彼女が囚われの魔物を迎えに行くまでの千年とちょっとの紆余曲折

ふとんねこ

第一夜.黒髪の王女 前編


 鎖の音が聞こえる。金属同士が縛められて擦れ合い、軋る、悲痛な音色だ。

 こんな暗澹たる悪夢を見るのは“初めて”のはずなのに、鉄格子の奥の暗闇、窺うことのできないそこに鎖で縛られた何かがいることを彼女は“知っていた”。

 とっぷりと塗り込めたような闇から、白い手がこちらに縋るように伸びてくる。


 微かに震えるその手の主が、ずっとずっと自分を求めていることを、こんな牢獄なんて知らないはずの彼女は、やはり何故か“知っていた”。




――――――




 ぎし、と自分以外の体重でベッドが軋みを上げたのに気付いて彼女はふっと覚醒した。うっすらと青みを帯びた暗闇、まだ、真夜中の色彩だ。

 誰、と誰何すいかしようと開かれた唇を暗がりから伸びてきた冷たい手がそっと塞ぐ。アンティーク硝子の細工物を扱うかのような優しさ、しかし有無を言わせぬ手付きだった。


「――怖がらないで、君を傷つける気はないよ」


 随分と柔らかな、男の声だった。無害な生き物を装う、夜の魔物の声だった。どうやら自分は魔物に馬乗りになられているらしい。そう認識した彼女は、自身の命の危機に気づいて蒼褪める――こともなく、自分の口を塞ぐ手に触れてみた。


 やはり冷たい。生きているものとは思えない温度。陶器のように滑らかでいて、その下に生物らしい骨や血管の身じろぎを感じられる。不思議だ。


 魔物は、触れられて動揺したようだった。暗闇そのもののようだった気配がほんの少しだけ揺らぐ。しかし彼女はそのまま魔物の手を撫で続けた。長く、関節が分かりやすい男の指、筋張った手の甲、手首の出っ張った骨の丸み……ゆっくりと肌の上を指先でなぞり、相手の輪郭を確かめる。指先から遡っていくと、やがて服の袖口に突き当たる。この距離でも顔が見えないので、指で辿ってその形を確かめようという算段であった。そのまま今度は服の上を、と手を這わせたところで魔物が音を上げた。


「待ってくれ、頼むから。っ、まったくどうして君というひとは……はぁ、まあいいか、君が怯えずにいてくれるのは僕としても都合がいいし……」


 その口ぶりに、彼女は胸の内ではてと首を傾げた。まるで私を知っているかのような言い方をするじゃあないか。だがしかし、不思議なことに彼女も、何故かこの魔物を知っているような心地がしていた。


 口を塞がれたままで何も出来ないので、せめてこれを離してもらおうと彼女は魔物の手をつついたが、魔物は暗闇を纏ったまま「駄目、静かにしていて」と囁くばかり。騒ぐ気など無いのに、と小さな苛立ちを覚えた彼女は反撃の意を込めてその冷たい掌に、ちゅ、とバードキスをお見舞いする。


 唇が触れた掌から、相手の全身がビシビシッと勢いよく凍りついたのが伝わってきた。その感触で彼女は魔物の両膝が自分の腰を挟んでいることが分かったし、相手が大体人間と同じ形をしているのだろうと判断することができた。それから、案外うぶなのね、とも。


 凄まじい動揺の結果だろうか、魔物が己の姿を隠していた不自然な暗闇が晴れる。窓から差し込む蒼白い月光が戻ってきて、彼女の上に乗り上げた魔物の顔を照らし出す。


 彼女は今宵の銀月顔負けの美貌にきょとんとした表情を浮かべ、青玉サファイアの様な眼をはたはたと瞬いた。


「――ふふ、可愛いひとね」

「っ、この……!」


 魔物は美しかった。ビスクドールの白皙、黒の短髪というモノトーンの中に、熟れた柘榴の双眸が鮮烈な唯一の色彩を添えている――が今はその白い頬も夜の暗さでは誤魔化せないほど赤らんでいた。


 愉しげな彼女の声に、美男の姿をした魔物は怒りを露にして見せたが、朱が差した顔のままでは恐れなど抱けようもない。すぐに彼女から目をそらし、前髪をぐしゃりと掻き混ぜて溜め息を一つ。


「聞いていた通りだ……!」

「ねぇ、あなたは一体だぁれ? 私、あなたを知っているような気がするの」

「何で君はそんなに勝手なんだ?! この状況に何の危機感も覚えないのか?!」

「変なことを言うのね。私を害する気もないくせに」

「っ、それは……!」

「ねぇ、答えて頂戴。あなたは誰?」


 有無を言わせぬ青玉サファイアは、なるほど今回・・の彼女の血統に相応しい支配者の風格をもって彼を絡め取る。まあ、どんなふうに生まれついても彼女はいつもこうなのだけれど。


