無明の廃校
鍼野ひびき
第壱夜
◇ 闇の門 ◇
山間の道に嵐が吹き荒れる。冷たい風が木々を震わせ、その間を縫うように走る二つの影があった。篠原拓斗は後輩の桐谷美優の手を引きながら、濡れた地面を滑るように駆けていた。耳をつんざく雷鳴が響くたび、美優の肩が微かに震えるのを感じる。
「このままじゃ道に迷う。とにかく雨宿りできる場所を探さないと。」
拓斗は自分に言い聞かせるように呟いた。だが、目の前の光景は視界を遮る闇と降りしきる雨だけだった。
「先輩、あれ……!」
美優の声が響く。その声に導かれるように、拓斗は目を凝らす。闇の向こうに、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がった。それは古びた木造の建物だった。
「廃校……?」
拓斗は眉をひそめた。かつてこの地域の学校だったという噂は聞いたことがあるが、長らく使われておらず、荒れ果てているはずだ。それでも、この状況では選択肢は限られていた。
「行こう、美優。」
拓斗はもう一度彼女の手を強く握りしめ、建物へと向かった。
廃校舎の扉は驚くほど軽く開いた。錆びついているはずの蝶番が軋む音もなく、まるで二人を招き入れるかのようだった。
「中、意外と広いですね……。」
美優が湿った髪を払いながら呟く。薄暗い廊下が奥へと続いている。蛍光灯は既に壊れており、窓ガラスの隙間から差し込む雷光が、不気味な影を壁に映し出していた。
「とにかく雨をしのげればいい。ここで夜明かしして、朝になったら戻る道を探そう。」
拓斗は懐中電灯を取り出し、廊下を照らした。その光が壁にかかる古びた写真や掲示板を映し出す。かつての生徒たちの記録だろうか。笑顔の顔が時の流れに削られ、どこか虚ろに見えた。
「ここ、本当に誰もいないんですよね……?」
美優の声には不安が滲んでいた。廃校舎の空気は重く、湿っており、息をするたびに胸が押しつぶされるようだった。
「安心しろよ。」
拓斗は軽く笑ってみせたが、その表情もどこか硬い。自分でも、この空間には言葉にできない違和感が漂っていることを感じていた。
二人は一つの教室に入った。机や椅子は乱雑に積み重ねられており、蜘蛛の巣が天井に広がっている。拓斗は床に濡れたジャケットを敷き、美優を座らせた。
「ありがとう、先輩。」
美優はぎこちない笑顔を浮かべるが、その目はどこか怯えていた。
「無理するな。少し休んでろ。」
拓斗は教室の扉を閉め、窓の外を覗いた。嵐は収まる気配がなく、むしろ雨脚は強まっているようだった。
だが、その瞬間、何かが視界の端に映った。
――黒い影。
雨のカーテンを裂くように、それは一瞬だけ現れ、すぐに消えた。
「……なんだ?」
拓斗は眉をひそめ、再び窓に目を凝らした。だが、それ以上は何も見えない。ただの目の錯覚だと思おうとしたが、胸の奥に生まれた不穏な感覚は拭えなかった。
「先輩……?」
美優の声が背後から聞こえた。その声には微かな震えが混じっている。
「どうした?」
振り返ると、美優が手元のカメラを握り締めていた。そのレンズが向けられた先は、教室の隅だ。
「今、そこに……何かが……。」
彼女の声が掠れる。拓斗は慌ててライトを向けた。だが、そこには何もなかった。
「何もいないだろ。」
拓斗は努めて冷静に言ったが、背筋をなぞる冷たい感触が消えなかった。
「ごめんなさい、気のせいかもしれない……。」
美優は俯いたまま呟く。だが、彼女の握るカメラが微かに震えているのを拓斗は見逃さなかった。
その後、二人は教室の隅で体を寄せ合いながら座った。外の嵐は収まる気配を見せず、時間の感覚も失われていく。
「先輩、私……少し怖いです。」
