エフェス編 第6話 静かなる会合
星霊暦五〇四年一月十三日、日曜日。
いつもと違い、その日のガラーシャ村の朝は静寂に包まれていた。鍛冶場から響くリズミカルな槌の音も、畑から聞こえる農夫たちの掛け声もない。週に一度、全ての労働を止め万物に感謝を捧げる、トーダー教の安息日だからだ。
やがて朝の八時を告げる鐘の音が澄んだ空気の中に響き渡ると、村の中心にある集会所から厳かな祈りの歌が聞こえてきた。村人たちが週に一度の儀式のために集まっているのだ。
集会所の中は老若男女、様々な種族の村人たちで埋め尽くされていた。誰もが清められた赤い衣服を身に纏い、目を閉じ、ヤコブ司祭の祈りの言葉に静かに耳を傾けている。数日前の新成人の誕生を祝った喜びに満ちた儀式とは違う。これは生活の一部として毎週繰り返される、穏やかで形式的な祈りの時間だ。
しかし、その静寂の中でそわそわと落ち着きなく身じろぎする一団がいた。マシューたち新成人の子供たちである。
「……おいモー。エフェスば見んかったか?」 大人たちに聞こえないよう、マシューが隣に座るモーにそっと囁いた。
「いや……昨日の剣の稽古の音は響いとったけど、遊びにも来んかったよね」
「たく……儀式にも来んとどこで道草食っとるとや……」
「あとでマリアさんに聞いてみようか」
「男子たち、儀式なんだから静かにして!」
マキリの小さな、しかし芯のある声が、三人のひそひそ話をぴしゃりと止めた。子供たちの声が少しだけ大きくなったのだろう。近くにいた大人がじろりと厳しい視線を彼らに向けた。四人は慌てて背筋を伸ばし、祈りの姿勢に戻った。
滞りなく儀式が進み、四十分ほどで安息日の祈りは終わった。しかし、その日の集会所はいつもとは少しだけ違う空気に包まれていた。村人たちが席を立とうとしたその時、ヤコブが村長のオルマと共に再び教壇の前に立ったのだ。
「皆の者、少しだけ待ってほしい。重要なお知らせがある」
ヤコブの静かだがよく通る声に、村人たちの間にかすかなどよめきが走る。
「本日、昼の十二時頃、この集会所にアルケテロス教の開拓軍の者が二人、会合のためにやって来る」
その言葉に、集会所の空気は一瞬で緊張に支配された。アルケテロス教。その名がこの村でこれほどはっきりと口にされたのは、何年ぶりのことだろうか。
「彼らの目的は、このマイムハレム周辺の鉱石や植物の調査であり、そのための通行許可を求めてのことだそうだ。我々は彼らを客人として迎え入れる。だが……」
ヤコブはそこで言葉を区切り、集う村人たちの顔を一人一人見渡した。
「心に留め置いてほしい。我らが祖先はかつて、彼らアルケテロス教によって故郷アシジを追われたという歴史を。数百年も前の話だ。彼らもルーアッハ教との長い戦争の中で、我らのような少数派のことなど忘れとるやもしれん。じゃが、我らにとって彼らは浅からぬ因縁のある相手じゃ。いらぬ疑いをかけられぬよう、イマ様たちの話は一切してはならん。もし何か聞かれても『知らぬ』とだけ答えなさい」
その言葉は穏やかだった。しかし、その奥には決して揺らぐことのない強い意志が宿っていた。
知らせが終わると、村人たちはそれぞれ隣の者と不安げに言葉を交わし始めた。その喧騒の中で、ひときわ大きな怒りの声が響いた。
「たく、日曜の儀式にも来んでエフェスはどこで道草食っとるんだい!」
声の主はマリアだった。彼女は仁王立ちになり、腰に手を当ててぷるぷると肩を震わせている。その隣でゲデオンがばつが悪そうに頭を掻いた。
「おいが昨日エフェスにはよ帰れと言うたばってん……あれから本当に帰って来とらんとや?」
「ゲデオン、うちのエフェスがすまないね。私のせいでもある。本当に申し訳ない」
「いや、マリアさんが謝ることでもなか。それよか……昨日エフェスがあのアルケテロスの眼鏡のヤツと話しとったが……あいつが何か知っとるかもしれんぞ」
「本当かい!?」
マリアの目がカッと見開かれる。彼女が関所へと駆け出そうとしたその時だった。
「待ってくださいマリアさん。あなたが行くのは危険です」 冷静な声でそれを制したのはレラメッドだった。
