終活してますか

ますだかずき

第1話 ドゥラメンテが日本ダービーを制覇

「カラーン」と乾いたカウベルの音を立てて、山元やまもと賢一郎けんいちろう村山むらやま加奈子かなこがグリーングラスのドアを開けて入って来た。

 グリーングラスは、洒落しゃれ煉瓦れんが造りの外壁をしつらえた5階建てマンションの1階にある喫茶店。地下に有楽町線が走る要町かなめまち通りと山手通りがクロスする要町駅から北西方向に歩いて5分。幹線道路から路地1本入った閑静な住宅街の一角にある。

「いらっしゃい」カウンターの中からマスターの声が聞こえる。

 入口を入った右側のカウンターに6席、中央に4人がけのテーブル席が6卓。正面の壁に50インチの液晶テレビが設置され、土日には、競馬番組『グリーンチャンネル』が放映されている。

 テレビの前の特等席には、すでに新井あらい辰雄たつお中山なかやま佑司ゆうじ石丸いしまるさきの3人が陣どり、隣のテーブルには、成瀬なるせ正義まさよしがサンドイッチを頬ばりながら競馬新聞を熱心に読んでいる。

 加奈子が成瀬の向かいに座ると、気づかない成瀬に小さな声でささやく。

「社長、またサボってるんでしょう」

「違うよ、加奈ちゃん。今日は忙しくって、朝から働きづめよ。やっと今、遅い昼飯、ってんの」顔をあげて成瀬がいいわけする。

 成瀬は、グリーングラスの隣にある成瀬不動産の社長。土日は、よく仕事をサボってグリーングラスに入り浸っている。

「それよりも、けんさん。やっぱ、ドゥラメンテで堅いかね?」

「子どものレースに大人が交じって走るようなもんだよ、社長。ぶっちぎっちゃうよ!」

さきネェの指数でもかなり高いらしいですよ」隣のテーブルから佑司が口を挟む。

「ダービーでこんな数値、出たことないから。かなりの確率で勝つと思うわ」

 競馬予想ソフトを駆使くししてデジタルな競馬予想を展開している咲は、自信満々の表情で断言する。SE(システムエンジニア)の派遣社員として働く咲は、密かに独自の競馬予想ソフトを開発していた。

「賢さんと咲ちゃんがダブるとなると、かなりの鉄板だなぁ」

「そうですよ、社長。ドゥラメンテを外した馬券なんて、ドブに捨てるようなもんですよ」佑司が駄目だめを押す。

 話題はもっぱら、今日行われる日本ダービーの1番人気の本命馬ドゥラメンテの取捨。あれやこれやと、ダービー予想で話が盛りあがる。ところが、いざテレビからファンファーレが流れ始めると、直ちに静まり返り、だれもがレースに集中する。

 成瀬は本当に仕事が忙しいのか、サンドイッチを食べ終えると、ダービーの実況中継を観もしないで早々と退散した。


 競馬の楽しみ方が時代とともに変わってきた。

 かつては、競馬場に出かけるか、場外馬券発売所(ウインズ)に足を運ばないと、馬券を買うことができなかったが、今や、パソコンや携帯電話で簡単に馬券を買うことができる時代。JRA(日本中央競馬会)では、電話・インターネット投票の売上が、競馬場や場外馬券発売所よりも上まわっているという。レース中継も、CS・BSのデジタル放送に加入してグリーンチャンネルを契約すれば、第1レースから最終レースまでのすべてのレースを、自宅にいながらリアルタイムで観ることができる。まさに在宅競馬時代の到来。


 馬券の種類も大幅に増えた。かつては単勝たんしょう(1着になる馬を当てる馬券)、複勝ふくしょう(3着までに入る馬を当てる馬券)、枠連わくれん(1着と2着になる馬の枠番号の組み合わせを当てる馬券)、馬連うまれん(1着と2着になる馬の馬番号の組み合わせを当てる馬券)の4種類だったが、次々に新しい馬券が登場した。


