第179話 レミリス、逃亡する

 勇者のひとり、桐生智樹の身体が糸に絡め取られて動きを封じられる。カズトのスパイダーの糸を引きちぎるには時間がかかるはず……その隙をに逃げるしかない。


「レミリス、奈々さん、今のうちに」


 逃げようとしたが、すぐに耳に飛び込んできたのは、遠くから近づく鎧の軋みと重い足音。あの響きは間違いない、人間の騎士団だ。


「……っ」


 思わず息を呑む。背筋を刺すような魔力の気配も感じる。他の勇者の残が追ってきているのだろう。カズトも気配を察知したらしい。私は小さく呟く。


「騎士団が追ってきているんだ……それに、他の勇者もいるかもしれない。強い力を感じる」


 奈々が青ざめ、カズトが周囲を警戒して身構える。囚われた勇者はなおも動けずにいるが、時間の問題だ。全員がここで捕まればそれで終わり。奈々がどれほど私たちを理解してくれても、人間の組織は容赦なく私たちを裁くだろう。

 私は一歩、2人に近づき、意を決して言った。


「ここで全員捕まれば、それで終わりだ。奈々がどう思ってくれても、人間達は私たちを許さない。先ほどの勇者の態度でもわかったはずだ」


「……じゃあ、どうする」


 カズトの声が低く響く。

 答えはひとつしかない。


「別々に逃げるぞ」


 私が言葉にしたその瞬間、奈々の瞳が驚きに揺れ、カズトも息を呑んだ。


「カズト。お前は奈々を連れて村へ向かえ。私は別ルートを取る。追跡を分散させる」


「でも、それじゃレミリスが……!」


 カズトの懸念はわかる。だが私は迷わず言葉を重ねた。


「私はこれでも戦いに身をおいてきたのだ。カズトや奈々より逃げながらの戦い方も心得ている。最終手段として、認識阻害の指輪を使えばなんとでもなるだろう。むしろ、全員で移動する方が危険だ」


 カズトは拳を握り、やがて静かに頷いた。


「……わかった。村で落ち合おう」


「ああ、必ず」


 そう答えると同時に、私はフードを深くかぶり直した。気配を極限まで薄め、影と一体になるように身を沈める。魔族である私に目をむけさせるため、あえて認識阻害の指輪は使わずに逃げる。指輪を握る手に力が入る。