「あなたのその美しい銀の髪と気高い佇まいは、竜民族の血を引くルーアッハ教徒であることを隠しきれない。下手に接触すれば相手に余計な疑いを与えるだけです。ここは俺が行きましょう」
「……なるほどね、私が美人だから目立つってことかい?」
マリアの唐突な問いに、レラメッドは一瞬言葉を詰まらせた後、真面目な顔で、しかし楽しそうに答えた。
「否定はしませんよ。あのミシュマエル隊長が見初めたお方ですから」
「……ふふっ。今度家に来たらご馳走しなきゃだね!」
「ごちになりまーす!」
「がはははは!」
ゲデオンの豪快な笑い声が、三人の間の緊張をふっと解きほぐした。子供への心配も世界の脅威も、彼らの手にかかればどこか日常の延長線上にある笑い話になる。
しかし、その笑みが消えると三人の表情は再び戦士のそれに戻っていた。
「……しかし、とうとうアルケテロス教の奴らが来たね。開拓軍とはいえ油断はならんね」
「ええ。いつでも戦えるように武器の準備だけはしておいた方がいいでしょう」
「弓ならいつでも放てるようにしとくばい」
戦に慣れた三人の好戦的な会話。それを聞いていたヤコブが、静かに、しかし諭すように言った。
「準備をするのはよか。じゃが、戦う気満々で相手を刺激するでないぞ。我らの目的は戦うことではない。この村を『何もない素朴な村』だと思わせ、一刻も早くここから立ち去ってもらうことじゃ」
「……ですよねー」
「かしこまりました」
「がはははは! そもそも俺は関所で残りの奴らの見張り番だったばい!」
儀式の後の短い情報交換が終わると、大人たちはそれぞれの持ち場へと散っていった。マシューたちが心配そうにマリアにエフェスのことを尋ねたが、彼女もまた「ごめんね、母ちゃんもどこにいるか分からんとよ」と力なく微笑むことしかできなかった。
◇
正午を少し過ぎた頃、村の南の関所から二人の人影がゲデオンの案内でゆっくりと集会所へと向かってくるのが見えた。
一人は昨日エフェスが出会った「眼鏡の男」メハンデスだった。彼は道すがら物珍しそうに村の隅々まで視線を巡らせていた。その表情は、まるで初めて見る美しい風景に感動する純粋な旅人のようだった。
「いやはや……素晴らしい場所だ。見てくださいラグザニート少佐。あの川岸、わずかに青い輝きを放つ砂礫が見えます。この地の水流と岩盤の構成から察するに、おそらく希少な水の魔法石の鉱脈が眠っている可能性が高いでしょう。この豊かな水と高山とは思えぬほど温暖な気候。そして、魔物の気配も全くない。まさしく楽園そのものですな」
しかし、メハンデスの隣を歩くもう一人の男は、その言葉に何の興味も示さなかった。
ラグザニート。それが男の名だった。 身長はゲデオンと同じくらいか、それ以上に高い。猿の亜人種特有の筋骨隆々とした体躯は、まるで鋼の塊のようだ。短く刈り込んだ栗茶色の髪の下で、獲物を見据えるような冷たい金色の瞳がぎらりと光っている。彼が纏う黒い軍服は、機能性だけを追求したアルケテロス教圏の最新式のものだった。その全身から放たれる圧倒的な威圧感と、一切の情を持たない冷徹なオーラは、この平和な村にはあまりにも不釣り合いだった。
集会所までの道中、すれ違う村人たちはヤコブの言いつけ通り静かに会釈をした。しかし、その目に宿る光は明らかに、よそ者を警戒する冷たい色をしていた。メハンデスはそんな村人たちの視線をどこ吹く風といった様子で、にこやかに受け流している。一方のラグザニートは、村人たちをまるで道端の石ころでも見るかのように、一切意に介していない。
やがて二人は集会所にたどり着いた。 中には村長であるオルマ、司祭のヤコブ、そして護衛役としてレラメッドとモーの父であるベンが静かに座っていた。野次馬の姿はどこにもない。
「……ようこそおいでくださいました。私がこの村の長を務めております、オルマと申します」
オルマの穏やかで、しかし威厳のある挨拶で会合は始まった。部屋の隅では村の娘たちが、人数分の木の杯と冷たい飲み物が入った水差しを静かにテーブルに並べている。
「これはご丁寧にどうも。私はアルケテロス教開拓軍にて特別顧問を務めております、メハンデスと申します。こちらは部隊長のラグザニート・ハグナー少佐」
