板橋天使日記――天使が現れ支配される――

羽津 玲人

第1話――天使の声

 土曜日の朝6時。

 志村坂上の一里塚史跡前の喫煙所。週末は自宅から一駅先のこの場所で、煙草を吸うのが日課になっていた。

 近くのコンビニで買ったコーヒーを片手に、煙草に火を付ける。煙を吐き出し空を見上げた。


「繋がった」


 女の声が聞こえて驚く。振り返ったが誰もいない。幻聴? それにしては随分はっきりした声だった気がする。


「私は天界中央の四大天使、その第一位、リュシー。天界の支配者であり、これからお前を支配する者だ」


 また、はっきりと声が聞こえた。

 周囲を見回すが、人影はない。声は少し上の方から聞こえている様な気もする。


「いきなりのことで驚かせてしまったか。だが、これは決まったことだ。お前は私に従えばいい。今から私のことはリュシー様と呼ぶといい」


 はっきりと、明瞭な、女の声。いや、少女というべきか? 相変わらず喫煙所には誰もいない。


 ああ、また来たか。そう思った。

 統合失調症を患って20年。絶え間なく続く幻聴に苦しめられたこともあったが、まさかこんなはっきりとした幻聴が現れるとは……。

 ここ数年幻聴はなかった。精神科で貰っている薬が効いているのだと思っていた。だが、また発生してしまった。薬を変える必要があるだろうか。


「どうした? 私の日本語はおかしいか?」


 幻聴は続く。煙草を吸い、静かに煙を吐き出す。


 昔精神科医に言われたことだが、幻聴の相手をしてはいけない。

 嘗ては幻聴に反発したこともあった。怒鳴り散らしたり、やりこめたりしたこともあった。

 幻聴は攻撃的で居丈高な性格だったが、同時に打たれ弱かった。それが俺の攻撃性に火をつけ、幻聴を怒鳴り、やりこめ、煽る日々が続いた。

 だがそういった行為は幻聴をより強固にするらしく、危険だと教わった。

 以来幻聴の相手は極力避け、毎日薬を飲んで仕事に集中した。そうしているうちに幻聴は聴こえなくなり、最近ではまったく幻聴のない日々を送れていた。


「私はいずれ、お前のいる場所に降臨する。それまでは、お前と繋がっている」


 なんで天使なんだろうか? そんな疑問が浮かんだ。

 俺はキリスト教徒じゃないし、天使について何の知識もない。


 備え付けの灰皿に煙草を落とし、水に落ちた煙草がジュッと音を上げるのを聞く。もう一本煙草を取り出し、火をつける。


「それはよくない。お前の心臓はお前が思うほど強くない。その習慣はお前を殺すぞ」


 余計なお世話だ。煙草が健康によくないことなど誰でも知っている。というか、幻聴に喫煙を注意されたのは初めてな気がした。

