激辛鍋が空になるまで
セオリンゴ
第1話 始まりのおにぎり
おにぎり専門店でも、その具材は珍しかった。
煎りジャコピリ辛青菜和え。9月の都心の残暑を忘れさせそうなひとしなだ。
その最後の一個に同時に二人の手が伸び、絡んだ。
「きゃ」と小さい声を上げたのは、小柄な女。ガテン系Tシャツにワイドパンツは個性的だが、後ろで束ねた髪はしばらく美容院と縁がなかったらしい。
「すみません」と素早く手を引っ込めたのは、長身の男。某工務店の作業服の前を開き、少々日焼けしている。
二人共に二十代に見えた。
男はあっさり「どうぞ」と促すが、女は一歩あとずさる。じっとり汗ばんだ男の指に狼狽していた。
「い、いい、いえ、他にも辛い具のおにぎり、あり、ありますから。大丈夫です」
男に見下ろされて女は顔をそむけた。不意に青年の声が明るく降りてきた。
「辛いのが好きなら、半分こしませんか」
「え、そちらが食べた残りを……私にってこと……なん……?」
「いえ、ここのイートインで半分に切るサービスがあるから」と指さしたボードにその旨が大書してある。
「……私、イートインは使ってなくて」
「使ってみませんか。僕、千歳大輔です」
「は、はぁ。では……、私、搦手門洋子……です」
洋子はよく知らない青年のペースに乗せられていると感じていた。彼が指したボードに初めて気づいた。
大輔は煎りジャコピリ辛青菜和えのおにぎりに追加の明太子とたくあんを盆に乗せ、レジを通った。
洋子は手ぶらで付いていく。大輔が振り返った。
「洋子さん、おにぎり半分でいいんですか。他に何か取りませんか、赤だしとか」
洋子は耳まで赤くなった。
『私ったらバカだ! 明太子とたくあんのおにぎりは彼が自分用に取ったのに、私の分と思うなんて! なんて厚かましい女と思われたに違いない』
大輔が少し身をかがめて言った。
「ここは種類がいっぱいで迷いますよね、焦らず選んでてください。僕は煎りジャコピリ辛青菜和えを半分にしてもらいますから」
彼の眼は、洋子は厚かましくないと告げていた。
それだけでほっとして、洋子は新しい盆に豚キムチとめかぶ汁を置いた。
イートインに落着き、大輔は建築会社の下請け工務店勤務の設計技師の名刺と社員証を取り出した。
「あ、ご丁寧にどうも」
洋子も名刺を渡す。色彩プランナー兼インテリアデザイナーの文字が気恥ずかしい。
「そ、それほど大した仕事してないです、今の事務所の新参だから」
「うん、僕も大した仕事してないなぁ。CADは使えても、まだ現場に行かせてもらえないから。それよりこれ見て」
煎りジャコピリ辛青菜和えはふっくらと半分に分かれていた。洋子はその断面を注視する。
「うわぁ、奇跡ですね。何を使ったら、形を崩さずに切れるんだろう」
「やっぱり、そこが気になりますか?」
洋子は大輔を見上げて頷いた。
『指汗はすごいけど、この人、悪くない』
恋の予感がした。
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