 馬単うまたん(1着と2着になる馬の馬番号を着順どおりに当てる馬券)、ワイド(3着までに入る2頭の組み合わせを馬番号で当てる馬券)、3連複さんれんぷく(1着、2着、3着に入る馬の馬番号の組み合わせを当てる馬券)、3連単さんれんたん(1着、2着、3着に入る馬の馬番号を着順どおりに当てる馬券)。そして、最近になってインターネット投票限定であるが、Win5というJRAが指定する5レースすべての1着馬を当てる馬券が売り出された。最高払戻額が6億円。こうなると、ギャンブルというよりも宝くじに近い。


 賢一郎が競馬を始めるきっかけとなったのが、史上最強馬とたたえられたディープインパクト。無敗で三冠馬になり、引退するまで14戦12勝。国内で負けたのが、3歳時の有馬記念の1戦だけという無敵の戦績。友だちに誘われてはじめて競馬場に行ったのが、日本ダービーが行われた東京競馬場。ディープインパクトは、2着馬に5馬身の大差をつけて圧勝。すっかりせられてしまう。


 以来、競馬にはまってしまった賢一郎は、悲惨な学生時代を送る羽目はめに陥る。教科書代はいうまでもなく、食費まできりつめて馬券を買う。簡単に競馬で儲かるはずがなく、馬券代を捻出ねんしゅつするために、授業そっちのけでバイトに明け暮れる。

 高い授業料を払うことになるが、ようやく競馬で勝てない原因を突きとめる。欲が予想を狂わすのだ。オッズを見て、これが当たればこれだけ儲かる、などと考えるから、馬券が当たらなくなる。オッズがつかないのを理由に予想を変えたりするのは、骨頂こっちょう


 戦績や血統などのデータを分析した上で、単純に強い馬、勝てる馬を予想して馬券を買えば、負け続けることはない。人気のかぶった本命馬でも、馬券の種類を工夫すれば、十分儲けることができることにようやく気がつく。馬連、馬単、3連複、3連単の中から、勝つだろうと予想した馬を軸に自信度に応じた馬券を買うようになってから、大儲けはしないが、負けることがなくなった。

 今では、中央競馬が開催される日は、必ず馬券を買うのが日課になっている。もちろんJRAのインターネット会員に登録してあるので、スマートフォンを使って。


 このグリーングラスという店の名前。実は、ある競走馬にちなんでつけられていた。古い話だが、『悲劇の名馬』テンポイント、『天馬』と称されたトウショウボーイと肩を並べ、TTG時代を築いたのが、グリーングラス。

 派手に脚光を浴びた2頭と比べると、いかにも地味で遅咲きの馬だった。

 この店のマスター小山こやま隆志たかしが今でも忘れられないのが、クラシック第3戦の菊花賞。直線でテンポイントがトウショウボーイを交わし、だれもが勝ったと思った瞬間、グリーングラスが内から抜け出し、テンポイントに2馬身半の差をつけて勝利をさらってしまったのだ。

 このときのグリーングラスの単勝払戻5,250円は、菊花賞の最高払戻金額としていまだに破られていない。


 テンポイントが悲劇の死を遂げ、トウショウボーイが引退したあと、天皇賞(春)、有馬記念を制覇し、年度代表馬に選出されたグリーングラスだが、歩んだ道は、決して順調ではなかった。

 トウショウボーイと同じ新馬戦でデビューするも、大差をつけられて敗退。3戦目でようやく勝ちあがるが、2勝目をあげるのにさらに3戦を費やし、春のクラシックには出場すらできなかった。

 秋にようやく3勝目をあげ、滑りこみで出場が叶った晴れ舞台で、内に秘めた能力を爆発させ、競馬ファンをアッといわせた。遅咲きの大器晩成がようやく花を咲かせたのだ。


 10年前、他界した父親からマンションビルを相続したマスターは、長く勤めていた印刷会社をあっさりやめ、喫茶店を始める。店名をどうするかで思案したとき、ふとグリーングラスの名前が浮かんだという。無名の馬から栄光の名馬へとのぼりつめたグリーングラスに、自分をダブらせたい想いがあったかどうかは定かでないが、脱サラを機に、これまでとは違った人生を歩みたいと考えたのではないだろうか。