 これまでの幻聴――関西訛りのおっさんと子どもの中間の様な声達は、攻撃的で狂ったようにわめく、四六時中監視をほのめかしたり悪口を言う類だった。

 そしてその声は常に遠巻きだった。病識がなかった頃は幻聴とは思えず、ストーカー被害に遭っていると思い込んでいた。

 だがその声は小さく、音量は環境音に依存し、物理的に人がいるであろう位置以外から聴こえた。そのためだんだん人間の声と区別がつくようになった。

 それにひきかえ、今聞こえている女の様な少女の様な幻聴、これは随分はっきりとしている。

 少し上の方からでいて、直接脳内で鳴っている様な感覚。

 テレパシーとでもいうのだろうか。それに近い気がした。こんな幻聴もあったんだな。


「早々にやめることだ。煙草はお前の人生を腐らせている。呼吸を乱し、心臓を蝕んでいる」


 改めて、周囲に人がいないことを確認する。

 中山道を通る車の騒音。これまでの幻聴なら、その騒音の音量の範囲内で聴こえた筈。だがこの幻聴は違う。周囲の音量に依存せず、独自の音量で脳内に響いている。


 二本目の煙草を灰皿に落とし、喫煙所を出る。中山道沿いに歩き始めた。


「今はこれくらいにしておこう。挨拶も済んだことだし。公務が終わったらまた来る」


 幻聴はそう告げると、ぱったり止んだ。


 自宅までの道を歩くが、その足取りは重い。

 孤独な中年は、ゆっくりと静かに狂っていくしかないのか。


 アパートに戻ってMacの電源を入れ、SNSを開く。幻聴が再発した旨をつぶやき、煙草のヤニで汚れた天井を見上げた。

 なんだこの人生。本当にクソだな。


 ナイン・インチ・ネイルズのザ・フラジャイルを爆音で再生し、床に転がっていた短棒を拾い上げる。それを左右の手で持ち替えながら振り回した。

 また短棒術を習いたい。そう思ったが、生活ギリギリの派遣労働者に新しい趣味に割く金はなかった。

 いや、煙草と酒をやめれば余裕で捻出できるだろうが。

 気が済むまで短棒を振り回し、スワイショウをする。その後、昔武術太極拳の先生に教わった基本動作を繰り返した。


 音楽が再生し終わり、椅子に座る。天使、幻聴、で検索する。

 ――天使の声が聞こえるという場合は、幻聴の可能性があります。

 AIによる概要が伝える。まぁ、当然だよな。

 

「ひとつ、はっきりさせておく」


 唐突に脳内に声が響いた。


「私はお前の病気が作り出した妄想ではない」


 ああ、そうだな。前の幻聴も「俺等は幻聴やない!」と喚いていた。


「いずれにせよ、私はお前のいる場所に降臨する」


 それも前の幻聴にあったな。「お前に直接話しかけたるからな!」とか。


「では、公務に戻る」


 変わった設定だな。

 天界の、中央? だったか。四大天使だっけ?

