破「これってもしかして……?」

 下戸田げこだ家守やもりがランチを共にしてから、更に二か月がった。

 世間はその間にクリスマスや年末年始を迎え、一月も半ばが過ぎようとしていた。


 この晩、ミドリシステムズは社員総出で近くの居酒屋を貸し切り、新年会を開催していた。

 当然その中には、下戸田と蛇沼へびぬまの姿もあった。


「ギャハハハッ! 下戸田お前、顔真っ赤じゃねぇか!」

「ホントだ〜! でガエルみたい〜」

「……」


 先輩社員らにからかわれながら、下戸田は静かにジョッキを口に運んだ。

 下戸田の名とは裏腹に、彼は下戸げこではない。ただ、酒が回ると全身がすぐに真っ赤になってしまうという体質があった。


 えんもたけなわを迎えた頃、気づけば下戸田の隣に蛇沼が腰を下ろしていた。

 蛇沼は日本酒を水のように飲んでおり、下戸田は自然と彼女にしゃくをしていた。


「……トウカのところはどうだ?」

「よくしてもらっています」


 下戸田が答えると、チッという舌打ちの音が聞こえた。音の主はもちろん、蛇沼だ。

 蛇沼と家守の二人は、互いにファーストネームで呼び合うほどの仲のようだ。確か、入社が同時期だったか――と、下戸田は記憶を確かめた。


 下戸田は、以前ほど蛇沼に威圧いあつ感や恐怖感を感じない自分に気づいていた。

 それは家守の話を聞いたからかもしれないし、上気じょうきした蛇沼の目つきがふだんより柔らかくなっていたからかもしれない。


「前は悪かったな。その……アタシの態度がきつかったんだろ?」

「えっ」


 蛇沼の言葉を聞いて、下戸田はだらだらと顔に汗をかいた。


(――まさか、バレた? 自分が社長に直訴じきそしたことが……)


 もしそんなことがあれば、とても蛇沼に顔向けできない。

 下戸田は、みぞおち付近に忘れていたはずの懐かしい痛みがよみがえるのを感じた。


 すると、蛇沼は「はあ……」と特大のめ息をき、テーブルの上に腕枕を作って顔をうずめる。


「アタシはいつもこうなんだ。仲良くしてぇと思った相手には、きつく当たりすぎて逃げられちまう」

「あっ……」


 あのインターン生の話か、と下戸田は合点がてんが行った。――なぜか、自分のことだとは思わなかった。


 そのときふと、下戸田の目に蛇沼のスマートフォンに着けられたストラップが目に入った。かわいらしい小さなカエルの人形と一体になったストラップだ。


「……蛇沼さんってカワイイですね」


 気づくとそんなセリフが、下戸田の口を突いて飛び出していた。


 うつぶせていた蛇沼がバッと顔を起こす。心なしか、先ほどより顔が赤くなっている。


「か、カワイイっ!? あた、アタシがかっ?」


(――あ、なんかまずったかも)