 下の娘が大学に進学した3年前から、子育てを終えた妻美代子みよこが店を手伝うようになり、それ以来、バイトを雇わず、夫婦ふたりで仲よく店をきり盛りしている。


 3時半をすぎ、日本ダービーの発走が迫る。マスターも仕事の手を休め、テレビの前にやって来る。テレビからGⅠのファンファーレが鳴り響き、アナウンサーの滑らかな実況中継が流れ始める。一同固唾かたずを呑んで待ち受ける。

「各馬ゲートイン完了。第82回日本ダービー、スタートしました――」

 18頭がいっせいに1コーナーに向かって駆け出す。注目のドゥラメンテは、馬群の中段を追走する。勝負どころの4コーナーから直線にかけてドゥラメンテが追いあげると、残り400メートル地点で早くも先頭に並びかける。

「よっしゃ! そのまま、そのままぁ~」佑司が絶叫する。

「お願い! デムーロ~。福永、きちゃ~いやぁ~」咲がもだえる。

 ドゥラメンテがそのまま他馬を引き離し、2着に2馬身弱の差をつけて優勝。2着に5番人気のサトノラーゼン、3着に3番人気のサトノクラウンが入着。

 払戻は、単勝190円、馬連1,980円、馬単2,220円、三連複3,950円、3連単15,760円。断トツ人気のドゥラメンテが勝った割には、2番人気の福永騎乗のリアルスティールが4着で馬券の対象から外れたため、そこそこ妙味のある払戻になった。


 馬単・3連単をW的中させた咲と3連複を買っていた佑司は、抱擁ほうようしながらVサイン。3連単を射とめた賢一郎はガッツポーズ。馬連で勝負していた辰雄は手を叩いて喜ぶ。普段は馬券を買わない加奈子も、賢一郎の予想に相乗りして買っていたので、嬉しくて思わず賢一郎に抱きついている。

 マスターは、なにを買ったのかいわなかったが、にやけた笑顔を見せたので、けっこう儲かったのだろう。


 馬券を的中させると、派手に大はしゃぎする辰雄が、いつになく大人しいのをいぶかしく思った加奈子が話しかける。

「どうしたんです? たつジイ。元気ないじゃないですか?」

「いや、別になんでもないよ」とりつくろうように返事する。

「そういえば、おはなさん、どうしたんですか?」日曜日には必ず辰雄の隣に座っている森内もりうちはなの姿が見えないので、加奈子が尋ねる。

「それがねぇ、朝から連絡とれねぇんだ。何度も携帯に電話入れてんだが……。そのうち来るだろうと思って待ってるんだが……」どことなく心配顔の辰雄だった。

「そうですか。珍しいですね。日曜日にお華さんがいないなんて……」加奈子も心配になってくる。


 しばらく黙っていた辰雄が、意を決したような真剣な表情で賢一郎に話しかける。

「賢さん。悪いけど、最終レース終わったら、つきあってくんねぇか?」

「えっ」突然の辰雄の依頼に驚いた賢一郎が、「なにするんですか?」と辰雄の意図を確認する。

「お華さんちに行ってみようと思うんだ。ここに来る前寄ってみたんだが、鍵がかかってて留守だったんだ。朝から何度も携帯にかけてるんだけど、出ないんだよ。

 もしかすると、家の中で倒れてたりしてたら大変だからよ。様子見に行きたいんだ。つきあってくれねえか」

「実は、……」といいながら、辰雄がズボンのポケットから鍵のついたキーフォルダをとり出す。

「お華さんから預かってるんだ。もし万一、なんかあったら頼むって、いわれてね」

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