水陰
@miyamayumoto
第1話
半年ほど前からだろうか。駅からまっすぐ歩いてモールと反対に進んだ先のコンビニに、僕は月に二度ほど通っていた。というよりもコンビニの前に通っていた、と言う方が正しいだろう。僕にとってそのコンビニはコンビニではなく、建物であったからだ。
丁度時計の針が二十五時を指す時間に着くように出て、人がいなければそのままコンビニに入ってアイスを買って、一人で食べて帰った。ある人がいれば、久しぶりですと。元気にしていましたかと話しかけて、そのまま二人で散歩した。彼女は女優さんで、僕は会社の経理さんだった。
初めてそのコンビニに行ったのは雨の日で、おおよそ誰もが眉間に皺を寄せるような雨が降っていて、私はコンビニで最後の傘を買ったところだった。あ、と二人でどこか居心地が悪そうに顔を逸らして、その日、僕は久しぶりと声をかけた。彼女は昔、一人一つの長方形の机を隣に並べて、芥川龍之介の羅生門を一緒に読んだ人だった。
「本当に。もう十年ぶりくらいかな」
「かな。三吉さん、この間の同窓会行った?」
「行ってない。八神くん行ったんだ? なんか意外かも」
「いや、僕も行ってない」
「何それ、何で聞いたの」
「同窓会があったら同窓会の話しない?」
「自分が行ってなくても?」
「行ってなくても」
「しないよ。少なくとも私はしない」
何となく会話をしながら、僕は傘の袋を開けて、ゴミをくしゃくしゃにして鞄に捨てた。この場合、大事なのは会話ではなく時間を埋めることだったから、意味を持たない薄っぺらな会話だけを選んでした。三吉さんは時折、風で乱れた前髪を右手で直していて、左手でスマホを持っていた。
傘の留め具を外して二、三度振る。ぴちっとまとまっていた傘が開いたので、そのまま差した。会話が止む。けれど雨は止まなかった。空を見て、手元の傘を見て、空を見る。雨の音が少し大きくなったような気がした。
「……傘、入る?」
「いいの?」
良いか悪いかで言うならとても良くない。しかし、三吉さんはそれを聞くために聞いたわけではない。傘に入るために聞いたのだ。ノックをするためにノックするのではなく、ドアに入るためにノックするのと同じ。だから僕はどうぞと返事をすることなく、内側からドアを開けた。
「家どの辺?」
「モールと反対に十分くらい歩いた所」
「へえ、遠いね。いや近いのか? 僕からしたら遠いけど」
八神くんが遠いって言うなら近いかも、と三吉さんは口の端を上げた。ザー、とノイズのような音が頭に降りかかって、時折パシャ、と音が足に飛んだ。どちらもいつもは聞こえない音だった。僕はやっぱり雨が嫌いだと思った。
雨の匂いは好きだけど、雨の音も好きだけど、雨を見るのも好きだけど、雨が付くのは嫌いだった。好きなところが沢山あるのに嫌いなところが一つあるだけで嫌いになるなんて、自分はなんて薄情なやつだと思った時もあった。大好きな親子丼に嫌いな七味をかけると嫌いになるので、それと一緒だと思うことにした。雨は好きですかと聞くと、三吉さんははいと答えた。僕は雨が嫌いなので、そうですかと消化することが出来ずに、雨が好きな三吉さんが残った。
「──よ」
「え?」
「私の家、着いたよって。ごめん。雨の音で聞こえなかった?」
「あ、あー……うんそう、うるさくて。ごめん」
「いいよいいよ。ごめんね、ありがとう」
「ううん。全然。じゃあ」
「じゃあ、また」
同じ台詞を繰り返して、僕は来た道を帰った。それから四日後の夜。コンビニにアイスを買いに行こうとすると、三吉さんが丁度コンビニから出てきて、何となく話をした。仕事の帰りの時間がどうやら一緒らしく、その三日後、三吉さんがまたコンビニから出てきた。この間はありがとうも久しぶりですも使えなくて、困った僕は会話をするために会話をした。