美優が弱々しく言った。
「大丈夫だ、俺がいる。」
拓斗はそう答えたが、自分自身に言い聞かせるような響きだった。
その時、不意に廊下から音が聞こえた。
――カツン、カツン。
まるで硬い靴底が床を打つような音。それは規則的に、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
二人の呼吸が凍りついた。音は次第に大きくなり、教室の扉の前でピタリと止まった。
誰かがそこにいる――いや、何かがそこにいる。
扉の向こうから、低く、湿った声が囁くように響いた。
「……まだ、帰れないよ……。」
拓斗と美優は顔を見合わせた。その瞬間、扉が軋みを上げて開き始めた――。
◇ 影の囁き ◇
扉がゆっくりと開く音が廃校の静寂を切り裂いた。拓斗は咄嗟に懐中電灯を扉に向けたが、光の先には何もいない。ただ、闇が静かに揺れているだけだった。
「……風か?」
自分に言い聞かせるように呟くが、胸に広がる不安は消えない。廊下から聞こえた足音、扉の向こうから聞こえた低い囁き――それらが風だけで説明できるとは到底思えなかった。
「先輩……外、誰かいるの?」
美優の声が震えている。拓斗は彼女の前に立ち、扉の外に目を凝らした。
「いや……誰もいない。たぶん、気のせいだ。」
そう言いながらも、彼の手は懐中電灯を握りしめたまま離れない。
廊下を慎重に歩き出す二人。床板が軋む音が、異様な静けさの中でやけに大きく響いた。雨音すら遠のいたように感じられる。
「先輩、戻りませんか……? 教室にいたほうが安全な気がします。」
美優が後ろから声をかける。
「このままじっとしてても状況は変わらない。出口を探そう。どこかに非常口があるはずだ。」
拓斗の声は硬かった。彼自身、不安を隠しきれていないことがわかる。それでも、美優の前では頼れる先輩でいようと、無理にでも冷静を装っていた。
懐中電灯の光が廊下を照らす。その先に、古びた掲示板が見えた。拓斗は足を止め、そこに近づく。
「これ……地図じゃないか?」
掲示板には、廃校舎の見取り図が貼られていた。湿気で色褪せているが、構造はおおよそ読み取れる。
「体育館があるみたいだ。もしかしたら、そこに非常口があるかもしれない。」
拓斗が指差す先には、「体育館」と書かれた文字があった。
「ここから左に進んで階段を降りるのね……。」
美優も指をなぞりながら確認する。だが、次の瞬間、彼女の指が止まった。
「……あれ?」
拓斗が振り返ると、美優が地図の隅を凝視している。彼女の指先が触れているのは、「地下倉庫」と書かれた場所だった。
「地下なんて……学校に普通あるものなの?」
美優の声には疑念が混じっていた。
「廃校だからな。物置代わりにしてたんじゃないか?」
拓斗は軽く流したが、心の奥にわずかな引っかかりを覚えた。それはまるで、この建物全体が何かを隠しているような感覚だった。
地図を頼りに進む二人。廊下の壁には剥がれたペンキと亀裂が広がり、廃墟の長い年月を物語っていた。
「本当にここで合ってるのかな……。」
美優が不安そうに呟いたその時、不意に足元が滑った。
「きゃっ!」
バランスを崩した美優を、拓斗がとっさに抱き留める。
「大丈夫か?」
「ごめんなさい……。」
美優は顔を赤くしながら謝るが、その視線は足元に釘付けだった。
二人の足元には、奇妙な黒い液体が広がっていた。それは水とは異なり、粘度があり、まるで生き物のようにじわじわと動いている。
「なんだこれ……?」
拓斗がライトで照らすと、その液体が一瞬だけ蠢いた。黒い影が光を嫌うかのように、床の亀裂へと吸い込まれていった。
「……先輩、今の……。」
「気にするな。ただの水漏れか何かだ。」
