るりちゃんのタガが外れた日
パパが持ってるいくつものビルの一つに、古くてごちゃごちゃしててエッシャーの騙し絵みたいで初見だと大抵迷うような建物があって、パパはひどい物件って言ってたけどわたしはそこが好きだ。レトロな金属の手すりとか、ひび割れた壁を何本ものパイプが覆っているところとか、いかにも古い室外機とか。
「るりちゃんはスチームパンクみたいな建物好きだからね」
と、あゆむに言われたことを思い出す。あゆむはわたしの好きなものに詳しい。
とにかく、そのビルはいい。地下にバーとクラブを足して二で割ったような店があるのもいい。オープンテラスみたいな黒くて丸いテーブルに同じ色の金属のイスは硬くて冷たくて、ずっと座ってるとお尻が痛くなるところも嫌いじゃない。ちなみに店の名前は「モニター」という。監視モニターとかのモニターかと思ってたら、「オオトカゲ」って意味もあるらしく、実際カウンターの上には本物みたいにリアルなトカゲのオブジェがある。
その店にはドラムセットとアップライトピアノが備え付けてあって、つまり演奏ができる。店長がプロの演奏家を呼ぶこともあれば、素人バンドが店を貸し切って内輪でワイワイやることもある。その日はまさに後者だった。
夜の九時を回ってたのは覚えている。なんで一人で行ったのかは覚えてない。「モニター」のドアは二重になっていて、外側は軽く、内側は思い。重いドアを開けるとモアッという手ごたえがして、次の瞬間店内の音がわっと耳を襲う。
後からわかったんだけど、その夜は貸し切りだった。外にちゃんと看板が出てたんだけど酔っぱらってたわたしはそれに気づかず、別にドアがロックされてるわけでもないのでフラッと入ってしまった。普段は誰かしら控えている入口のカウンターはそのときたまたま無人になっていて、でもわたしはそのことに気づかなかった。演奏が始まっていたのだ。
あっ変なひと。
というのがシローくんの第一印象だった。ステージの真ん中で真っ白なロン毛をくくって太い黒縁の眼鏡をかけて(この眼鏡は完全にファッションのやつ)、琥珀色のエレキギターを弾きながら歌っている。ちょっと上手い、いやかなり上手いと思った。ちゃんと音程がとれてて聞き苦しくないし、変なアレンジも入れない。
後からわかったけどそのバンドは全然プロとかではなく、趣味で楽器をやってる友だち同士が「たまには広めのところででかい音出して合わせたいよね」「そしたらみんなの友だち集められて、お酒も飲めるところがいいよね」みたいなノリで貸し切った、つまりただただ楽しいパーティーだったのだけど、でもそんな成り立ちとは思えないくらいちゃんと聞けた――なんていうか、趣味だけど結構真面目に練習してきたひとたちが集まっていたのだ。ドラムのおじさんが飛び抜けてやばいけど、ほかのひとも上手い。
そのとき演奏してたのは元々女性ボーカルの曲で、失恋というか片思いの歌というか、とにかく女が「わたしと別れるなら死ね」って男に迫る歌だった。後で聞いたら観客は大抵シローくんのカスみたいな女性遍歴を知ってるから可笑しくって仕方なかったらしく、シローくん自身もウケ狙いでの選曲だったという。
何なんだろうあのギターボーカル……とか考えているうち、気がついたらドリンクワンオーダーのルールも忘れてフロアを中央くらいまで進んでいた。変なひとだな。そんで、すごい楽しそうだな。何だろう、何者なんだろう、変なの。ふらふら歩きながら、いつの間にかわたしも低い声で一緒に歌っていた。スピーカーで増幅された音の中に、わたしの口から出た「好き」も「死ね」も全部溶けてしまう。それがすごく気持ちよかった。この夜のことは時々思い出す。スポットライトの白さも足元を震わせるベースとバスドラムも、チャカチャカいうギターと歌声も、全部タイムスリップしたみたいに完璧に思い出すことができる。死ぬまで忘れないかもしれない。
(るりちゃん、ああいうひと好きでしょ)
演奏に混じって、あゆむの声が頭の中で聞こえた。もちろん空耳だけど、めちゃくちゃ言いそうな言葉だと思った。
「お嬢さん、すみません。今日貸し切りなんですよ」
店長は演奏の合間まで声をかけるのを待ってくれていた。太ってるくせにバーカウンターの内側で素早く動く店長は、わたしの顔をしっかり覚えている。
「店長、あの人たち音源ないの?」
「ないんです。趣味でやってる人たちだから。普段はお店やってたりとか、資格持ってて士業とか」
「ふーん……」
ドラムのおじさんがMCを入れてる間、早く次の曲次の曲って、わたしはそればっかり考えていた。もう一曲やって休憩に入り、バンドメンバーは楽器をステージの上に置いて三十人くらいの観客の間に入っていく(こんな内輪でやるクオリティじゃなかったんだよ、ほんと)。わたしはその中にずかずか分け入り、知り合いっぽい人たちとげらげら笑ってる白髪のギターボーカルに近づいて、「次いつやるんですか?」っていきなり声をかけた。
「はい?」
と振り返った顔を見て、なんでこの人目を閉じてるんだろ、と思った。わたしはそのとき、シローくんの目がまったく見えないということに気づいていなかった。顔立ち自体は悪くないけどすごくかっこいいってわけでもない。でもわたしは好きになった人の顔が一番かっこよく見えてくるタイプの人間なので、顔立ちがどうとかは些細な問題だった。
お客さんの中に、たまたまパパの仕事関係の知り合いがいて、「シローくん、この方、このビルのオーナーのお嬢さん」ってわたしを紹介してくれた。
シローくんね、覚えた。覚えた覚えた覚えた。絶対忘れない。
「はじめまして。多ケ崎るりです」
覚えろ覚えろ覚えろ覚えろ覚えろって祈りながら、わたしは名乗った。
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