三吉さんはありささんという名前で、侑桜と書くのだという。珍しい名前だねと言うと、音は平凡だけどねと言われた。彼女はパピコが好きなのか、いつも珈琲味のそれを一つ僕に分けてくれるから、それを咥えながら公園まで歩くのが常だった。彼女が三吉さんから侑桜さんになった頃には、それは二週間に一度の恒例行事になった。二人でいろんな話をした。「レモンは皮ごと食べるよね」と言った僕に彼女が驚いて、「雨は人の気分を下げる最終兵器だと思う」と言った彼女に僕が笑った。僕は彼女に声をかけながらスマートフォンを鞄にしまうようになって、イヤホンがポッケに絡まるようになった。彼女は片手にスマートフォンを、片手に鞄を持ったままだった。時々片手がパピコになったけど、すぐにまたスマートフォンになった。僕はパピコを咥えて歩いていたので、右手も左手もずっと空いたままだった。なんとなく、時折手をポッケにしまって歩いた。
今日は何故か袋の中には缶ビールまで入っていて、パピコは期間限定の桃味だった。好きな味だったのもあって、僕はいつもより少しゆっくりパピコを食べた。ガサガサと時折ビニールの音がなるだけの、初めて公園まで何も話さない日だった。雨は止んだけど肌が少しべたついている。梅雨の頭が見えているのだろう。首の後ろのワイシャツが歩くたびに肌に当たって、ちょっとだけくっついて離れた。僕は少し眉を寄せた。水たまりに映る彼女も同じような顔をしていた。
「お酒、珍しいね。好きなの?」
東屋のベンチに座ると、僕たちの間に一人分、レジ袋が席をとった。
「さあ。初めて買った」
「……? どうしてまた急に?」
「人は嫌な事があった時お酒を飲むらしいから」
プシュ、と鳴るプルタブの音が初めて嫌に思えた。渡された缶を受け取って、侑桜さんの蓋の開いた缶をとって、僕は両手に缶を一本ずつ持った。嫌な事があったらお酒を飲むなら、お酒を飲まなきゃ嫌な事にならないかもしれない。なにより初めて飲むお酒が美味しくないなんて勿体ない。
「とびきり嫌な事の為にとっておきなよ」
僕はリュックに入っていたお茶を手渡して言った。侑桜さんは少し間をあけてから、桜の花びらみたいな爪でそれを掴んで、ありがとうと言った。僕の好きなお茶だったけど、今の彼女には美味しくないかもしれない。嫌な事があった時は何もかも美味しくない。きっと舌に嫌な事が残っていて、だから美味しくなくなるのだと思う。僕の大好きな桃味のパピコも美味しくなかったはずだ。侑桜さんは初めて食べたのだろうか。そうしたらもう、桃味のパピコは買うことはないのだろうか。ベコ、と音を立ててひしゃげた。ビール臭い手で缶を持ち上げ一口飲む。
「美味しい?」
「全然」
即答する僕が可笑しかったのか、彼女は目じりを下げて声を出して笑った。そうして僕の渡したお茶を一口飲んで、足を浮かせて泳がせた。目の前を行ったり来たりする足を眺めながら、つられて僕も足を動かした。彼女は時折、ペットボトルの腹を押してペコ、と音を立てた。次第に間が短くなって、音に濁点が混じって、腹に痕が残るくらいになって漸く。彼女は小さな声をあげた。
「イマイチなんだってさ。私」
「え?」
「華がない。パッとしない。魅力がない……曖昧で分かりづらい。まあ演技なんて、はっきりこれが正解だなんてないし。当然かもしれないけど」
湿度の高い空気がまた、べた、と肌に張り付いて、ワイシャツのボタンを開けた。雨が降ったから仕方ないかもしれない。でも、仕方なくないかもしれない。多分彼女のせいだ。ペコ、とペットボトルの音がなった。ついでビールの缶の、ベコ、という音がなった。虫の音がなった。ビニールの音がなって、僕が一席分、彼女に近付いた。少しだけ香りがした。人間の香りだった。