拓斗はそう言い切ったが、内心では冷たい汗が流れていた。
体育館への扉にたどり着いた時、二人はほっと息をついた。重い扉を押し開けると、中は薄暗いながらも広々としていた。雨音が遠くに響き、空間全体に不気味な静けさを伴っていた。
「非常口が……。」
美優が指差した先に、緑色の非常口マークが見えた。だが、その扉には大きな錠が掛けられている。
「くそ……開かない。」
拓斗が扉を強く押しても、錠はびくともしない。
「ここから出られないの……?」
美優の声が絶望に染まりかけたその時、体育館の奥からかすかな音が聞こえた。
――コツ、コツ、コツ……。
それは廊下で聞いた足音と同じだった。二人は息を呑み、音のする方を見つめた。
「誰か……いるの?」
美優が震える声で言う。だが返事はない。ただ、音だけが規則的に近づいてくる。
ライトを向けるが、そこには何も見えない。だが、気配は確かに存在している――二人を見つめる何かが。
「……逃げるぞ、美優。」
拓斗は美優の手を取り、体育館の反対側へと走り出した。背後の足音は追いかけるように早まる。
そして、体育館の出口に辿り着いた時、二人は凍りついた。
扉の前には、黒い霧が立ちこめていた。それは人の形をなぞるようにゆっくりと変化し、頭部らしき部分が二人を見下ろしているようだった。
「……帰れないよ……。」
濁った声が霧の中から響き渡った瞬間、体育館全体が冷たい闇に包まれた――。
◇ 過去の囁き ◇
冷たい闇が体育館を飲み込む中、拓斗と美優は息を潜めて身を寄せ合っていた。黒い霧――それは確かに生きたものだった。その存在感は空気よりも濃密で、二人の心に直接語りかけるような不気味な圧力を持っていた。
「拓斗……どうするの?」
美優が拓斗の服の袖を掴み、震える声で囁く。
「静かにしてろ……」
拓斗もまた声を絞り出すように答える。ライトを消し、暗闇の中でただ気配を殺す。だが、霧の動きは止まらない。ゆっくりと、確実に二人の方へと迫ってくる。
霧の中から、低く濁った声が聞こえた。
「……思い出せ……」
その声は、耳ではなく心の奥深くに直接響いてくるようだった。拓斗は無意識に頭を振り、意識をかき乱す声を振り払おうとする。
「思い……出せ……」
その言葉が繰り返されるたび、彼の脳裏に幼い日の記憶が蘇ってきた。両親の事故――あの雨の日、車が激しく衝突する音、割れるガラスの破片、そして彼を庇うように手を伸ばした母の姿……。
「やめろ……!」
拓斗は拳を握りしめ、記憶を振り払おうとした。しかし、霧はさらに深く侵食してくる。
「お前のせいだ……」
その声に、拓斗の心が軋む音を立てた。
「拓斗、何か聞こえるの?」
美優が心配そうに尋ねるが、彼女の声は遥か遠くに感じられる。拓斗は霧の声に囚われ、現実との境界線がぼやけていく。
一方、美優もまた異様な感覚に襲われていた。霧の中から、別の声が聞こえてくる。それはどこか懐かしく、けれど忌まわしい響きを持っていた。
「お前は何もできない……期待されているだけの人形だ……」
声が心に刺さるたび、彼女の脳裏に家族の顔が浮かぶ。厳格な父、冷たい目をした母、そして期待を押し付ける教師たち。美優は無意識に耳を塞いだが、声は止まらない。
「どうせ失敗する……写真も、学校も、全部無駄だ……」
「……違う……!」
美優は顔を歪め、涙を浮かべながら叫んだ。
その瞬間、霧が一層濃くなり、体育館全体がねじれるような感覚に包まれた。
「美優!」
拓斗が叫び、彼女の肩を掴んだ。その触れた感覚で、ようやく彼女は現実に引き戻される。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