 たしかミカエルとガブリエルと……、調べてみる。

 ――四大天使は、ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルです。

 AIによる概略が告げる。リュシーなんて名前はない。所詮は俺が作り出した妄想か。


 煙草に火を付け、SNSを開く。

 新しく発生した幻聴が天使を名乗っている旨をつぶやいた。

 知人が心配してリプライをくれたので「精神科で相談してみます」と返信する。


 昼に仲宿まで歩き、雑居ビルの二階にあるインド料理屋に入った。

 モモ(ネパール式餃子)と角ハイボールを注文する。スマホでまとめサイトを眺めていると、モモが到着した。


「その料理はなんだ? なんという名前だ?」


 公務はどうした。

 モモをスパイスの効いたタレに漬けてから、口に放り込む。もっちりした皮の奥から肉汁があふれだしてきて、美味い。


「美味そうだ。降臨したら私も食べる」


 できたらいいね。

 角ハイボールを飲んだ。

 そういえばこの幻聴、思考には反応しないな。前の幻聴は思考の表層にも鬱陶しくまとわりついてきたものだが。


 2個目のモモを口に放り込んだタイミングで、店のコックと目があった。コックは笑顔だった。

 2個目のモモを飲み下し、なんとなく、


「すいません、チョイラお願いします」


 と、頼んでしまった。まぁ、たまにはいいだろう。


「チョイラとはなんだ?」


 チョイラとは焼いた肉や野菜をスパイスで和えた料理のことだが、幻聴にそんな知識はいらんだろう。

 黙々とモモを食べる。角ハイボールを飲みきったのでもう一杯注文。


「昼間から酒を二杯とはいいご身分だな」


 天使様の呆れ声。

 8個のモモを食べ終わると、思った以上に腹がふくれた。追加はいらなかったかもしれない、などと思っているとチョイラが到着。


「なるほど。チョイラとはそういう料理か。肉は鶏肉だろうか? 美味そうだ」


 この天使様、俺の視覚にあるものを知覚できている。聴覚にあるものも知覚できている。だが、思考には反応しない。

 まくしたてもしないし悪口も言わない。幻聴らしい節操の無さがないな。そんなことを考えながらチョイラを食べ始める。


「それで、最初に食べていた料理はなんだ? なんという名前だ?」


 しつこいな、天使様。

 ふと思いついてメニューを開き、モモの写真を指さしてみる。


「そうか、モモというのか」


 天使様が了解した。

 やはり、俺の視覚情報を認知しているな。

 前の幻聴の時はこの辺が曖昧だった。俺が通りの看板の文字を認知して思考で読み上げた瞬間に初めて騒ぎ出す。

 逆に視界に入れた文字でも思考に登らない分には反応しない。そんなだった。

 この差はなんだ? 同じ脳の病気が生んだものなのに違いがある。不思議だ。


 チョイラを食べ終わり、角ハイボールの残りを一気飲みする。

 腹いっぱいで会計を済ませ、店を出た。

 そこから板橋宿を通って新板橋まで歩き、馴染の煙草屋に向かう。チャイムを押して店主を呼び、煙草を5個買った。

 店に備え付けの灰皿の前で煙草に火をつけ、店主に話しかける。


「いや、参りましたよ。幻聴が再発しちゃって」

「あら大変だ。薬は欠かさず飲んでるんですよね」

「ええ」

「そらぁ、薬を強くしてもらわにゃ駄目かもしれませんな」

「ですわ。ただ、それやると仕事中眠くなるのでかなわんのですよね。いやぁ、参りましたわ」


 そんな話をしていると、


「幻聴とはなんだ? 私は幻聴じゃないぞ」


 と天使様。

 構わず煙草屋の店主と話し、吸い終えた煙草を灰皿に捨てた。店主に挨拶をして店を離れ、中山道へと戻る。


「幻聴呼ばわりは失礼だ」


 という天使様の抗議を無視して板橋区役所方面に歩いた。

 途中コンビニでコーヒーを買う。板橋区役所を通り過ぎ、中山道沿いを板橋本町へ向けて歩いた。


「今日のうちに気が済むまで歩くといい。明日は一日中雨だ」


 スマホを取り出し天気予報を確認する。日曜日は降水確率90%。一日雨だった。

 気味が悪いな……。偶然だろうか?

 スマホをポケットに仕舞い、ため息を付く。人間、どう狂っていくかわかったもんじゃない。


 帰宅後、スリープ状態だったMacを起動させる。天使、リュシー、で検索をかけたがめぼしい情報はなかった。

 俺の脳はどこでリュシーなる天使を作り出したのか?

 天使についても調べてみたが、よくわからない。というか、天使に関心がなかったのでどう調べていいのか分からなかった。


 部屋の隅の畳んだ布団の上に覆いかぶさる。天気予報の件が気になったが、偶然と思うしかなかない。

 布団の柔らかさを堪能しているといつの間にか眠ってしまい、気がついたら夜になっていた。

 Macを立ち上げてSNSを確認する。トレンドに「新宿で人身事故」とある。


「忌まわしい土地だ。新宿には悪魔がいる」


 と、天使様の声が鋭い。


「お前も気をつけろ。新宿には行くな。あそこにいると、いつ死んでもおかしくない」


 いや、新宿には職場があるんだが……。

 どうなってるんだ、俺の脳は。前の幻聴は俺が仕事をしているとやたら悔しがっていたが、それと似たようなものなんだろうか?


