第3話 星空、海、そして朝日の見えるアパート


 アパートのベランダからは南水市場の海が見える。

 楊の目に映るのは、満天の星空。


「雲ひとつない、星空。」


 トントン、と蓋を開けた灰皿に灰を落とす。


 ――俺さ、メンタルの病気があるんだ。


 昼間、海に打ち明けたことが、正しいことだったのか、楊には分からなかった。

 ただ、眠れずに、夜中に一人で外の風を感じていた。


「メンタルの病気。だから……何だったんだ、ってんだよな。」


「そんなことないよ。」


 楊はビックリして振り返る。

 あ……。と海は口を開けて、半分開いた窓の内側に立っていた。

 楊は煙草の火を揉み消して、蓋を閉める。


「何だ、海。いるならいるって言えよ。全く。」


「ううん。ちょうど今起きたんだ。」


「いつもこの時間は、眠れないのか?」


「え、いや。そんなことはないけど。」


「そっか。」


 夜の虫の声が、どこからか聴こえる。

 沈黙も、完全に止まった空気感ではなかった。

 どこか、流れるような、沈黙。


「さっき、私、車の中で寝てたじゃん。だから、夜ご飯あまり入らなくて、結局お腹すいて起きてしまって。」


「そうだったな。なら、からあげの残り食べるか? 疲れてると思って、起こさなかったんだ。でも、ちゃんと車から降りて歩いてたぜ。器用だな。」


 少し、楊の方を睨む海。

 海は窓を閉め、鍵に手を置く。


「ばっ……か。オイ、悪かった。悪かったって。閉め出すなよ。」


 海は窓を開け、あはは、と笑う。


「……よかった。」


 楊は誰にも聞こえないであろう小さな声で、ぽつり、と呟く。

 海は、笑うのをやめる。


「何だ、聴こえてたのかよ。いつも詩とか店長には、声が小さいって言われんだけどな。」


 その……と、楊は頭を搔く。


「さっきのは。」


 あー……。と、楊は天井を見上げる。


「心配、だったんだ。」


 海は、楊の方を見ていた。

 目が合う。

 その小さな肩を、大きな手でポンッとたたく。


「ずっとここにいていい。もし部屋がいるなら、俺が貸してやる。ここのアパート、空きあるからさ。じいちゃんのアパート継いだんだ。海の見える、この街が、俺も大好きだからな。」


 じゃ、と片手を上げて、楊は寝室へと戻っていく。

 海は、しばらく風に当たっていようと思った。

 この街を、この星と海の見える景色を、今日の出来事を、目で覚えておきたかったのだ。


「あ、からあげは、いる?」


 思い出したように、楊は戻ってくる。


「いる!」


 海は振り返り二つ返事をすると、窓を閉めて、鍵をかけた。

 そっと心にしまって、大事に、鍵をかけるように。


 

***



 翌朝。

 この日は平日だったから、黒枝家の朝はバタバタと慌ただしかった。それも8時を過ぎてしまえば、ダラダラとスマホのゲームをする楊が、ソファーの脚を背もたれにして、絨毯にあぐらをかいて歯磨きをしているような、ゆったりとした時間の流れになる。

 海が寝室から、のそのそと起きてくる。

 ちょうど歯磨きと口ゆすぎが終わって、楊が水道の蛇口を閉める頃だった。


「おはよう。兄さん。」


 掛けられているタオルで口を拭き、新しいタオルに変えようと和室に行こうとしたのは、海のためだろうか?


「兄さん?」


 どうやら聞こえていないみたいだ。ボサボサに伸びた髪の毛の隙間から、ワイヤレスイヤホンが見える。


「どうっ。」


 スマホを見ながら家の中を歩く楊の目の前に、海は飛び出る。


「どわあっ!」


 あわやぶつかるところだったが、間一髪のところで楊は止まる。


「ん。」


 海は自分の両耳をつつく。どうせ、さっきの「おはよう」が聞こえなかった楊のことだ。言葉で言っても伝わらないだろう、と思っての、ジェスチャー。


 楊はイヤホンをケースに入れ、どうした?という顔をした。


「おはよう。」


 昨日まで元気が無かったのが嘘のように、海は楊に圧をかける。


「え、何? 何をそんな怒っとるん?」


 楊は何も分からず、困惑の目をした。


「兄さんが両耳にイヤホン付けてるから、私がおはようって言っても気付かなかった。」


 海は少し不機嫌そうにしている。


「ああ、そういうことか。おはよう。」


 楊の言葉を聞いて、海は、ほっとしたような顔をした。


「ありがとう。無視されるのが、ちょっとだけ、苦手なの。でも、私も、不機嫌になったりして、少し子供っぽかったね……。ごめ……」


「あー、あー。今度から片耳イヤホンでゲームするから。つい、いつものクセで詩が仕事行ったら両耳に付けてた。じゃ、俺も仕事の準備あるし、1000円置いとくから適当にコンビニで昼飯買って食っててくれよな。」


 人に謝らせるのが嫌な楊は、まくし立てるように早口で、仕事に急いでいるフリをした。本当に忙しいわけではないが。


「ねえ、ねえ、兄さん。あの、私も行くよ、仕事。挨拶しに行く。」


 制服のジャケットを羽織り、ポケットに煙草やらライターやらスマホやらを急いで詰め込む楊の手がピタリと止まった。


「海。……あー、分かった。そんじゃ、行こう。別に服装とか何でもいいけど、しっかり朝飯食って、歯磨き、あとは水分取りなよ。」


 楊はそう言って、冷蔵庫を指さす。


「昨日の米は容器に移して冷蔵庫に入ってる。ふりかけでもお茶漬けでもかけて食べてくれ。必要なら、漬物もある。卵とウインナーあるからスクランブルエッグとか食べたいなら作るけど。」


 海は、きょとん、とした目で楊を見る。


「な、何だよ、こっちジロジロ見て。ひ、髭の剃り残しでも見えたん?」


 いや……と海は首を振り、


「兄さん、仕事まで時間ないんじゃ……?」


 楊は、はあ、とため息を吐いた。


「あるよ、時間。だからゆっくり食べて、大丈夫。」


 ――さっきは無視したみたいになって、ゴメン。


 謝られること、謝ること、楊は、このどちらも苦手だ。

 謝られると、まるで自分が悪いことをしたみたいに感じるし、謝ると、相手が酷いことをしたと自ら主張する形になるように思えてしまうのだ。


「……マジ、俺も成長せんとな。」


 聞こえてか、聞こえていなかったのか、朝ごはんを食べる海の後ろ姿が、一瞬、止まった気がした。


 当の海は、昨日の星空だったから、朝日はとても綺麗だったんだろうな、と、日の昇ってしまった明るい青空を見ていたのだった。

 6月の、梅雨に入る前の、雲ひとつない青空だった。

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