美優は震えながら呟く。
「何があっても、俺が守る。だから、しっかりしてろ。」
拓斗は強く言い聞かせるように彼女を見つめた。その瞳は、不安や恐怖に揺れながらも、彼自身の信念を奮い立たせていた。
「……はい。」
美優は涙を拭い、かすかに頷いた。
二人は体育館を抜け出すために再び動き出した。霧は徐々に形を変え、人影のようなものが浮かび上がる。それは時折、過去の記憶の中の人間の姿を模倣しているかのようだった。
「あれ……お母さん……?」
美優が思わず呟く。霧の中に現れた女性の姿は、確かに彼女の母親に似ていた。
「違う、そんなはずない!」
拓斗が彼女を制止するが、霧はさらに巧妙に二人の記憶を引き出そうとする。
「戻れ……過去に……」
声が深く、低く、そして命令のように響く。
「俺たちは……過去になんか戻らない!」
拓斗は意を決して叫び、霧に向かって懐中電灯を強く光らせた。
その瞬間、霧が一瞬だけ後退する。そして、霧の中から現れたのは、廃校の奥へと続く錆びた階段だった。
「……行こう。」
拓斗は美優の手を取り、階段の先へと進む決心をした。その先に待つのがさらなる恐怖だとしても、ここに留まるよりはマシだ。
階段を下りるたびに、空気はより冷たく、重くなっていった。足音が不気味に反響し、まるで何かが二人を誘い込んでいるかのようだった。
やがてたどり着いた地下の扉。その向こうからは、低く不協和音のような音が響いていた。
「ここが……地下倉庫……?」
美優が呟くと同時に、扉がひとりでに開いた。
中に広がるのは、朽ち果てた机や椅子、そして無数の影が蠢く奇怪な空間だった。
「美優……何があっても、俺のそばを離れるな。」
拓斗は震える手で美優を引き寄せ、踏み込んだ。
扉が背後で音を立てて閉まると同時に、影たちが二人を取り囲むように動き出した――。
◇ 鏡に映る真実 ◇
錆びついた扉が背後で閉まる音が廃校の地下に響き渡る。暗闇の中、拓斗と美優は一歩ずつ慎重に足を進めていた。空気は重く、冷たい湿気が肌にまとわりつく。二人を囲む影はまるで生き物のように動き、その中から不定形の黒い霧が浮かび上がった。
「ここ……どこなんだろう……」
美優が拓斗の腕にしがみつきながら呟いた。拓斗は返事をしない。ただ懐中電灯を握りしめ、目の前の光景に集中していた。
地下室は異様な空間だった。壁一面には古びた鏡が貼り付けられ、床には割れたガラス片が散らばっている。鏡はそれぞれ微妙に歪んでおり、二人の姿を奇妙にねじ曲げて映し出していた。
「何だ、この鏡……」
拓斗が低く呟き、懐中電灯の光を鏡に向けた。その瞬間、一枚の鏡に映る彼自身の影が動いたように見えた。
「今、動いたよな……?」
拓斗は美優を振り返り確認しようとしたが、彼女の目は別の鏡に釘付けになっていた。
「拓斗、この鏡……」
美優の声が震えている。彼女が指差す鏡の中には、彼らの姿以外にもう一人の人影が映り込んでいた。
「逃げられない……」
どこからともなく響く声が、二人の心に冷たい刃を突き立てた。声は低く、男とも女ともつかない不気味な響きを持っていた。
「誰だ!」
拓斗が声を張り上げる。しかし返事はない。ただ鏡の中の影が、じわじわと二人に近づいてくる。
美優は恐怖に耐えきれず鏡に背を向けたが、次の瞬間、別の鏡に目を奪われた。そこに映し出されていたのは、彼女の幼い頃の姿だった。小さな美優が、満面の笑みを浮かべてカメラを手にしている。その背後には、冷たい表情を浮かべた母親の姿がぼんやりと映り込んでいた。
「お母さん……?」
美優が呟くと、鏡の中の母親がゆっくりと顔をこちらに向けた。その目は、美優を責めるような鋭さを帯びていた。