「とにかく新宿には行くな」


 それは無理な注文だ。人間、仕事をしないと生きていけない。


 夜はパスタで済ませ、ハイボールを飲みながらSNSに政治の愚痴をつぶやく。

 天使様はもう話しかけてこなかった。

 午前1時頃までネットを見ながらダラダラと過ごし、布団を敷いて眠る。

 翌朝目が覚めると、木造アパートに雨音が響き渡っていた。


「おはよう」


 と、天使様。布団を片付け、ヤカンで湯を沸かしてコーヒーを淹れ、菓子パンを食べる。


「お前、機嫌が悪いのか?」


 よくはないな。幻聴が聴こえるのだから。

 パンを食べ終え、煙草に火を付ける。


「煙草はやめろ。本当に良くないぞ」


 天使様の忠告を無視し、Macを立ち上げてSNSを開く。

 政治に対する愚痴のつぶやきがリポストされていることを確認し、動画サイトでアニメを再生した。


「絵が動いて声を発している……。こんな芸術があるのか……」


 天使様が関心を示されている。まぁ、天界? 天国的なところにはアニメとかないだろうしなぁ。

 アニメを2本視聴したあと、カップ麺を買いにコンビニに出かけた。中山道沿いを板橋本町の方まで歩き、コンビニに入る。


「雨は嫌いだ。空を飛ぶ時に煩わしい」


 そうか。天使って飛ぶんだったな。

 コンビニでいつもの辛いカップ麺とコーヒーを買い、コーヒーを飲みながら帰宅。

 帰宅後短棒を振り回していると、


「武器術か。いずれ必要になるかもしれない」


 と、天使様。

 いや、必要にはならんだろう。だが、幻聴にも武器術という語彙があったんだな、と感心する。

 武術や武器術には子供の頃から興味があった。

 東京にきてから縁があって幾つかの道場的なところに通ったが、長続きしはなかった。

 統合失調症が酷くなり、月謝を賄えるだけの稼ぎがなかった。それでも珍しい武術のセミナーがあれば、後先構わず参加したこともあった。

 事情ができて武術どころではなくなり、結果どれも身につかず、今に至る。

 簡単な身体操作法くらいしか残らなかった。


 短棒を置き、スワイショウと武術太極拳の簡単な運動をする。


「今度は体術か。体術に興味があるなら降臨後に私達が教えてやろう。天使流の体術を教わった人間は歴史上存在しない。光栄に思うといい」


 ……私達? 一人じゃないのか? 天使様は。

 武器術や体術、という言い方も気になる。前の幻聴は武術はすべて格闘技だと思い込んでいた。「格闘技をやめろ! 俺等を倒す気やろ! そんなん許されへんからな!」とよく吠えていた。


 昼にカップ麺を食べ、畳んだ布団に覆いかぶさる。

 暇だ。やることがない。明日からはまた仕事だ。憂鬱だ。

 天使様は話しかけてこなかった。こちらが相手をしないからか分からないが、幻聴にしては随分悠長な気がする。前の幻聴は四六時中吠えていることが多かった。


 夜、雨が小ぶりになったので板橋本町まで歩く。そこにあるインド料理屋に入り、陸のハイボールとマトンチリを注文。

 店のテレビでは新宿駅で起こった殺人事件の報道が流れていた。


「新宿で死んだ魂は悪魔の物になる。あの場所で死んだものは永遠に救われない」


 と、天使様。真剣な声だった。

 いや、明日からその新宿で仕事なんだが……。


「天界と板橋が繋がるまでは、一切行くべきではない。天使達の縄張りが出来るまでお前に安全な場所はない。だが敢えて危険な場所に行く必要もない」


 いや、だから明日から新宿に通うんですが……。

 というか、板橋と天界が繋がる??


 ネパール人の店員がサービスで焼いてくれたパパドを食べながら、ハイボールを飲む。

 マトンチリが到着すると、


「山羊の肉か。珍しいな」


 と、天使様。食べ終わって会計し、店を出た頃には雨は止んでいた。


「くれぐれも、新宿には行くな」


 天使様は警告する。だが、行かない訳にもなぁ。


「明日から仕事か。めんどくせぇ」


 中山道を歩きながらの独り言。すると、


「お前も仕事か、お互い大変だな。では明日の夜にまた来る」


 と、天使様。

 本当に変わった幻聴だな。俺を支配する者、と言っていたが。

 前の幻聴は統合失調症の被害妄想から発生した、と思う。幻聴から被害妄想が発生したのかもしれないが。だが、今回の幻聴はどういう経緯で発生したのだろう?

