エフェス編 第10話 夢の終わり、孤独の始まり
「おい、エフェス! そっちに魚が行ったぞ! うまく捕まえろよ!」
「わかっちょる! 少しは俺を信じろ、マシュー!」
「半分は信じちょる。半分は」
「やかましか!」
仲間たちの屈託のない笑い声が、川のせせらぎに溶けていく。
エフェスは皆で作った石と岩の堰の中に迷い込んだヤマメを、慎重に追い詰めていた。岸辺ではモーとマキリが焚き火の準備をしている。少し離れた場所ではエセルが悪戦苦闘しながら川魚を捕まえようとしていた。
「やったー! 捕りましたわ! ヤマメ!」
誇らしげに掲げられた魚は、しかし妙ににょろにょろと長い。
「エセル……それ、ヤマメじゃない。ウナギだ!」
「うなぎ?」
エセルの手から暴れるウナギが、つるりと滑りこちらへ飛んでくる。持ち前の動体視力でそれを捕らえようとした瞬間、足元の苔にずるりと足を取られた。視界がぐにゃりと歪む。顔面に生暖かく、ぬるりとした感触が広がった。
にゅるにゅる、ぬめぬめ……ぬめぬめ……
「ん……?」
目を開けると、そこに仲間たちの笑顔はなかった。
鬱蒼と茂る見知らぬ森の木々。そして目の前には、心配そうにこちらを覗き込む大きなラバの顔があった。
「ぬめっ……ぬめっ……ブルルー……」
ラバがそのざらりとした温かい舌で、エフェスの顔を舐めている。夢の残滓と現実の感触が混ざり合う。
◇
星霊暦五〇四年一月十五日、火曜日。
「……そうよな。夢、だよな……」
呟いた言葉はひどくか細く、震えていた。
昨日ガラーシャ村で起こったあの惨劇こそが、現実なのだ。胸の奥がぎしりと軋むような痛みを訴える。夢とは不思議なものだ。見ている間はそれが真実だと信じて疑わない。だからこそ、目覚めた時の断絶はあまりにも残酷だった。今、この瞬間がまさにそうだった。
「……たく、アトレイクス、おはよう。……臭いは大丈夫だけど、顔、洗いたかな……」
エフェスが身を起こすと、ラバのアトレイクスは安心したように鼻を鳴らし、近くの食べられそうな下草を食み始めた。
エフェスはアトレイクスの鞍に括り付けられた二つの鞍袋に、そっと手を触れる。
星剣オールエッシャーは、その素材も分からぬ美しい黒い金属の鞘に収められ、アトレイクスの動きを邪魔しないよう巧みに固定されていた。鞍袋の中には、母と祖父が最後に託してくれたいくつかの道具がずしりと入っていた。
革製の水筒。村の干し肉と黒パン。火を起こすための道具が入った火口箱。数個の綺麗な魔法石。そして薬草師エリヤが作ってくれた、緑色の塗り薬の入った小さな壺。その一つひとつに、今はもういない人々の温もりが残っているような気がした。
水筒の水を顔を洗うために使うのは躊躇われた。この先、いつ水場が見つかるとも限らない。
「どうせ汗もかくやろうし、よかか……。それよりも……まずはここがどこかやな」
昨日、燃え盛る故郷から無我夢中でラバを駆り立て、そしてどこかで力尽きて落馬してしまったのだろう。太陽の位置で方角を知ろうにも、幾重にも重なった木々の葉が空を覆い隠している。森の中は湿った空気と立ち込める霧で、視界も悪い。
森でのサバイバルには慣れているはずだった。しかし、今は全く勝手が違う。この森はあまりにも深く、そして静かすぎた。
「動くのも危険やけど、動かんば死ぬだけやね……」
エフェスはアトレイクスがもしゃもしゃと草を食む姿を、しばらくぼんやりと眺めていた。そして冷静に思考を整理する。
ガラーシャ村にはもう戻れない。
南にあるフィリピの街へ、タダイ叔父さんを訪ねなければならない。
叔父さんの家の場所は分からない。だが、フィリピには大きなトーダー教の聖堂がある。そこへ行けば、何かが分かるはずだ。
それが今の唯一の目的。
しかし、この森のどこにいるのか皆目見当がつかない。
それでも動かなければ、水も食料もやがては尽きる。
「……やるしかなかか」