メハンデスの紹介を受け、ラグザニートは椅子に座ったまま尊大にこくりと顎を動かしただけだった。その無礼な態度に、レラメッドの眉がわずかにぴくりと動く。
「して、メハンデス殿。本日のご用件とは?」 ヤコブが単刀直入に切り出した。その声はあくまでも穏やかだった。
「はい。我々開拓軍は、このハールコテルゲドラー山脈一帯の資源調査を行っておりまして。つきましては、この先の未踏地域へ進むための通行の許可と、しばしの間の滞在の許可を皆様にお願いしたく、参上した次第です」
その言葉に、ヤコブはゆっくりと首を横に振った。
「お話は分かりました。しかしそれはできかねます」
「……ほう。と申しますと?」
「我々マイムハレムの民は、古くからの掟に従いよそ者との過度な関わりを好まんのです。この村も見ての通り千人にも満たない小さな村。これ以上多くの方々を受け入れる余裕はございません」
その丁寧だが一切の妥協を許さない拒絶の言葉に、メハンデスの後ろに控えていたラグザニートの金色の瞳がわずかに細められた。彼の指がテーブルの上で苛立たしげにコツ、コツと音を立て始める。
「ですが我々は、決して皆様にご迷惑をおかけするつもりは毛頭ありません。ただこの先の未踏の地を調査したいだけなのです。もちろん調査で得られた利益の一部は村へ還元することもお約束いたします」
「お気持ちはありがたい。じゃが、我らがこの地で静かに暮らしていけること。それこそが我らにとっての最大の『利益』なのです。調査であればどうぞご自由に。ただしそれは、あの関所の南側の土地だけに限らせていただきます。この村より先へ進むことは何人たりとも許されません」
ヤコブの言葉はもはや交渉ではなかった。それはこの村の揺るぎない「法」の宣言だった。 その一切の妥協を許さない態度が、ラグザニートの堪忍袋の緒を静かに、しかし確実にすり減らしていくのを、レラメッドは肌で感じていた。
長い沈黙が落ちた。 それを破ったのは、意外にもメハンデスの方だった。
「……分かりました。郷に入っては郷に従えと申します。今回はご無理を言うのはやめておきましょう」
彼は穏やかにそう言うと、あっさりと引き下がった。そのあまりに物分かりの良い態度に、オルマたちは少しだけ拍子抜けする。
「ご理解、感謝いたします」
「いえいえ。ただ一つよろしいかな。交渉の間ずっと気になっていたのですが……」
メハンデスはそう言うと、会合の前に友好の証として出されていた手つかずの飲み物の杯を手に取った。
「この素晴らしい香りの飲み物は一体?」
彼は一口、その液体を口に含んだ。 そしてその目をわずかに見開いた。
「……これは美味しい。驚きました。辺境の村とは思えぬほど洗練された味わいだ。一体何で作られているのですかな?」
その素直な賞賛の言葉に、ヤコブは静かに答えた。
「特別なものではありません。この山の雪解け水に、村で採れた葡萄の果汁と数種類のハーブを加えただけのものです」
「……ただそれだけでこの味が? いやはや世界は広いものですな」
メハンデスはそう言うと、残りの清涼水を実に美味そうに飲み干した。
「本日はありがとうございました。またいずれお会いすることもあるでしょう」
メハンデスとラグザニートはそれだけを言うと、静かに集会所を後にした。
表向きには穏便に終了した会合。安堵のため息をつくオルマとベンに対し、レラメメッドだけが厳しい表情でヤコブに警告した。
「ヤコブ様。あのラグザニートという男……決してこのまま引き下がるような輩ではありませんぞ」
「……分かっておる」
「奴は会合の間一度も口を開きませんでした。しかし、その目は……その目は終始我々をまるでゴミクズでも見るかのように見下しておりました。いや、あのメハンデスという男にさえどこか侮蔑の視線を向けていた。奴は交渉など最初からする気はなかったのです」
レラメッドの言葉が、集会所のわずかに緩んだ空気を再び氷のように凍てつかせた。
「……村の者たちに伝えよ。今夜は決して気を抜くなと」
ヤコブの重い言葉が、静かに響き渡った。 平和な村に初めて、不穏な、そして確かな破滅の影がまとわりついた瞬間だった。
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