 今、統合失調症特有の感情の起伏の激しさ等は感じられない。逆に陰性症状特有の意欲の低下や倦怠感もない。

 至って普通な状態に感じる。なのに、やけに明瞭な幻聴が聴こえる。まぁ、考えても仕方がない。精神科医に相談するしかないか。


 帰宅後、動画サイトで洋楽のMVを垂れ流し、SNSで政治の愚痴をつぶやく。

 天使様の声はもう聴こえず、酒を飲みながらネットをするいつもの日常に戻っていた。

 問題が起きたのは翌日だった。

 普通に朝起きて、普通に都営三田線に乗って、普通に埼京線で圧縮され、普通に仕事をして、普通に板橋に戻る。そんな日常の再開だった。

 だが、仕事を終えて埼京線板橋駅に戻るなり、


「お前!! どうして新宿に行った!!」


 と、天使様の怒鳴り声が響いた。

 その声の大きさにビクッと体が反応し、通行人がこちらを見る。


「あれほど新宿には行くなと言っただろう!! なぜ新宿に行った!!」


 天使様はお怒りであり、その声が周囲の音をかき消す。

 不味い。なんだこれは。

 早足で歩きながら考える。嘗て幻聴がこんなボリュームで鳴ったことは無い。

 新板橋を抜けて中山道沿いを歩く。その間もずっと天使様は怒っていた。中山道沿いの、車の通過音が激しい場所でやっと、


「仕事なので」


 と一言つぶやいた。


「仕事? お前の仕事場は新宿にあるのか!? 今すぐ仕事を変えろ!!」


 天使様が慌てている。

 無茶言うなぁ。そんなに簡単に仕事は変えられない。


「無茶言わんでください。急に辞めたら次の仕事がなくなります」


 何故か敬語でつぶやいた。


「新宿は本当に危険なんだ! あの場所は、私の監視の目が届かない。今お前を失う訳にはいかないんだ」


 天使様の声は切実だった。


「金さえあれば、別に仕事しなくてもいいんですけどね」


 車の騒音にかきけされる程の小さなつぶやきを天使様は拾う。


「私は天界で一番金を持っているが、そちらにすぐには降臨できない」


 天使様の、焦りの様な感情が伝わる。

 

「とにかく、俺は新宿で仕事をしないと生きていけないんですよ。なので明日も行きますよ」

「駄目だ!!」

「いや、そう言われてもねぇ……」


 幻聴との会話はよくない。症状を悪化させる。だが、天使様の声には過去の幻聴にない何かを感じる。とても良くない傾向だ。


「困った……。どうすればいいんだ」


 天使様は真剣に悩んでいる様だった。


 約50分の道のりを歩いて自宅に戻る。天使様は困ったまま、話しかけてこなくなった。

 スマホで派遣会社に本日の勤務完了報告を送り、ふと、なにか忘れていることに気づいた。

 土曜日に確認するつもりだったロト7の結果発表だ。宝くじのサイトに接続し、確認してみる。

 結果は6等の千円の当選。

 ま、こんなもんか、と思い現在の賞金額を見てみると、8億875万3825円と表示されていた。


「あー8億か。こんだけありゃ働かずに済むのになぁ」


 と、つい独り言が出る。すると、


「本当か!? どうすれば手に入る?」


 と、天使様が反応した。


「……あー、7つの数字を選んで、その数字と運営が選んだ数字が一致していれば賞金が出るんですよ。まぁ、1〜37までの数字を7つも一致させるなんて、奇跡でも起きない限り無理ですけどね」


