姿はなかった。

 家に入ると、一気に安心して疲れが押し寄せた。途中でスマホも回収して、本当に何事もなく帰れたことが今でも夢みたいだ。


「お疲れ様です。たくさん走って汗をかいたでしょうから、先にお風呂に入りますか?」

「いや、今日は疲れたから、ご飯だけ食べて寝るよ。お風呂は明日の朝、入ることにする」

「かしこまりました。すぐにご用意しますね」


 俺は食卓について、しばらく呆然とした。

 男の言葉が、耳の奥で反芻される。

 俺は彼女がいらないと言いながら、実は恵まれていたのかもしれない。俺の周りには、人がたくさんいる。たくさん持っているのに、何かをいらないというのは傲慢だろうか。

 数分したら、波夢がご飯を持ってきてくれて、それをただ機械的に食べた。ちゃんと美味しいとは思うのに、意識が途切れそうだ。

 疲れた、本当に疲れた。けど……。

 生きててよかった。

 そう思った瞬間に、涙が溢れてきた。波夢が近くで見ているのに、温かいご飯を食べたら涙が止まらなかった。二十五歳にもなって女の子の前でなくなんて、かっこ悪すぎる。

 箸を一旦置いて、手の甲で涙を拭う。それでも止まらないから、左掌で目元を覆って隠した。

 その瞬間、ふわっと柔らかい温もりに包まれる。手の隙間から見るとメイド服が見えて、波夢が抱きしめてくれているようだった。


「わたしが、琳太郎様を守ります。怖かったら、このままここにいます。だから、安心してください、笑ってください」


 笑ってくださいと言われて、笑える心境ではない。でも、この温もりに、この言葉に、俺の心は確実に救われた。


「いや、そこまで子どもじゃないよ。安心して涙が出てきただけだから大丈夫」

「それはよかったです」


 顔を上げると、微笑む波夢と目が合った。

 色々と気になることとか聞きたいことはあるけど、それはまた今度にしよう。今は、この乱れた心を休めるべきだ。

 しばらくして涙が止まった俺は、ご飯を食べ終えて着替えるとベッドに入った。


「それでは電気を消して、わたしは帰りますね」

「ありがとう、おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 波夢が電気を消すと、少しだけ不安になった。けど、そんなこと、かっこ悪すぎて言えない。


「もし何かあったら、これを押してください。すぐに来ます」


 それを察したのか防犯のためか、ボタンがついているキーホルダーを渡された。何なのか分からなかったけど、何故かこれがあれば大丈夫という安心感がある。


 玄関から出ていく波夢を見送った後、俺はそれを握りしめて眠った。

 横になったら、思った以上に疲れていたのか、すぐに意識を手放した。

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