「見る目ないんじゃないのそいつ」
「偉い人の見方が正しい見方だから。見る目ないのは八神くんだよ」
「侑桜さんは綺麗だよ」
「綺麗って言わないで」まっすぐこちらを向いた彼女と、目が合わなかった。「私、花じゃなければ作り物でもない。人間なの。綺麗と美しいは違うでしょ。綺麗じゃなくたって魅力的なら、それは美しいでしょ。私は美しくありたかった。舞台の上でだけでいいから」
目から零れた涙をみて、僕は思わず息をのんだ。ボロボロ零れる涙を気にせずに彼女は思いを語っていて、文字通り、勝手に涙が零れていった。気道がぐっと狭くなって、その分息が少し大きくなって、むりやり肺に酸素を送った。彼女はまだ器から涙をこぼしていた。
なぜだか僕は、彼女の涙にどうしようもなく触れたくて、手でそっと彼女の頬をなぞった。僕の乾燥した指が湿った。手を握るよりずっと彼女に触れているような気すらした。涙は血液のなりそこないだからだろうか。彼女の体温を作っているからだろうか。とにかく、彼女の内側に触れられたのだ。彼女も触れたことのない、内側に。ハッとして手を放し、ビールの缶を触る。音はならなかった。
「ごめん」
ようやく目が合って、分かった。彼女は多分、つい最近尋ねた僕の名前なんて覚えてはいないし、レモンを皮ごと食べる人も知らない。手を宙ぶらりんにさせていたのも知らないか、知らないふりをしていた。彼女は僕の表情を見て一瞬分かった顔をして、すぐに分からないふりをした。
「いいよ、もう言わないでくれたら」
「いや、ごめん」
「涙。拭ってくれたんでしょ? いいって、ありがとう」
「違うんだ」
「いいってば言わなくて」
「僕、君のことが──」
「言わないでってば!」
僕はまたごめんと言って、そうして彼女もごめんと言った。耳の中いっぱいになるまで風の音がしてから彼女の声がして、僕の中の風の音を追い出した。羅生門の朗読をしているいつかと同じ声だった。柔らかで透き通る、春風みたいな声だった。
昔、僕と彼女が隣に机を並べていた時、彼女は僕の事をかいくんと呼んでいたらしい。僕が左利きで彼女が右利きなのに僕が右で彼女が左に座っていたから、いつも肘が当たっていたらしい。そうして当たった時には二人でこっそり目を合わせて、ごめんとちいさく謝りあったらしい。僕の中にはない僕と彼女の思い出を彼女は話した。
プルタブを開けて、僕の持つ空き缶にカツンとぶつけて、彼女はビールの端を口紅で汚した。「本当だ。おいしくないね」と目を細めて笑顔を作る彼女は、涙で化粧は崩れていたけれど、それでも息を飲むほど美しかった。
「覚えてないでしょ」手に持った缶を見ながら、彼女は続けた。「あの時の海唯くん、私に興味なんてなかったもんね」
「そんなことないよ、僕だって覚えてるさ」
「例えば?」
「……国語の授業で、羅生門を代わりばんこで音読したよね」
「ああ、あったねえそんなことも」
「侑桜さんの名前は憶えてなかったけど、あの時の声は今でも覚えてる。名前の通り、桜が似合う声だった」
東屋の屋根に雨がぶつかって、輪郭が浮かび上がった。少しずつ少しずつ大きくなった雨は、僕の好きな雨の音じゃなくなっていった。
「あの時、隣に並んでたあの時言ってくれてたらな」
「え?」
聞こえなくて彼女の方へ顔を向けると、彼女もまた、僕の耳に近付いた。
「桜の下には死体が埋まってるって、言うじゃない」
「うん」
「私ね、しょっちゅう馬鹿にされてて。あ仕事の話ね。それで、二か月くらい前かな。丁度桜が咲いてた時。馬鹿にされた日。家に帰ったらまた明日が来ちゃうと思ってこの公園に来たの」