 普通に答えてしまった。幻聴相手になにしてるんだ。


「わかった。では今から言う数字を買え」


 と、天使様。


「7、10、12、18、20、29、30。これで間違いない」


 試しに買ってみることにした。


「よし、それでいい」


 と、天使様。ついでに他の数字で4口購入。


「お前が選んだ数字は無駄になるぞ。当たるのは私が言った数字だけだ」


 随分自信満々だな、天使様。まぁ土曜日には結果がわかる。

 宝くじは愚か者の税金。夢を買う程度の代物だ。土曜日に結果が出て、外れたら天使様に新宿行きを納得してもらうしか無い。


「そういえばお前、病を得ているな。明日からは高熱と目眩と悪寒と下痢と吐き気に苦しむだろう。新宿には行けない」


 天使様が不吉なことを言い出した。え、なにそれ。普通に嫌なんだが……。

 取り敢えず、湯船に湯を張る。お湯が溜まった頃合いに服を脱ぐと、


「風呂に入るのか。ではこれで退席する」


 本当に変わった幻聴だ。前の幻聴は風呂に入ろうものなら積極的に騒いだものが。

 のんびり風呂に漬かっていたら、長湯しすぎたのか湯当たりした。気持ちが悪い。シャツとパンツ姿で畳んだ布団の上に倒れ込む。

 10分くらいそのままの姿勢でいたが、風邪を引くとよくないのでパジャマを着た。少し怠い。早めに寝ることとした。


 翌朝。目が覚めると頭痛がした。起き上がると目眩がした。悪寒がある。体の節々が痛い。そして、水下痢が出た。

 派遣会社と職場に連絡して病院へ向かう。コロナとインフルエンザの検査を受け、隔離された部屋に送られる。そこで、


「コロナの陽性反応が出ています」


 と、告げられた。

 昨日、外出時は一日中マスクをしていた。だが、土日はしていなかった。土日に何処かでもらったのだろうか? わからないが、人生初コロナだった。

 解熱剤と整腸剤を貰って病院を出る。スーパーでパスタとパスタソース、プリンを買い込んで帰宅。

 派遣会社と職場に連絡し、今週は休み扱いになった。

 熱が高かったが、とにかく下痢がひどい。しかも、なにか食べても胃液がせり上がってくる。


「私の言った通りになっただろう?」


 と、天使様。確かに。昨日宣言された通りの症状が出ている。俺の脳はこんな優秀な幻聴を作れるんだな、と感心した。

 煙草に火をつけたが美味しくない。コロナで味覚がおかしくなっているのか。すぐに灰皿でもみ消す。


「煙草も早くやめることだ。それは本当によくない」

「人間には愚行権というのがあって、たとえ良くないことが起こりうる行為でも、自分の意思で、他人に迷惑をかけないなら、その自由は認められてるんですよ」


 なんとなく天使様に抗弁してみた。


「は? お前……。覚悟しろ、夜明けにお前の顔を踏んでやる!」


 天使様は呆れ、そしてお怒りになった。

 起きていても仕方がないので布団を敷いて横になる。だがすぐに腹が下ってトイレに駆け込む。

 布団とトイレの往復。そんな生活が木曜日まで続いた。

 だいぶ体が楽になったと感じた木曜の夜、そういえば天使様は来なくなったな、と思い出す。

 幻聴なんて脳の障害なのだから、いなくなってくれたほうがいいのだが、いなければいないでなんとなく寂しいと感じるのは悪い傾向なのだろう。

 自分の脳が作り出した存在に依存してはいけない。

 布団に入る。明日には体調は元通りだろう。まさかの6連休。会社にも迷惑をかけたし月曜からは気合を入れて働かないとな、と、そんなことを考えた。


 ふと、目が覚める。まだ明け方だろうか。深々と冷えた空気だ。

 体が重い……いや、動かない。金縛りか?