 下戸田は心のどこかでそう思った。しかし、彼は続けて口をすべらせる。


「あ、すいません。つい本音が」

「ほ、本気なのかよ!」


 蛇沼は片手を前にかざし、たじろいだような様子を見せた。

 それを見て、下戸田は引かれてしまったと思い、うつむく。


「……すいません。ボクみたいなのに『カワイイ』なんて言われても、嬉しくないですよね」


 蛇沼はかざした手を頭の後ろに回し、ポリポリといた。色っぽいな、と下戸田は思った。


「……んなことはねぇよ。ただ、そんなの言われ慣れてねぇから、驚いたってだけだ」

「そうですよね。蛇沼さんは『カワイイ』って言うよりは『美人』ですよね」

「……」


 蛇沼の動きが止まった。


「?」


 不審に思う下戸田の前で、蛇沼の顔がカァッと真っ赤に染まる。

 次の瞬間、蛇沼はバンッとテーブルに両手をつき、立ち上がる。


「わ、ワリぃ。ちょっとっちまったみてぇだ。外に出て、頭冷やして来るわ」

「あ、はい! 行ってらっしゃい」


 蛇沼はあわて気味にサンダルをつっかけ、バタバタと店の外へ走って出て行く。

 下戸田はそれを見送ると、いったい彼女に何があったのかと首をひねった。


    †


 楽しい時間はまたたく間に過ぎ、ミドリシステムズの新年会はお開きになった。

 開始が遅かったため、時刻は既に二十三時を回っていた。


 ここで一つ問題が起こった。


蛇沼へびぬまさん、もう飲み会終わりましたよ」

「うるせー! アタシはまだ飲めるぞ!」

「あらあら……。この子がこんなにっ払うなんて、珍しいわね」


 ベロンベロンに酔っ払った蛇沼を、下戸田げこだ家守やもりが左右から支えていた。


「……ふむ。残念だが、蛇沼クンは戦線離脱かな。下戸田クン、タクシー代を渡すから、彼女を家まで送ってやってくれるかね? 方角は君のアパートと同じのはずだ」

「は、はい! 責任持ってお送りします!」


 社長の鰐淵わにぶちに一万円札を渡され、下戸田は気をつけをして返事をした。


「それじゃあ、他の有志諸君は二次会に行こう。夜はまだまだこれからだぞ!」

「下戸田君、ヨロシクね」

「はい!」


 家守ともタクシー乗り場で別れ、下戸田は蛇沼に肩を貸して同じタクシーに乗り込んだ。


(蛇沼さんの体、柔らかっ)


 はからずも蛇沼と腕や上体を密着させることになって、下戸田はこれまでとは別の意味で心臓が高鳴るのを感じた。


(いかんいかん……ボクは何を考えてるんだ。相手は会社の先輩だぞ)


 下戸田は首を左右に振って、邪念を頭から追い払う。


「――まで、お願いします」

「承知しました」


 タクシーが発進してすぐに、下戸田は運転手に行先を告げた。


(ボクの家に着くころには、蛇沼さんが回復してるといいんだけど……)


 蛇沼の住まいは、下戸田のアパートよりも更に十キロほど先にあるそうだ。

 蛇沼は車のれで気分が悪くなったのか、顔をしかめてぐったりとしていた。下戸田が先に降りた後、彼女一人でちゃんと帰宅できるだろうか……と、下戸田は不安を感じた。


 約二十分後、タクシーは下戸田が住むアパートの前に到着する。


「お客さん、着きましたよ」

「はい。――蛇沼さん、ボクここで降りますよ」


 下戸田が一万円札を片手に、隣の座席の蛇沼に声を掛ける。


「下戸田……」


 下戸田を呼ぶ蛇沼は、いつものようにわった目をしていた。ただし、先刻まで赤かった顔が、今は真っ青になっていた。

 蛇沼は込み上げる何かを我慢がまんするように、口元を抑えながら話す。


「気持ち悪……」

「あ! 蛇沼さん、ここで吐くのはマズいです!」


 「吐く」という単語を聞いて、運転手が体をビクリと震わせた。タクシーの運転手にとって、座席を汚物まみれにされるのは大迷惑だ。


「お客さん、困りますよ」

「す、すいません! 蛇沼さん、ボクの家で少し休んで行きますか?」

「悪い……頼む……」


 蛇沼は、しぼり出すような声で希望をうったえた。

 そこで下戸田は一旦、ここまでのタクシー料金を支払うことにした。その後、再び蛇沼に肩を貸して二人で車を下りる。


「少し、ここで待っててもらえますか?」


 下戸田はタクシーの運転手にそう頼んだが、運転手は返事をしなかった。

 二人がアパートの階段を上る頃、下戸田はタクシーが再び発進して行く音を聞いた。


「あーあ……行っちゃったか」


 下戸田は残念に思ったが、どうすることもできなかった。


「うぷ……。下戸田、まだか……?」

「もうすぐですよ」


 下戸田は今にも吐きそうな蛇沼を連れて、三階の自分の部屋に帰宅した。


(――あれ? これはもしかして、「お持ち帰り」というやつでは?)


 ふと下戸田は冷静になって今の状況を振り返り、そのことに気づいた。

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