「うん」
「桜が春風に殺されてるのを見て、美しいってこういう事を言うんだって。死体を食べてあれだけ美しくなれるなら、私も死体を食べたら美しくなれるのかなって思って」
「……え、何。僕いま、食人犯の隣にいるの」
「まさか。死体が都合よく転がってるわけでもないし」
「転がってたら食べるみたいな言い方だね」
「食べただろうね」
初めて会った時の久しぶりと、全く同じだった。僕はどうしていいか分からなくなって少し黙った。彼女は足をゆらゆらと動かして、子供みたいだった。その手にビールを持っているのだか、子供のようだった。そんな怪しさがあった。無邪気さがあった。愚かさがあった。
雨の音が遠くにいって聞こえなくなった。止んだのかと思って東屋の外を見ると、やはりまだ、雨は大きかった。さっきまでは嫌いな雨の音だった。今は、好きな雨の音に戻っていた。どころか近くにいてほしくて、雨の中に飛び出してしまうかと思うくらいだ。でないと僕は、彼女を、どうしようもなく愛してしまいそうだった。
「今はさ、私、仕事なんだよ。仕事なの。私の気持ちって仕切りがなくて、全部仕事なの。今日ビール飲んだのもそう。貴方と二週に一度会ってたのもそう。私ね、次のお芝居、初恋の人と再会する女の役をやるの」
「いつから?」
「七月から。だから、次でおしまい」
「友達にはなれないのかな」
「なれないよ。だって今、私達友達として会ってないじゃない」
彼女の小さな小指の桜が、僕の手の甲をひっかいた。僕はその桜の花びらを捕まえて、ぎゅう、と手の中に隠した。誰にもとられないようにするためだった。僕の所に春は来ないから。せめてこの桜だけは逃がしたくなかったのだと思う。
桜を初めて見た日、僕は、桜を気味悪がって仕方がなかった。薄気味悪い死人みたいな色で、全てを覆う桜が怖かった。友達や両親が桜の話しかしない春の二週間があった。僕は彼らが何かに洗脳でもされたんじゃないかと本気で思っていた。今思えばアレは恐怖だ。美しさへ魅了されることへの恐怖だったのだ。美しさは凶器だから、人だって殺せる。証拠に、僕は今恐怖で満たされていた。彼女の美しさの糧になれるなら死体になったっていいと思えた。そんな自分が怖くて、それでも縋るように繋がりを求めて、そうして手を繋いでいるのだから。
「雨、弱くなってきたんじゃないかな」
彼女の声に、僕は手をまた、強く握った。
「いや、まだ降ってるよ」
「でもさっきより弱まってる」
「濡れちゃうよ。風邪ひいたら君、仕事に差し支えるでしょ」
「大丈夫だよ。傘あるから。八神くんは?」
定期入れ、パソコン、お茶、ボールペン……とリュックの中身を数えたが、傘はなかった。今朝の天気予報で雨だと聞いていた。けれど出る前、家を出る前に彼女の事を思い浮かべ、そうして傘を玄関においてきたのだ。もしかしたら今日こそ空いた手が埋まるかもしれない。予想した通りになった。けれど、期待した通りにはならなかった。
「忘れてきたんだよね」
「どうする? 入ってく?」
「いや、多分もう少しで止むと思うし。明日は休みだし。雨宿りしてから帰ろうかな」
「そっか。分かった」
彼女は片手に持っていたビールを無理に飲み干そうとしたので、無理して飲まない方がいいよと言い、僕が受け取った。代わりにバックに手を入れると、可愛らしい青空色の傘を出し、東屋の中でそれをさした。じゃあ、と彼女が言い、じゃあ、と僕が返した。雨の匂いで飲むビールは、あまりおいしくなかった。
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