消えゆく光のあとで〜星のような大切な君〜

春風りんご

0、プロローグ




 夕暮れ時、オレンジ色に染まる空の下、片桐秋斗かたぎり あきとは屋上に立っていた。冷たい風がビルの隙間を吹き抜け、微かに遠くの車の音が聞こえる、周りには誰もいない。


 この微かな静寂の中、目の前には八代夏希やしろ なつきがただ一人、静かに佇んでいる。その姿はまるで夢の中の人物のようにぼんやりと映った。 冷たい風が吹き抜け、夏希の黒い髪が少し揺れる。



「秋斗、今までありがとう」



 夏希は優しく、穏やかな笑みを浮かべて言った。

 その言葉が、秋斗の胸を締めつける。予感はあったはずなのに、心のどこかでそれを信じたくなかった。


「……ぇ…?」


 秋斗は言葉を失い、ただただ呆然とする。


 すると夏希はゆっくりと秋斗に近づき、その優しい手でゆっくりと頬を包み込んだ。指先は震えることなく、まるで壊れやすいガラスを扱うかのような慎重さ。

 そのまま、夏希は秋斗を見つめながら、そっと唇を重ねる。触れるか触れないかというほど軽やかでありながらも、その一瞬には確かな想いが込められていた。


 その瞬間、秋斗の心の中でやっと腑に落ちた気がした。


「今までありがとう」突然発せられた言葉の意味に。 その時、夏希の眼差しが秋斗を強く捕えた。揺るぎない、強い意志がそこにはある。


 少しの沈黙の後、夏希はふっと息を吐き出しながら屋上の縁へと近づいた。


 すぐにでも夏希の元へ向かうべきだったのだが、秋斗の体はとても重く、まるでからだ全体に鉛を抱えているかのようだった。


「……っ!」



 そして夏希は振り返り、笑顔で秋斗にこう口にした。



「バイバイ」



その瞬間、秋斗の全身に冷たい震えが走る。



「……っ、待ってくれ…!」



 やっとのことで体が動いた秋斗は叫びながら急いで駆け出した。すぐにでも手を伸ばしたが、それは虚しく空を掴むだけ……。

 下を覗くと、足を踏み外した夏希の姿がどんどん遠くなっていき、その姿はあっという間に消えていってしまった。今は、ただただ風の音だけが、虚しく響いている。



「……ぁ…、あ"あ"ぁぁ!!!」



 その声は秋斗自身をも引き裂くような悲痛な叫びだった。まるで世界が一瞬で静止したような、そんな感覚に包まれる。


 たった今、目の前で秋斗の大切な人がいなくなってしまった。

 秋斗の胸は激しく打ち、息が詰まる。あまりにも何もできなかった自分に、無力感が一気に押し寄せた。


 秋斗は思い返す。夏希が足を踏み外ず直前、彼は秋斗にキスをした。その優しさと儚さが、まるで命をかけて全てを伝えようとしているかのようなそのキスが、秋斗には全てだった。

 それがあまりにも悲しくて、苦しくて、やっと気づくことが出来てしまったのだ。

 いや、本当は気づきたくなかったのかもしれない。秋斗は夏希と改めて向き合うことを恐れてしまったのだから……。


「…なんで、こんなことに」


 秋斗は膝をつき、呆然とその場に立ち尽くす。心の中で後悔が渦巻き、自問自答を繰り返した。

 どうして夏希の気持ちに気づかなかったのか、どうしてあの時、手を振り払ってしまったのか。

 夏希が訴えていた、彼が抱えていた痛みや想いに、どうして気づけなかったのか。


(夏希のことは全部受け止めると、そう誓ったはずなのに……)


 だが、今更後悔しても、もう遅い。


 その後悔は虚無感と共に秋斗の胸の中で深く深く広がる。



 そして、無意識に秋斗は手に握ったままの眼鏡を強く握りしめていた。

 つい先ほど、夏希から『これは、秋斗に持っていて欲しいんだ。そして……、一生後悔していてほしい』そう言われて渡されたものだった。


 その時には真意がハッキリとは分からなかったが、今ならよく分かる。

  渡されたそれはもはや遺品となり、あの頃の夏希との繋がりを象徴しているかのようだった。

  今では何もかもが手遅れで、すべてが元通りには戻らないことを、秋斗はただただ感じるばかりであった。



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