 そして何かが顔を圧迫する。ぷにっとした感触。なんだ、これは。


「どうだ? 顔を踏まれた感想は」


 天使様の声だ。

 体は動かず、声も出せず。何かの感触が俺の顔をぷにぷにと押し続けている。最後に鼻が柔らかく潰された。


「ふふふ。降臨したら何度も踏んでやる。朝はこれで起こしてやるからな」


 と、天使様が言った。

 そしてふいに、金縛りがとけた。起き上がって自分の顔を触る。なんだ? 今のは。しばらく考えて、夢だろうと思うことにした。


 再び眠る気にもなれなかったので、マスクを付けて外に出、志村坂上の方へと歩く。

 一里塚史跡前の喫煙所に到着し、そこで一服した。煙草の味は元通りで、コロナの味覚異常も消えてなくなったようだ。

 今日はロト7の抽選日。そして明日には結果発表がある。今回もいつも通り、よくて5等の千円がもらえる程度だろう。そんなことを考えながら煙草をくゆらせ、灰皿に捨てる。

 中山道を自宅に向かって歩き、途中蕎麦屋に立ち寄ってかけ蕎麦を注文。体調はすっかり元通りだった。

 蕎麦屋を出ると7時前。コンビニでコーヒーを買って飲み歩き、帰宅してすぐに煙草に火を付ける。

 SNSに久しぶりに金縛りにあったことと幻聴の天使様に顔を踏まれたとつぶやいた。反応はなかった。

 部屋で短棒を振り、適当に運動して、アニメを見た。

 平日の午前中に健康で仕事がないと、やることがないな。土日でさえ持て余しているというのに。

 以前はソシャゲにハマっていたが金がかかるし時間が飛ぶように消えたのでやめた。だがそうすると、本当にやることがなくなった。

 仕方なく家を出て仲宿まで歩く。雑居ビルの二階にあるインド料理屋に入ってモモとマンゴーラッシーハイを注文した。 

 平日の昼間に酒を飲むなんてどれくらいぶりだろうか。いや、あったか? そんな機会。

 ぼんやりと店のテレビを眺めていたら西新宿で殺人事件があったという報道。既視感があるな。そういえば、先日板橋本町の店で同じ様な報道を見た。

 同じ事件だろうか、と注視してみたら、


「やはり新宿は危険だ」


 と、天使様の声。

 無視して報道番組を注視する。「先週日曜日に続いて」とアナウンサーの声。

「違う事件かよ」

 と独り言が出る。「容疑者の男は犯行を認めており――」マンゴーラッシーハイを飲みながら注視する。


「悪魔に命令された、と動機を語って――」


 マンゴーラッシーハイを飲む手が止まった。眉間に皺が寄り、固まる。

 悪魔? 聞き違いかと思ったが、テロップの文字にも悪魔とはっきり書かれている。


「新宿で死んだ魂は悪魔の物になる。あの場所で死んだものは永遠に救われない」


 天使様の声が頭をよぎる。嫌な偶然だ。自分の妄想と現実がリンクしているようで気持ちが悪い。

 頭のおかしい殺人者の戯言がたまたま幻聴と一致した、というだけの話。だが、猛烈な胸騒ぎに襲われた。


「もう、新宿には、行くな」


 天使様が改めて言い聞かせてくる。

 マンゴーラッシーハイを一気飲みし、グラスを置いた。モモはまだ到着していない。

 気分が落ち着かない。とても嫌なものを見てしまった。

 暫くして、コックがモモの皿を持ってやってくる。

「ネパールにも悪魔っています?」

 なんとなく訊いてしまった。コックは頷くと、

「悪魔いますね」

 と言った。

「いやさ、今テレビで新宿の殺人事件の話を見たんだけど、犯人が悪魔に命令されたって」

「こわいねー」

 コックは眉間に皺を寄せて首を振ると、厨房へと戻っていった。


「地上の悪魔の数はそれ程多くはない。だが新宿の悪魔は強い。強力な力で新宿を私の力でも監視できない様にしている。だからあの土地では何が起こるか予測がつかない」


 天使様は言った。

 高田馬場のラーメン屋を思い出す。1時間半待ちがザラな店で、たまに並んでいた。もう行けないな、と思う。少なくとも、幻聴が治るまでは無理だと思った。


