こちらも拝読失礼します。
確かに、「硬い」という文字をゼリーで作られていたら、一瞬脳が「あれっ?」と思ってしまいそうです。文字って、面白いですよね。
同じ意味でも、平仮名で書くのとかんじで書くのではまた雰囲気も変わりますしね。
またゆっくり読ませていただきますね☺️
作者からの返信
いつもコメントありがとうございます。
コメントが私の僅かな元気の補給源なので、たすかります。
文字の置かれた状況はよく見ると奇妙な場合ありますね。
よく言われるのは〝貼り紙するな〟という注意を書いた貼り紙とかその類。
自己言及のパラドックスですね。
ひらがな・カタカナの場合は、いわゆる外来語や擬音の表記を越えて〝可愛さ、ポップさ〟の表記とも関わりますね。
でもふだん私たちは、それを特に気にしない。
この柔軟性が言葉の特性のひとつなのかも知れませんね。
重ねて、この度もコメントありがとうございました。
編集済
物語を読み解くように、文字の音や形、意味のつながりを探る視点がとても新鮮でした!普段何気なく読んでいる文字が、まるで音楽のように響いたり、詩のようにリズムを生んだりして、物語の世界をより豊かにしていることに改めて気づかされました。言葉の力って本当に不思議で、奥深いですね。
文章を紡ぐことの面白さをじんわりと感じる、素敵な読書体験を木山先生のエッセイでできたらなと思います。
作者からの返信
いつもコメント、ありがとうございます。
悠鬼さんのコメントは、ことに嬉しいと同時に緊張してしまいます。
子どもの頃に学校の先生に書いてもらった家庭への連絡帳のような感覚なのです。
さて。
職業作家でも言語学などを修めた訳でもない私のような者が書く対象でもないとは承知しているのですが。
なんとなく、言葉(日本語)について思ったことをエッセイにしています。
この回では〝文字っていろんな役目があるので並べることは考え要るし、難しい〟という話です。
とくに結論や答えめいた考えはないのです。
よしなしごと、なのです。
こんな私が思っただけのあれこれを悠鬼さんに好意的に受け止めていただき感謝しかありません。
あと。悠鬼さんに、お願いなのです。
〝木山先生〟は、よしてください。
心臓に悪いのです。
私の私淑する悠鬼さんが私の名前へ、そんなニ文字を付けているの見ると気が遠くなりそうです。
助けると思って〝さん〟あたりで勘弁してください。
さてさて。ともあれ。
この度も、コメントありがとうございました。
木山さん 興味深く拝見致しました。
文中の「同じ理由から、数多くの文字から多量の意味を伝えられた人(本を読む人です)は、労力を省くために文字の前後を読まずに予測して処理する事が多くなります。」のところ、おっしゃるとおりです。近頃、必要に迫られて、かなり速読が出来るようになりまして(特にラブコメとか。文芸はそういうわけにいかない)、誤字脱字なんてあんまり気付かない、というか気にしなくなりました。自分で書く時は、さすがに気にしますけど。
木山さんのお話しは、深みがあっていいですね。
またきます。
作者からの返信
コメント、ありがとうございます。
読んだ方の意見はとても貴重なものです。
さて〝誤読の理由〟をあれこれ考えて私見として書き連ねた部分ですね。
文を理解することは同じだけ文を誤解することにつながる。
それら仕組には共通の仕組があると考えて書いたものです。
実はこの後も同じ主題で別の仕組みからも理解と誤解が生まれるという話をしています。
物語分解図の後の話と、いま書いている本作の続編においてです。
我ながらなんで自分がこんなめんどうな性格なのかわかりません。
何だか同じ事柄をあれこれ長期間考え続けるのです。性分としか思えないのですが
本当にめんどうです。困ります。
ともあれ、書き続けるほかはないのですけれども。
重ねて、この度はコメントありがとうございました。
編集済
興味深い分析です。
直接関係がない話ですけど、ネットでしばしば見掛ける「もっともらしい」創作論に、「作品の中で表記が統一されていなければならない」というのがあります。
つまり、同じ単語は、同じ漢字で統一して書け、と。
私は、これに反対です。
太郎は、暗い、くら~い気持ちになった。
みたいな表記をあえてします。
あるいは、漢字が多く続いたと思うと、別の箇所では漢字で表記した単語(特に述語動詞などの用言)をひらがな表記したりします。
単なる不注意な事も多々ありますけれども(汗)、でも、無理して統一しようとは思わない。
むしろ、その場その場で、読者の目に受け止められやすい様な漢字とかなの配置や比率、コントラストを考えています。
ただし、名詞などの体言は、極力統一しています。