「期待に応えられないなら、何の価値もない……」
母親の口がそう動いた瞬間、美優は悲鳴を上げた。
拓斗は振り返り、美優の肩を強く掴んだ。
「しっかりしろ! それは本物じゃない!」
しかし、彼自身もまた鏡の中に囚われつつあった。別の鏡には、幼い日の自分と、交通事故で命を落とした両親が映し出されていた。雨の中、父がハンドルを握り、母が後部座席の拓斗を気遣う姿が再現されている。
そして――その次の瞬間、激しい衝突音とともに、両親の体が無残に崩れる映像が鏡いっぱいに広がった。
「俺のせいじゃない……俺が悪いわけじゃ……」
拓斗は無意識に呟き、鏡の前で立ち尽くした。
黒い霧が二人を包み込む。霧はまるで彼らの記憶そのものをえぐり出すように動き、囁き続けた。
「お前たちは罪を背負っている……だからここにいるんだ……」
「違う!」
美優が声を張り上げた。その声は震えていたが、どこか芯の強さを帯びていた。
「私は……私は自由になりたい! 誰かの期待じゃなく、自分のために生きたい!」
その言葉に反応するように、鏡が一斉に音を立ててひび割れ始めた。
「美優……?」
拓斗が彼女を見つめる。
「拓斗、負けちゃダメだよ! これは現実じゃない!」
美優の必死の叫びが、拓斗の心にわずかな光を灯した。
拓斗は深く息を吸い込み、鏡の中に映る両親に向かって叫んだ。
「俺は……俺はあの時、最善を尽くした! 二人がいなくなっても、俺は生きていくって決めたんだ!」
その瞬間、鏡が砕け散り、影が一瞬だけ後退した。
二人はその隙をついて走り出した。鏡の迷宮のような地下室を抜け出し、暗い廊下を突き進む。背後では影が再び追いかけてくる音が響いていた。
廊下の突き当たりに、古びた木製の扉が見えた。拓斗が勢いよく扉を押し開けると、そこには小さな教室が広がっていた。教室の中央には、古びた黒板と一冊のノートが置かれている。
「これは……?」
美優がノートを手に取り、ページをめくる。その中には、廃校にまつわる恐ろしい伝説が記されていた。そして最後のページには――。
「影の怪物を解放する方法はただ一つ。犠牲を捧げること」
その文字を見た瞬間、教室全体が不気味な唸り声とともに揺れ始めた。
「どういうことだ……?」
拓斗は拳を握りしめ、美優を守るように立ち上がった。しかし、ノートの文字は次々と浮かび上がり、赤黒い光を放ち始めた。
影は再び形を変え、二人を取り囲む。出口はどこにもない。果たして二人は、この廃校の呪いから逃れることができるのだろうか――?
◇ 犠牲の先に ◇
教室全体に満ちる赤黒い光が、二人の視界を奪うように揺らめいていた。ノートの文字はまるで血で書かれたかのように濃く、ページの間から黒い霧が立ち上る。その霧は、廃校の中を支配する影そのものと同質の何かだった。
「拓斗、このままじゃ……」
美優の声は明らかに恐怖を帯びていたが、同時にその中には決意の色も滲んでいた。
「ここから出る方法を見つけないと……!」
拓斗はノートを睨みつけた。ページをめくるたびに浮かび上がる文字は、彼の意識を鋭く刺し続ける。
「影は心の闇を食らう。闇が深いほど、影は強くなる。」
「闇……」拓斗が小さく繰り返した。
その時、教室の四隅に影が集まり始めた。それは人型のようでありながら、顔も輪郭も無く、ただの黒い塊だった。しかし、その中から聞こえる声は明確だった――。
「お前たちの罪を、清算する時間だ。」
影は、二人に最も触れられたくない記憶を次々と見せつけた。
美優の目の前には、母親の冷たい視線が浮かび上がる。
「期待を裏切るのね、美優。やっぱりあなたは……」
「違う! 私は私の道を……!」
美優は叫びながら耳を塞ぐが、声は脳内に直接響くように繰り返される。