覚悟を決め、革袋の水をごくりと一口飲む。残りをアトレイクスにも少しだけ飲ませてやった。そして手綱を強く握りしめる。
「とりあえず、川か小高い丘が見えればよかね。アトレイクス」
不安を紛らわすように相棒に声をかける。一人ではないという事実が、今は何よりも心強かった。アトレイクスに乗ってしまえば楽だろう。だが、この森を抜けるまで彼の体力がもつとは思えない。共に歩き、共に生き抜く。それが今の自分たちにできる唯一の選択だった。
◇
鬱蒼とした森の中を、エフェスはアトレイクスの手綱を引き、ひたすらに歩き続けた。
湿った腐葉土が足音を吸い込む。時折、頭上の枝から冷たい雫が首筋に落ちた。周囲には見たこともない巨大な羊歯植物や、蛇のように幹をくねらせた木々が、まるで行く手を阻むかのように立ち並んでいる。
(マイムハレムの森とは違う……もっと古くて、深い……)
彼は時折立ち止まり、狩人の目で周囲を観察した。幸い、ガラーシャ村の森でも見かけた食べられる木の実や、酸っぱいが喉の渇きを癒してくれる果実をいくつか見つけることができた。鞍袋から丈夫な布を取り出し、それらを大切に包む。
自分がどこから来たのか分からなくならないように、目印となる奇妙な形をした岩を見つけては、その手前の地面に木の枝で矢印を刻んだ。目立つ色の大きな葉っぱを見つけては、それを道しるべのように木の幹に突き刺しておく。僅かな木漏れ日を頼りに、できるだけ同じ方角へ進んでいるつもりだったが、確信はなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。
深い森と絶え間ない不安は、少年の時間感覚を簡単に狂わせる。三十分歩いたのか、二時間歩いたのか、もはや分からなかった。
時折、鳥が不意に羽ばたく音にビクッと肩を震わせ、心臓が早鐘のように鳴る。そのたびに足を止め、大きく深呼吸をした。いつもより気を張っているせいか、体力の消耗がひどく早い。
足が鉛のように重くなり始めた頃、空が僅かに茜色に染まり始めていることに気づいた。
「……そろそろ、休むか……」
草どまりの小屋を作れそうな開けた場所か、あるいは雨風をしのげる岩壁はないか。周囲を見回しながら最後の力を振り絞って歩を進める。
幸運にも、小さな岩壁がせり出し、僅かながら屋根のようになっている場所を見つけた。
「……よし、今日はここで泊まるか」
まず、火を起こさなければならない。鞍袋から火口箱を取り出し火打石を打つが、湿気を帯びた火口は中々火花を捉えてくれない。
「……本当に、おいに魔法が使えたらな……」
ぽつりと弱音がこぼれた。
もし今、指先一つで小さな火を灯せたなら。もし清らかな水を魔法で生み出せたなら。
もっと諦めずに魔法の練習をすればよかった。難しいからと勉強から逃げなければよかった。
後悔が冷たい波のように押し寄せてくる。
「こんな時に困らんように、色々勉強して知らんといかんとやね……。母ちゃんや爺ちゃんに勉強は大事かとぞって散々言われとったのに、今になって気づくとか、馬鹿やね、俺は……」
自嘲しながらも、彼は手を止めなかった。ショートソードを器用に使い、できるだけ乾燥していそうな枝の表面の皮を薄く、薄く削いでいく。鳥の巣のようにそれをふわりと丸め、辛抱強く火花を打ち続けた。
何度も、何度も失敗した後、ようやくか細い煙が立ち上り、小さな、頼りない炎が生まれた。
焚き火がぱちぱちと穏やかな音を立て始める頃には、あたりはすっかり夜の闇に包まれていた。
アトレイクスの鞍を外し、その背を布で拭ってやる。相棒も疲れていたのだろう。すぐに地面にごろりと横になった。
「アトレイクス。ありがとうね」
そう言って、昼間に見つけた果実をその口元へと運んでやった。
焚き火のオレンジ色の光を見つめながら、これからどうするべきか考える。しかし、答えはいつも同じだった。南へ、フィリピへ。ただ、それだけだ。
疲労が思考を鈍らせていく。何も考えたくなかった。