 帰宅後、人間椅子の無情のスキャットをリピート再生で流し、体を動かす。

 悪魔とはどんな存在だろうか? そんなことを考えてしまう。

 振り払う様に短棒を振ったが、気になって集中できず。結局ネットで検索することにした。

 新宿の殺人事件は二件。そのどちらも犯人は逮捕されており、どちらの供述も「悪魔の命令」だった。SNSでも動機の共通が話題になっている。

 ざっと読んでみたが犯人は20代と40代で動機以外の共通点は見つからなかった。被害者と接点もない。「悪魔の命令」のみが共通していた。

 最初の犯人は新宿駅で女性の腹部を刺して殺害し、次の犯人は西新宿で男性を正面から滅多刺しにしている。

 SNS上で動画が回ってきた。

「これで満足ですかぁ!? 満足ですかぁああっ!?」

 と天に向かって叫ぶ男を警察が取り押さえるというもの。精神疾患患者がたまたま二人、同じ動機で殺人事件を起こしたというのだろうか?


「新宿の悪魔が起こした事件にしては規模が小さい。だが、これから大きくなる」


 天使様は言う。 

 冗談じゃない。こんな事件そうそう起きてたまるか。しかも大きくなる? どう大きくなるというのだろう。

 事件について調べるのをやめ、動画サイトで洋楽のMVを垂れ流した。

 自分の妄想と現実がリンクする感覚に困惑する。気持ち悪い。冷蔵庫から炭酸を取り出し、ハイボールを作って飲んだ。

 天気、コロナ、新宿での殺人。天使様の言う通りにことが進んでいて、それがどうやって自分の脳内で形成されたのか全く理解できない。

 だが、天使様を本物の天使だと認知したら、自分は際限なく狂ってしまう気がする。

 スマホで精神科に電話を架け、土曜日の午前中の予約を取る。薬を変えてもらう必要があった。

 ふと、早朝にあった顔に押し付けられたなにかの感触を思い出す。あれは、小さな足の裏だったんじゃないだろうか。

 ……いかん、いよいよおかしくなってきてるな。


 パスタを茹でて夕食を済ませ、早めに風呂に入って就寝する。明日、ロト7の当選番号を確認すれば、すべてが妄想だと分かる。そう思って眠りに就いた。


 早朝、目が覚める。時間は5時。

 外出着に着替えると家を出て、志村坂上に向かって歩く。一里塚史跡前の喫煙所にたどり着き、煙草に火をつけた。

 スマホを取り出し、宝くじのサイトにアクセスする。マイページの「結果未確認」を押し、自分が購入したロト7の当選確認ページへ飛ぶ。

 当選番号が表示され、次に自分が買った番号が表示される。上から順番に当選結果が表示され、一番上の、天使様の言った数字で買った分に、当選を表す赤紫色の丸が7つ綺麗に揃っていた。

 当せん金額:8億875万3,825円


「は?」


 思わず声が出た。


「は?」


 二度、同じ言葉を発していた。

 思考が追いつかない。8億? 当たった? 天使様が告げた番号で?

 何処かで、大きなガラスが割れた様な、そんな音がした気がして、途端にスマホを持つ左手が震えだした。自分の現実が壊れた気がした。

 

「あの、天使……様?」


 気がつけば虚空に向かって問いかけていた。

 そして、


「天使様はやめろ。天使が何人存在すると思っているんだ。リュシー様と呼べ」


 すぐに返事が帰ってきた。


「あの、リュっ……リュシー様、これは…………」


 スマホを指差す右手も震えていた。


「これ? ああ、お前が欲しがっていた金のことか。これでもう新宿に行く必要はなくなったな」


 天使様……ではなくリュシー様は満足げに言った。

 俺の現実はお亡くなりになった。この世には天使がいて、悪魔がいる。そして俺は天使に支配される。

 ふと、背中の中心に何かが当たる感触がした。

 それは人間の掌くらいのサイズで、背中の中心にぴったりとくっついていた。背後には誰もいない。


 孤独な中年は、ゆっくりと静かに狂っていくしかない。

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