一方、拓斗はまたしてもあの雨の夜の記憶を見せられていた。車内に響くタイヤの滑る音、母の悲鳴、そして――重く押しつぶされる感覚。
「お前が生き残ったのは偶然だ。お前が救えるはずだったのに……」
その声は、彼の中に刻まれた罪悪感を抉るように囁き続ける。
「拓斗!」
美優の叫びが、彼を現実に引き戻した。
「私たち、負けちゃダメだよ! これって、きっと私たちの心を壊そうとしてるだけ!」
その言葉に、拓斗は目を覚ましたように顔を上げた。美優の震えながらも必死に前を向こうとする姿が、彼にわずかな光をもたらした。
「そうだな……諦めるわけにはいかない」
拓斗は美優の手を掴み、深く息を吸い込んだ。
「影が俺たちを追い詰めるのは、俺たちが恐れているからだ。だったら、俺たちがそれを乗り越えれば……!」
美優は力強く頷いた。
「恐れない……自分の弱さに、負けない!」
二人がその決意を固めた瞬間、影の動きが鈍くなった。しかし、次の瞬間――廃校全体が地響きを上げて揺れ始めた。
「これは……?」
拓斗が周囲を見渡すと、教室の壁が崩れ、そこに一つの巨大な扉が現れた。扉は黒い鉄でできており、その表面には複雑な紋様が刻まれている。
扉の中央には一行の文字が浮かび上がっていた。
「二人のうち、一人を捧げよ――」
その言葉に、二人の心臓が凍りついた。
「捧げる……?」
美優が震える声で呟いた。
拓斗は扉に近づき、その冷たい表面を触れながら考え込んだ。
「これは、影が俺たちを試しているんだ。どちらかが犠牲になれば、もう一人は解放される……そういう仕組みなんだろう」
美優は目を見開いた。
「そんなの、そんなのダメだよ! 二人でここから出るって決めたじゃない!」
拓斗は彼女に微笑みかけた。その微笑みは、どこか覚悟を秘めているようだった。
「美優、俺が……」
「だめ!」
美優が彼の言葉を遮った。その目には涙が浮かんでいたが、強い意志が宿っていた。
「一人で生き残るなんて、そんなの嫌だよ……!」
扉の周囲に霧が立ち込め始めた。影が再び形を成し、二人を取り囲む。
「決断を下せ。さもなくば、二人ともここで終わる」
影の声が冷たく響き渡る。
拓斗は拳を握りしめ、歯を食いしばった。
「俺が犠牲になる。それで影が満足するなら、それでいい」
「拓斗……!」
美優が彼の腕を掴んだ。涙が頬を伝うが、彼を止める力は無い。
「美優、お前は外に出て、この廃校の真実を伝えてくれ」
その瞬間、美優の中に何かが弾けた。
「違う!」
彼女は力強く叫び、拓斗の手を引き戻した。
「私たちは一緒にここから出るの! 影なんかに負けない……!」
その言葉に、影が激しく揺れ動いた。
「……二人で乗り越える、だと?」
影の声が歪み、怒りとも戸惑いともつかない感情を見せた。
美優はノートを持ち上げ、それを影に向かって投げつけた。
「お前が何を試そうとしても、私たちは絶対に屈しない!」
ノートが影に触れた瞬間、影は激しく収縮し、周囲に黒い霧を撒き散らした。廃校全体が不気味な悲鳴を上げながら、崩壊し始める。
「拓斗、行こう!」
美優が彼の手を引き、扉の向こうへと走り出した。
扉を抜けた先には、薄明かりの差し込む廊下が広がっていた。崩壊する廃校を背に、二人はただひたすら走り続けた。
出口にたどり着いた時、雨は止み、夜空にはわずかな星が輝いていた。
二人は肩で息をしながら、無言で廃校を振り返る。その背後では、廃校が静かに沈黙の中へと飲み込まれていった。
次の更新予定
無明の廃校 鍼野ひびき @Hibiki-Harino
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