一昨日の家出にはまだ子供じみた冒険の楽しさがあった。だが、今のこの孤独はどうだ。ただ空っぽの虚無感だけが心を満たしていた。
何も考えていなかったはずなのに。
エフェスの瞳から、ぽろり、と一筋の涙がこぼれ落ちた。
それをきっかけに、堰を切ったように抑えていた感情が嗚咽となって溢れ出した。
「……母ちゃん……母ちゃん……っ!」
母に会いたい。
あの温かい腕にもう一度抱きしめてほしい。
しかし、その願いがもう二度と叶うことはないのだという絶対的な事実が、味わったことのない寂しさを胸の奥から込み上げさせた。
強がってはいたが、やはり十一歳の少年には、突然すぎる永遠の別れだった。
その時だった。
ガサッ、と背後の草むらが大きく揺れた。
エフェスははっと涙を拭い、臨戦態勢に入る。アトレイクスも危険を察知し、ビクッと身を起こした。
心臓が激しく脈打つ。
闇の中からぬっと現れたのは、三匹の黒い影。
月明かりに照らされたその姿は紛れもなく狼だった。その目は飢えた緑色の光を放ち、エフェスとアトレイクスを完全な「獲物」として捉えていた。
「ハっ……おい達が餌ってわけか。当然っちゃ当然か」
岩壁を背にするようにアトレイクスを追いやり、その前にエフェスはショートソードを構えて立ちはだかった。
見たことのない黒い狼だった。だが、狼は狼だ。
ゲデオンから口酸っぱく教え込まれた狼の対処法を思い出す。
(たしか、リーダーを先に倒すんやったっけ……?)
違う、と頭の中でゲデオンの、あの大きな声が響いた。
『違うばい。回り込まれん場所に位置する。相手の行動範囲を狭めてから各個撃破すっと。おまんの速さやったら、攻撃範囲に入ったら先手必勝たい!』
「……ありがとう、おっちゃん」
今はガラーシャ村で生きているか分からない師に、心の中で礼を言う。
エフェスは本気の戦闘態勢に入った。
『獣の機動(ビースト・ムーブ)』
まるで狼そのもののように重心を低く、低く保つ。そして三匹のうち最も手前にいる一匹を、その瞳で射抜くように凝視した。
その狼が、エフェスの常人ならざる気迫に一瞬戸惑いの色を見せた、その隙を彼は見逃さなかった。
『蜂針突き(スティンガー・スラスト)!』
言葉と動きは、ほぼ同時だった。
高速で踏み込み、ショートソードの切っ先が狼の喉元を正確に突き刺す。
残りの二匹が仲間をやられた怒りで、一気に左右から飛び掛かってきた。
しかし、エフェスにとってその動きはあまりにも遅く、そして単純に見えた。
『狼は腹が弱点やったね……!』
再びゲデオンの言葉が脳裏をよぎる。
右の狼の懐に滑り込むように潜り込み、得意のあの技を叩き込んだ。
『野獣二段切り(ビーストスラッシュ)!』
逆袈裟の一閃が狼の腹を深く切り裂く。返す刃で心臓へと渾身の突きを叩き込んだ。
最後の一匹が怯んだ。その一瞬の硬直。
それさえあれば、もう十分だった。
◇
狼たちの亡骸を野営地から引きずって遠ざけた後、ようやくエフェスとアトレイクスに本当の休息が訪れた。
「狼の肉はあまり食べん方が良いらしいけん……おいは食べんけど、アトレイクスも食べんもんね……」
「ぶるるるん……」
当然だ、とでも言うようなアトレイクスの反応に、エフェスはふっと笑った。今日、初めて心から笑えた気がした。
他に獣が寄り付かないように、焚き火をいくつか周りに作る。ここにはもうアルケテロス教の兵士はいないだろう。この炎は今の自分たちを守ってくれる唯一の目印だ。
少しだけ安心したエフェスに、今度こそ抗いがたいほどの疲労が襲いかかってきた。
彼はアトレイクスの温かい腹を枕に、ゆっくりと横になる。
もう寂しさを感じる余裕もなかった。
ただ、深く、深く、少年は眠りに落ちていった。
それは彼が、守られるだけの子供時代と完全に決別し、たった一人で森の夜を越えた、最初の夜だった。
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