 奈々の瞳が心配そうに揺れていたが、迷っている時間はない。

 私は振り返らず、闇の中へと駆け出した。



​ 私は闇の中を駆けながら、胸の奥に鋭い痛みを抱えていた。

 わかっていた。初めからこうなる可能性を。

 作戦を立てたあの夜、カズトが円卓に紙を広げて語った姿を思い出す。

 勇者と接触した後の展開は、大きく4つに分けられる――そう言って、彼は淡々と可能性を示した。

 1つ目。説得に成功し、全員で無事にカルカッソへ戻れる。理想的で、誰もが願う結末。

 2つ目。説得は失敗しても、情報を持ち帰り、次につなげる。最悪ではないが、痛手は大きい。

 3つ目。説得に成功するが、彼自身が戻れない場合。命を賭けて勇者を連れ帰る、最も苦い成功の形。

 4つ目。説得も失敗し、誰も戻れない……完全な失敗。


 私はその時から理解していた。自分の役割は、この3つ目と4つ目の境界を切り離すこと。

 つまり、最悪でもカズトと勇者を逃がすために、私が囮になること。

 カズトは無意識に軽く言ったのかもしれない。だが、私は耳に焼き付けていた。

 ――もしもの時は、誰かが残らなければならない。

 そして今、その「もしも」が現実になった。


 重く迫る鎧の音。勇者の気配。すでに全員での逃走は不可能。ならば、最善の選択をするしかない。

 私が残り、追跡を引き受ける。その間に、カズトが奈々仲間のもとへ導く。

 胸に広がるのは恐怖か?いや、それ以上に、責務だ。

 勇者・白石奈々は、この戦いの鍵となる存在。彼女が人間と魔族の架け橋となれるかどうか……それにすべてがかかっている。

 カズトはあんな性格だ、こんな状況になれば自分が真っ先に犠牲になろうとする。

 だが、それでは作戦は失敗に終わる。

 異世界から来た奈々の説得には、カズトの存在が必要不可欠なのだ。

 ならば、私が彼らの盾になる以外の選択肢はない。

 魔族と人間が傷つかずに済む未来のためなら、私は喜んで見を捧げよう。

 騎士団を引きつける。勇者を足止めする。自分の存在すべてを賭けて。

 これが、私に与えられた役割。

 あとは、カズトを信じるだけだ。



 石壁の影に身を潜めると、胸の奥で脈打つ鼓動が耳を塞ぐほど大きく響く。

 ――近い。

 重い足音と鎧の擦れる音。騎士団が迫っている。魔力のうねりも感じる……勇者だ。

 さきほどの戦いで見た桐生 智樹の力を思い出す。真正面からぶつかれば命はない。だが、馬鹿正直に真正面からぶつかる必要などない。

 私の役目は、ただ彼らの視線をこちらへ釘付けにして、2人の逃げる時間を稼ぐこと。勇者を倒す必要はない。

 カズトたちはこの近くの墓地から森へ脱出するはずだ。私は街の入り口の方へ逃げ、カズトたちから目を逸らさなくてはいけない。

 石畳に足をかけ、崩れた尖塔の影から身を乗り出す。

 ……恐れるな。最初から想定していたことだ。ここで怯んだら、全てが無駄になる。

 私はフードを深くかぶり直し、意識的に気配を漏らした。

 騎士たちが一斉にざわめき、魔力が鋭く私に向けられるのを感じる。


「――そこか!」


 声が飛ぶ。光の魔法が弧を描き、私の足元の瓦礫を弾き飛ばす。

 砂塵が舞い、視界が白く霞む。

 私はその隙に影へと飛び込み、反対側の建物の影へ駆けた。


「いたぞ! あいつだ!」


 目の前に広がる視線。鎧に身を包んだ騎士たちの刃先が、一斉にこちらへと突きつけられる。

 その後ろには糸に捕らわれたままの桐生 智樹。彼は憎悪の目をこちらに向け、必死に仲間へ叫んでいた。


「魔族だ!奈々を連れ去った連中の仲間だ!捕まえろ!」


 空気が震える。彼らの敵意と魔力の圧力が、教会を覆い尽くした。

 よし、私に気づいて追ってきた。それでいい。カズトを追わせない!

 私は南の方へ向かって走る。

 人気のない建物の間を縫って、暗闇の奥へ。

 背後に強烈な魔力の波が迫る。勇者が動いたのだ。

 私は振り返らずに駆け出した。


 崩れ落ちた壁を蹴り上げ、瓦礫の上を飛び越える。靴底が石を砕き、砂煙が舞い上がる。


「逃がすな!」


 光の矢が雨のように放たれ、背中をかすめて石壁に突き刺さる。爆ぜる衝撃で背筋に熱が走った。

 速い。勇者たちの攻撃速度は常識を超えている。

 これが勇者の力。必死で走る。

 ふと、騎士たちの攻撃が遠のいた気配がした。

 うまく逃げられたのだろうか?建物の影に入って認識阻害の指輪で姿を変えなくては……。

 その瞬間。


「逃がすかよ、魔族」


 背筋が凍るほどに冷たい声と共に、視界の前に、漆黒の刃が閃いた。

 神崎――剣士の勇者。その気配が目の前を塞いだ。

 私は咄嗟に身を翻し、影から糸を放つ。鋭い線が空を裂き、彼の動きを縛ろうとする。

 だが、神崎は一歩も退かなかった。刃が一閃し、私の糸は紙切れのように断ち切られる。

 魔族の方が身体能力が高いはずだが、神崎に一方的に押されている。これが勇者の力……あまりにも速く、強く、執拗だ。


「……っ!」


 腕に痺れる衝撃。彼の剣気はあまりにも重い。

 

 さらに、踏み込んでくる速さ。反応する前に背後を取られる。

 私は必死に体を回転させ、短剣で受け流した。火花が散り、腕が痺れ、膝が沈む。

 強すぎる――一撃ごとに、命が削り取られる。

 ジリジリと後退を繰り返すうちに、開けた場所へ出た。昼間、勇者たちのお披露目のために集まった広場だ。

 気づけば騒動に気づいた街の人たちと、彼らを守る騎士たちに囲まれている。

 誘い込まれてしまったのか。息が荒れ、喉が焼けるように乾いた。

 剣を構えるものの、退路はどこにもない。

 神崎は容赦なく迫る。殺気が突き刺さり、剣が首筋を撫でるように走る。


 ここまで、か……。


 攻撃を防ぐので精一杯。逃げる暇などない。勇者はあまりにも速く、強く、執拗だ。

 足がもつれ、もはや、これ以上は逃げ切れない――そう悟った瞬間だった。


 ガキィィンッ!


 耳をつんざく金属音が響いた。

 私に振り下ろされるはずだった神崎の剣が、別の刃に受け止められていた。


「……っ!?」


 目の前で火花が散り、圧力が一瞬だけ緩む。

 誰かが、止めに入った?


 神崎の顔に苛立ちが浮かぶ。怒りのまま振り抜かれた剣を真正面から止められたことが信じられない、とでも言うように。


 私は呆然としながら、その背を見つめる。

 人混みの中から飛び込び出してたその人物は、フードの陰に隠れ、私の視界にははっきり映らない。

 だが確かに、その存在が神崎の猛攻を止めていた。


 ……誰?なぜ、私を助ける?


 答えを探す間もなく、再び火花が散り、剣戟の音が夜気を震わせる。

 私はただ、その背に守られたまま息を呑んでいた。

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