終活してますか
ますだかずき
第1話 ドゥラメンテが日本ダービーを制覇
「カラーン」と乾いたカウベルの音を立てて、
グリーングラスは、
「いらっしゃい」カウンターの中からマスターの声が聞こえる。
入口を入った右側のカウンターに6席、中央に4人がけのテーブル席が6卓。正面の壁に50インチの液晶テレビが設置され、土日には、競馬番組『グリーンチャンネル』が放映されている。
テレビの前の特等席には、すでに
加奈子が成瀬の向かいに座ると、気づかない成瀬に小さな声でささやく。
「社長、またサボってるんでしょう」
「違うよ、加奈ちゃん。今日は忙しくって、朝から働きづめよ。やっと今、遅い昼飯、
成瀬は、グリーングラスの隣にある成瀬不動産の社長。土日は、よく仕事をサボってグリーングラスに入り浸っている。
「それよりも、
「子どものレースに大人が交じって走るようなもんだよ、社長。ぶっちぎっちゃうよ!」
「
「ダービーでこんな数値、出たことないから。かなりの確率で勝つと思うわ」
競馬予想ソフトを
「賢さんと咲ちゃんがダブるとなると、かなりの鉄板だなぁ」
「そうですよ、社長。ドゥラメンテを外した馬券なんて、ドブに捨てるようなもんですよ」佑司が
話題はもっぱら、今日行われる日本ダービーの1番人気の本命馬ドゥラメンテの取捨。あれやこれやと、ダービー予想で話が盛りあがる。ところが、いざテレビからファンファーレが流れ始めると、直ちに静まり返り、だれもがレースに集中する。
成瀬は本当に仕事が忙しいのか、サンドイッチを食べ終えると、ダービーの実況中継を観もしないで早々と退散した。
競馬の楽しみ方が時代とともに変わってきた。
かつては、競馬場に出かけるか、場外馬券発売所(ウインズ)に足を運ばないと、馬券を買うことができなかったが、今や、パソコンや携帯電話で簡単に馬券を買うことができる時代。JRA(日本中央競馬会)では、電話・インターネット投票の売上が、競馬場や場外馬券発売所よりも上まわっているという。レース中継も、CS・BSのデジタル放送に加入してグリーンチャンネルを契約すれば、第1レースから最終レースまでのすべてのレースを、自宅にいながらリアルタイムで観ることができる。まさに在宅競馬時代の到来。
馬券の種類も大幅に増えた。かつては
賢一郎が競馬を始めるきっかけとなったのが、史上最強馬と
以来、競馬に
高い授業料を払うことになるが、ようやく競馬で勝てない原因を突きとめる。欲が予想を狂わすのだ。オッズを見て、これが当たればこれだけ儲かる、などと考えるから、馬券が当たらなくなる。オッズがつかないのを理由に予想を変えたりするのは、
戦績や血統などのデータを分析した上で、単純に強い馬、勝てる馬を予想して馬券を買えば、負け続けることはない。人気の
今では、中央競馬が開催される日は、必ず馬券を買うのが日課になっている。もちろんJRAのインターネット会員に登録してあるので、スマートフォンを使って。
このグリーングラスという店の名前。実は、ある競走馬に
派手に脚光を浴びた2頭と比べると、いかにも地味で遅咲きの馬だった。
この店のマスター
このときのグリーングラスの単勝払戻5,250円は、菊花賞の最高払戻金額としていまだに破られていない。
テンポイントが悲劇の死を遂げ、トウショウボーイが引退したあと、天皇賞(春)、有馬記念を制覇し、年度代表馬に選出されたグリーングラスだが、歩んだ道は、決して順調ではなかった。
トウショウボーイと同じ新馬戦でデビューするも、大差をつけられて敗退。3戦目でようやく勝ちあがるが、2勝目をあげるのにさらに3戦を費やし、春のクラシックには出場すらできなかった。
秋にようやく3勝目をあげ、滑りこみで出場が叶った晴れ舞台で、内に秘めた能力を爆発させ、競馬ファンをアッといわせた。遅咲きの大器晩成がようやく花を咲かせたのだ。
10年前、他界した父親からマンションビルを相続したマスターは、長く勤めていた印刷会社をあっさりやめ、喫茶店を始める。店名をどうするかで思案したとき、ふとグリーングラスの名前が浮かんだという。無名の馬から栄光の名馬へとのぼりつめたグリーングラスに、自分をダブらせたい想いがあったかどうかは定かでないが、脱サラを機に、これまでとは違った人生を歩みたいと考えたのではないだろうか。
下の娘が大学に進学した3年前から、子育てを終えた妻
3時半をすぎ、日本ダービーの発走が迫る。マスターも仕事の手を休め、テレビの前にやって来る。テレビからGⅠのファンファーレが鳴り響き、アナウンサーの滑らかな実況中継が流れ始める。一同
「各馬ゲートイン完了。第82回日本ダービー、スタートしました――」
18頭がいっせいに1コーナーに向かって駆け出す。注目のドゥラメンテは、馬群の中段を追走する。勝負どころの4コーナーから直線にかけてドゥラメンテが追いあげると、残り400メートル地点で早くも先頭に並びかける。
「よっしゃ! そのまま、そのままぁ~」佑司が絶叫する。
「お願い! デムーロ~。福永、きちゃ~いやぁ~」咲が
ドゥラメンテがそのまま他馬を引き離し、2着に2馬身弱の差をつけて優勝。2着に5番人気のサトノラーゼン、3着に3番人気のサトノクラウンが入着。
払戻は、単勝190円、馬連1,980円、馬単2,220円、三連複3,950円、3連単15,760円。断トツ人気のドゥラメンテが勝った割には、2番人気の福永騎乗のリアルスティールが4着で馬券の対象から外れたため、そこそこ妙味のある払戻になった。
馬単・3連単をW的中させた咲と3連複を買っていた佑司は、
マスターは、なにを買ったのかいわなかったが、にやけた笑顔を見せたので、けっこう儲かったのだろう。
馬券を的中させると、派手に大はしゃぎする辰雄が、いつになく大人しいのを
「どうしたんです?
「いや、別になんでもないよ」とり
「そういえば、お
「それがねぇ、朝から連絡とれねぇんだ。何度も携帯に電話入れてんだが……。そのうち来るだろうと思って待ってるんだが……」どことなく心配顔の辰雄だった。
「そうですか。珍しいですね。日曜日にお華さんがいないなんて……」加奈子も心配になってくる。
しばらく黙っていた辰雄が、意を決したような真剣な表情で賢一郎に話しかける。
「賢さん。悪いけど、最終レース終わったら、つきあってくんねぇか?」
「えっ」突然の辰雄の依頼に驚いた賢一郎が、「なにするんですか?」と辰雄の意図を確認する。
「お華さんちに行ってみようと思うんだ。ここに来る前寄ってみたんだが、鍵がかかってて留守だったんだ。朝から何度も携帯にかけてるんだけど、出ないんだよ。
もしかすると、家の中で倒れてたりしてたら大変だからよ。様子見に行きたいんだ。つきあってくれねえか」
「実は、……」といいながら、辰雄がズボンのポケットから鍵のついたキーフォルダをとり出す。
「お華さんから預かってるんだ。もし万一、なんかあったら頼むって、いわれてね」
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