ティムール
ひとしずくの鯨
第1話
ティムールは、後にサーヒブ・キラーンとのみやびな称号を有する。その意味するところは、金星と木星の重なりという吉兆のしるし。この時代、星空は天意――神意を示すものと考えられていた。
ティムールはキシュにてヒジュラ歴736年シャーバーン月の25日の火曜日の夜(西暦1336年4月8日)に生まれた。それほど高貴な出自ではない。ただ、武家の生まれでもあれば、やはりこの者も憧れを抱いておった。チンギス・カンという英雄に対して。200年ほど前に大帝国の礎を築いたその人に。
(注1:キシュ。別名シャフリ・サブズ。緑の町の意味。その名の如く、地理書Hudud al-Alamによれば、暑く雨が多いとされる(あくまで乾燥地基準でということだろう。また、これらの地域は、ほぼ夏に雨が降らない)。ゆえに牧馬に最適とは言えない。それでも、拠点とするは、ここが北のサマルカンドと南のバルフ(やガズナ、更にはその向こうのインド)を結ぶ交易・軍事上の重要なルートゆえである。日本にては、ソグドの史国と言った方が通りがいいかもしれない)
その憧れの存在は、遠く伝説になったという訳ではなかった。未だこの地の主(あるじ)は、その第2子チャアダイの子孫であった。
(注2:一般にはチャガタイと記されるが、モンゴル史料たる『秘史』では一貫してチャアダイであり、人名はこちらを採用する。色白の子につけられるチャガタイ(チャガンで白の意味)という名が、なまったものと想う)
ティムール自身は、その家臣たるバイラス勢の中で育った。その正嫡をなす血統は、カラチャル・ノヤンにまでさかのぼりうる。彼は、チンギスがチャアダイに授けた4人の武将(千人隊長)の中の一人である。
このキシュという町は、代々、バイラス家の所領となっており、このときの領主もカラチャルの子孫たるアミール・ハーッジーであった。ちなみに、ハーッジーとはメッカ巡礼(ハッジ)をなした者に対する尊称である。
ところで、ティムールが飛躍するきっかけ――そこにはやはりチャアダイ家の動きが深く関わる。このときのチャガタイ・カン国は東西に分裂しており、バイラス勢は西側に属しておった。そこに東のトゥグルグ・ティムール・カンが遠征して来た。領主のアミール・ハーッジーは恐れのあまり、逃げ出した。ティムールは、アム・ダリヤ渡河まではつきそい、そこから急ぎ戻ると、侵攻して来た前衛軍が略奪しないよう説得することに成功する。
史料はこのように伝えるが、実際のところの前衛軍の役割は、戦端を開くことではない。チンギスの時と同様、率先臣従を求め、略奪をなさない代わりに、金品や糧食の提供を求めたのであろうし、ティムールはそれに応じたのであろう。
そこでティムールは、カンに謁見し、臣従を誓い、その見返りとして、キシュの領主に任じられた。これも当地では広くなされたことである。
ただ、ティムールはその地位に安住することはなかった。西チャガタイ・カン国には、別のカンがおったのだが、その権威は失墜、家臣たちにまつりあげられるだけの名目的な存在と化しておった。同時に、国は衰退・分裂の途上にあった。東のトゥグルグ・カンの狙いは明らかに東西を統一することにあった。ティムールは、その下で安楽に生きるより、自らが覇権を握る方が望ましいと考えたのである。
そのあとは東奔西走、身は常に戦場にある、という状況となった。その過程でチンギス一族の女性を妻とし、キュレゲン(注3)の称号を得、自らの支配者としての権威を確立する。
(注3これは、モンゴル史料ではグレゲンとも呼ばれ、チンギス一族のお婿さんの意味。代々に渡って互いに通婚し、姻族をなす場合も多い。つまり、チンギス家は、姻族の女性を后妃とする)
ところで、チンギス一族でなかったゆえに、ティムールはカンを称しなかったことが知られている。これは、東方、つまりモンゴル高原でも同様であり、やはりチンギス一族と通婚し、ときには高原で最も強勢となったオイラトの支配者もカンを称しなかった。明らかにある時点でチンギス一族により禁じられていたのである。チンギス一族の男子と権勢を争って戦をなし、その女子をめとり、その定めた戒律を守る。それがティムールの生きる世界であった。
その戦にてティムールはほぼほぼ負けることがなかった。イル・カン国は既に滅んでおるが、ジョチ家のキプチャク・カン国、そして東チャガタイ・カン国は残っており、そして彼らに勝つのであるから、なるほど、強い。
先にも少し触れたが、牧馬という点ではより冷涼な地域にある両国に比べて不利でさえある。その強さの理由を考えてみても、あまりはっきりとした理由は分からない。自らも含め、いずれもチンギスのモンゴル帝国を源とするのだから、その武具や騎馬中心の戦い方にそれほど違いがあるとは想えない。
結局のところ、ティムールの軍事指揮官としての類い希なる才能――その軍造りも含めて――というところに帰着せざるを得ない。恐らくチンギスと同様武将たちに忠誠を求め、それを得ることに成功したのだろう。裏切りは敗北――下手すると自らの死――に直結するのであるから、この信頼関係は特に重要である。また、ティムールは武将や息子任せにせず、自ら遠征軍を率いることが多く、この点では戦のやり方にも、傑出するところがあったと見るべきであろう。
勝ち進み、その支配地が広大になるに連れ、ティムールはチンギスに近付き得たと実感したであろうか? ただ、その憧れは一つの妄執ともいえるものにたどりつく。東征である。その目的は、明朝とも北元(明に追われ北遷した元朝をこう呼ぶ)ともいわれる。
200年前、チンギスがこの地に至り、ホラズムを滅ぼしたことは、その大帝国の礎となった。ならば、己もまた、ということであろうか? ティムールは大軍を率いて北上し、その北の玄関口ともいえるオトラル(シル・ダリヤ沿い)に至る。
その行軍中に凍傷で手足の指を失う者が多数出るなど、寒さに慣れぬ軍勢ゆえの脆さが見られる。着いたら着いたで、豪雪のためにこれ以上進めないとの報告がもたらされる。進むことが叶わぬ中、ティムールはワインの海に溺れる。
ところで、チンギスの帰還時もやはり冬にこの地を行軍している。西暦1223年の1月26日にシル・ダリヤを渡河。ただ、その3日前に積雪・低温のため牛馬の多数死ぬなどの犠牲は出ている。
冬に行軍することのメリットもある。家畜が積雪から水を得られるため、川の無い地でも行軍可能なこと。また、大河も凍るため、行軍の障害とはならないこと。なので、ティムールがこの時期に進軍を試みたことを、誤りであると即断はできない。ただ、その故郷にて極寒の冬に慣れたモンゴル軍と、それよりずっと暖かい冬しか知らぬティムール軍の違いを考慮しなければ、となろうか。
ところで、オトラルは因縁の町である。ここでチンギスの隊商が虐殺されたことが、ホラズムとの戦争の原因である。
そして、想わぬことがティムールの身を襲う。自らの死である。ヒジュラ歴807年シャーバーン月17日水曜の夜のことであった。(西暦1405年2月18日)
果たして、この地で殺された隊商たちの呪いということはあろうか?
あるいは、その妄執に付き合いきれぬと考えた誰かの仕業か?
あるいは、ティムール自身、死期を予感するゆえにこそ、東征などという大それたことに身を投じたか?
その答えを求めて、もう少しばかり、その足跡をたどるとしよう。
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