虫めづる者達
ijuha
第1話 黒枝 海、兄夫婦の家に居候の旅
「南水市場」と聞いて、黒枝 海が思い出すのは、半分だけ血の繋がった兄が住んでいる街。そして、兄の祖父母がくれた、海にとって、ただ一つだけの、心強い「言葉」のお守り。
――ガタンゴトン。ガタンゴトン。
海は今、列車に揺られている。
南水市場にいる兄は、きっと助けてくれるという、希望を持ちながら。
――ガタンゴトン。ガタンゴトン。
海の身体が隠れるくらいの大きな荷物と、膝の上の白い小さな紙袋が揺れる。紙袋の中から時折顔を見せるのは、箱に入ったお菓子だろうか。
「兄さんと、兄さんのお嫁さんのために選んだお土産なんだけど……喜んでくれるかな。迷惑じゃないかな。私なんかが泊まりに行くの。」
短いトンネルに入り、海の不安そうな顔が窓に映る。目が赤く腫れていて、また、今にも泣き出しそうだ。
パッと明転したかと思えば、今度は木々の間から青くて広い海が見えた。それだけ、南水市場が近いということ。
水市場、というだけのことがあって、海水浴場だったり、海産物が有名な街なのだ。しかし、黒枝 海とは名ばかり、海水浴とは無縁だったので、大きな荷物の中に、水着や浮き輪なんて浮かれたものは入っていない。
――ガタンゴトン。ガタンゴトン。
「大丈夫。きっと、大丈夫だよ。」
11年前、兄の祖父母がくれた言葉を握りしめて、涙を堪える。
列車は段々と減速していく。
小さな駅のホームが見えた。
――次は、南水市場。南水市場。お降りの方は――
海は列車から大荷物を抱え、やっとのことで降りると、眩しそうに目を細める。
もうすぐ6月。日差しは強い。普段から引きこもっている海にとって、この時期の太陽の光は、かなり刺激が強い。
「海ちゃん! 海ちゃんだよね?」
海は声のする方に振り返る。
笑顔で手を振る女性と、あとは無精髭を生やした眠そうな兄さんがいた。
「あ……初めまして。黒枝 海です。あなたは、兄さんの、お嫁さん?」
海が聞くと、女性は自分達が乗ってきた水色の軽自動車を指差して、こう言う。
「うんうん。そうだよ。黒枝 詩(うた)って言います。海ちゃん、長旅疲れただろうし、車で迎えに来たんだ。荷物、車に乗せるから、そこで待っててね。」
詩は海の方に駆け寄ると、海の持つ大きな荷物を一人でヒョイと抱えて車の方へ歩いて行く。
顔だけを海の方へ向けて、割と大きな声で、
「海ちゃん後部座席座れるよね?多分、後ろに荷物入らないからさ。」
と、口早に問いかける。
「あ、はい! 大丈夫ですよ!」
緊張しているのと、普段声を出さないこともあり、声が掠れ、海は少し、咳をする。
海の兄である楊(よう)は、荷物を詰め込んでいる詩を一瞥すると、海の方へ歩いてきて、隣に立つ。
そして海の方を見るでもなく、どこかぼうっと遠くを見つめながら、言った。
「じいちゃんとばあちゃんとの約束は守るから大丈夫だ。」
海は込み上げてくる感情を抑え、上手く動かない重い口を開き、身振り手振りで説明しようとする。
「私……引きこもりになっちゃって。学校行けなくて、母さんとよく喧嘩してて。でも大丈夫! 母さんとは少し話し合って、それで、しばらくこっちに泊まるかも。ほら、ちゃんとバイトは、するから、さ……。」
海は下を向く。足元には二滴、水滴が落ちる。
少し、鼻をすする音。
しばらくの沈黙。
耐えかねた楊は、はあ、と長いため息をつく。
けれどそれは海に対してではなかった。
ちゃんと話し合えた訳じゃないことは、楊じゃなくてもわかる。
荷物の量だ。
それを理解した上で、母の話には触れない。
「俺もそこまでちゃんと働けてるわけじゃないし、気にしなくていい。どうしてもって海が言うなら、俺と詩ちゃんが働いてるところの店長に話しといてやるよ。店長は俺の、古くからの友達だからさ。」
そこまで話したところで、詩から声がかかる。
「はい、二人とも、車に乗って。今日の晩御飯、買いに行きましょうか。」
海はそれを聞いて、直感ではあるが、明るくてしっかりした女性だな、と思った。それだけで、心につかえていたものが、ストン、と落ちていくようだった。
先に楊が助手席に乗り、海はその後で後部座席に座る。
「海ちゃんもシートベルトしてね。あと声機は持ってるよね?」
海がシートベルトを装着した後で、車のエンジンがかかる。
「持ってますよ。」
海はショルダーバッグから持ち運び用のシングルサイズの虫かごを取り出し、扉を開ける。同様に、助手席の楊もダブルサイズの虫かごを取り出し、虫かごの扉を開けた。
海の声機だけは、ボロボロで、触覚は既に1本取れていて、足も少し欠けていたし、どう考えても生きているとは思えなかった。
「ゾンビなんだね、その子。きっと大事にしてあげたんだ。生きているみたいだよ。」
詩は少し泣きそうな声で、そう言った。
ヒラヒラと3匹の蛾のような虫は、大人の手のひらに収まるサイズで、虫たちは3匹で向かい合うと、人間の耳には聴こえないが、共鳴を始めた。
その光景は、一度だけ見たことはあったが、本当に神秘的で、海はつい、
「やっぱり、良いな。」
と、心の声をこぼした。
それを聞いていた詩は、海に聞く。
「あのさ? 私たちが働いている声機の小売店で、バイトしてみない?この子達のお世話もできるんだよ。」
「それさっき俺が海に聞いた。」
すかさず楊が言うと、
「そうだったの?」
と、詩は少し驚いたような声を上げる。
はあ、とため息を着いて、楊は後部座席の方に上半身をひねり、海に謝ろうとする。
「ごめんな海。二人して圧をかけたみたいになってしまって。別に働かなくたって全然……」
「わ、私っ……そこでバイト、してみたい。」
一瞬の沈黙。
目を丸くする楊と詩を交互に見て、海は
「だ、ダメかなぁ……? 私なんかがバイト手伝っても、役に立てないかな。」
「それは違う。」
そう言ったのは楊だった。
「ちょっと。」
赤信号で車を止まらせ、詩が楊に注意しようとするが……
「海がしたいようにしてもいい。分からなかったら、一人で困らずに聞いたらいい。ダメとか、迷惑とか、役に立てないとか、思わなくていい。なんか、こっちが悪者みたいに感じる。」
「ご……ごめんなさっ……」
楊に否定されたように感じた海は、思わず謝ってしまうが、詩は楊の言葉を埋め合わせるように説明する。
「ああ、違うのよ。言い方はこんなんだけどね。否定してるとかじゃないんだよ、楊は。つまりね、海ちゃんが申し訳ない気持ちになったり、謝らなきゃいけないってことは、何もないってこと。……それでさ。」
肘置きにある楊の肘の内側を、詩は思い切り肘で踏む。
「痛ったあ!」
青信号になり、何事もなかったかのように、詩は車を発進させる。
「楊君。夜ご飯、何がいい?」
虫めづる者達 ijuha @iJuha
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