「……君を、探しに来たんだ」

「何故?」

「……そういうものだから」

「そういうもの?」

「うん」

「ふぅん……」


 柘榴の色をした瞳がきょろ……きょろ……と落ち着かない幼児のような様子で泳ぐ。生まれてこの方、他者とこんな距離で接したことのなかった彼女は好奇心が促すままに魔物の青褪めた頬をするりと指の背で撫でた。


「?!」

「ふふふ、やっぱり可愛いこと」

「な、なにを……!」

「この鐵塔くろがねとうに騒ぎも起こさず入ってこられるのだもの、人ではないのでしょう?」

「……」

「沈黙は何よりの肯定ね」

「……ここは、一体何なんだ?」


 魔物はそんなことを問いながら、ゆっくりと身を起こして彼女の上からどいた。黒い上着に包まれた背を彼女に向けてベッドの端に座る。何だか途方に暮れたような、疲れてしまったかのような、哀愁漂う背中だった。釣られるように上体を起こした彼女は、その背中をまじまじと眺める。


「入ってきたなら分かるでしょう? 夜も眠らぬ牢番に、はめ殺しの窓。何重にも鍵をかけられた螺旋階段の一番上に、この部屋がある。鐵塔は王家の罪人を閉じ込めておくための幽閉塔よ」


 何てことないようにそう答えた彼女を、魔物は戸惑いの目で振り返った。柘榴の瞳が信じ難いと言いたげな困惑を乗せている。彼のそんな視線を受け止めて、その隣まで移動して腰を並べた彼女は小さく笑った。


「ふふ、あなたは他所の国から来た魔の物なのかしら? 私を知っているようだからこの国の影なのかとばかり……」

「……君は、罪を犯すような人ではないだろう」

「教えて差し上げるわ。この国ではね、黒髪の王族は災厄を招くと言い伝えられているの」


 だからよ、と彼女は白いネグリジェの肩に掛かる黒檀の長髪をちょいと摘まんで微笑んだ。


「それでも生かされているのは私が現王の長子で、弟も妹も皆まだ成人していないし、何人かは病気がちだから。血が絶える可能性よりも災厄の方がましと言うことね」

「それは、つまり……」

「ええ、期限付きの命よ。でも構わないわ。尊重されない王室は長続きしない。それで王家が倒れたら、苦しむのは無辜の民ですもの。仕方のないことだわ」


 その微笑みに、薄霧のように纏わりつく諦念を見透かして、魔物は端正な顔を沸き上がる怒りに歪めた。立ち上がって、彼女に向き直る。


「僕と来て、こんなところ出てしまおう」

「駄目よ」

「っ、何故!」

「私の命には存在意義があるのだもの。王家に生まれた者の義務で、宿命よ」

「投げ出してしまえばいい!!」

「できないわ。私にも、それなりに責任感があるのよ」

「っ、なら……!」


 魔物の両手が彼女の細い肩を掴んだ。怒りに燃えて血のように艶めく柘榴の双眸が、どこまでも凪いだ青玉サファイアと真っ向から視線をぶつけ……ふっと、力を無くして哀しげにそらされる。

 その場に崩れ落ちるように膝を屈する動作に釣られて肩から滑り落ちた彼の手が、彼女の華奢な両手を緩く握った。殉教者のような俯き方であった。


「……どうして、君は、いつもそうなんだ」

「ふふ、初対面なのに不思議なことを言うのね」

「どんなときも僕に拐われてくれない。何があったってその瞬間の責務を果たそうとする」

「……」


 彼女は、不思議なものを見るような、どこか仕方のない子を見るような、そんな複雑で穏やかな目をして彼を見下ろした。


「あなたは私でない私を知っているのね。ならば、私なりにその問いに答えるとしたら答えは一つだわ」

「……なに」

「『私は、どんなに惨くとも、どんなに拒まれていようとも、己の居場所を愛している』」


 彼はハッとして彼女を見上げた。薄ぼんやりと共有されている記憶の断片が割れた薄氷うすらいの如く重なるような錯覚。今のそれと一言一句同じことを二つ前・・・の彼に告げたのはいくつ前・・・・の“彼女”だっただろう。


「……だから、僕はずっと“君”が好きだし、僕たちは何度でも“君”を好きになってしまうんだ」


 思わず、そんな本心が漏れた彼の頬を、彼女の小さな両手がふわりと包む。


「それで、私を探しに来るの?」

「……うん」

「……ふふ、そう。そうなのね」


 魔物が見上げた彼女は何だかとても嬉しそうな顔をしていた。諦念の奥に控えていた人恋しさが顔を覗かせている。これは駄目だ、と彼は眉根を寄せた。いつも彼は、彼女のこんな表情に絡め取られて本分を忘れてしまうのだ。


「ねぇ、ならば私の死ぬ日までここにいて頂戴な」


 そしてほら、彼女はどこまでも残酷に彼の偽物の魂を掴んでしまう。


「私の死んだ後は好きになさい。死体を喰らっても構わないし、魂を捕まえたっていいわ」


 その、いっそ無邪気とすら言える悪魔のような提案を、彼は「それじゃ駄目なんだ」と拒むことのできないまま、彼女の手に頬をすり寄せて小さく頷いたのだった。

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