日本語の特徴は、漢字かな混じり文ですので、漢字ばかり、かなばかりが続かない様にしたいと考えています。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
表記の統一。
よく聞きます。
デリカテッセン38さんの言われている状況をつぶさに知るわけではないので滅多な事は言えませんが、私はデリカテッセン38さんの言説の方が好ましいです。
物語は正しいことを読む人へ示す為のものではないと私は思います。
物語はきっと何かを読む人に伝えるものであると私は考えます。
だから、よりよく意図なり演出なりを表す為ならば、表記の統一は後回しで良いと思います。
具体的には一人称〝俺〟のキャラが公の席だと〝私〟と言い。好きな人の前では〝僕〟という場面での使い分けの場合。僕と言っていたら好きな人だとわかります。
〝刀〟の表現が粗野な人は〝得物〟〝段平〟
等といい身分や性質での使い分けしている場合。身分ある侍が〝段平〟と言うと何か含みがあるか、何かしらの来歴があると思います。
言葉は状況や人間関係で変わり得るのではないでしょうか。
その創作論の方はおそらくいわゆる〝誤謬のない存在〟の三人称視点な物語の地の文での注意を述べたのではないかと愚考します。
やはりすべての物語に共通の〝例外〟のないルールは考え難いのです。
創作論は怖いですね。
ともあれ、
重ねてこの度はコメントありがとうございました。
逆説的に、詩について考えてしまいました。
詩、特に現代詩は、字形が持つ力も空白も行分けも使い、さらには単語間の繋がりを一般的な確率分布では少数派となるものを敢えて繋げたりして、視覚で文字を読む際に読者に働きかけるものを全て活用することを目指します。
その代償として、詩は読んでいくと恐ろしく疲れます。密度が濃い内容に手応えがあり満足するものの、これが文庫本一冊続けば読み切れないと観念することも本音です。
詩を書く人には X で作品紹介ではなく作品そのものを書き続ける人も多いです。カクヨムでは X へのリンクを貼ることができないのですが、例えば詩人・草野理恵子さんの X アカウントを参照するとほぼ毎日極めて高い水準の作品を発表し続けています。読者からは、文章の密度では日本最高レベル、そう評されることもあります。しかし、御本人はともかく、同様の密度で小説を書く人が皆無であることが、詩と小説の断絶を感じさせます。
長い物語を綴るには、読者に配慮するために、文字が持つ表現力は薄めておかなければならないという指摘は、逆説的に表現力をフル活用した例を知っていると、首を縦に振らざるを得ません。
作者からの返信
コメント及びご教示、ありがとうございました。
私は〝詩〟についてまったく無知であるため、今回初めて知ることが多く、この場にて学ぶ機会を得ました。感謝いたします。
詩は文字が連なった場合も個々の文字の機能を〝オフ〟にしない場合があるのですね。
その紙面配置や叙述用法も独自のものがある。面白いです。
だから脈理が途絶えているような繋がりの文が並べてあったりする。のかも?
さすがに散文に先立ち成立したカテゴリーです。
本編を〝物語〟と狭めて良かったです。
いやもちろん〝叙事詩〟も物語ですけどそれは今回は除外です。
論説ではなくエッセイなのでそんなに語れないのです。
ともあれ。
重ねてコメントありがとうございました。
読者が物語を読む際、文字そのものが意識から後退する現象を、脳の認知負荷軽減の仮説から丁寧に説明している。これにより、読書中に文字が「見えているのに見えていない」状態が自然に理解できる構造となっている。また、誤読や脱字の発見困難さをこの理屈に結び付けることで、経験則を理論的に補強している点が良いですね。
作者からの返信
いつもコメントありがとうございます。
法王院さんの理路整然とした感想を伺うと、
昔自分の考えていたことの復習になります。
私は、自身が書いていた内容をよく忘れるので、考えをまた辿れる機会を得て、楽しませてもらっております。
さて第一話。
素人が書いている想像にすぎない事柄ですが、思っていることを好き勝手に書くのは愉快でした。
本編は、そうですね。
まったく法王院さんの言われる通りの内容です。
〝文字と文意とは、同時には処理されない〟
そんな認知の仕組みを述べたものです。
〝〟の中の一文を示すために、くどくどと話をしていたのです。お恥ずかしいことです。
というわけで、今回は私の意図と法王院さんの解釈は完全に一致なので、特に私の話すことはありません。
もしかして。法王院さんは、論説文が得意とかなのでしょうか。
重ねて。この度もコメントありがとうございました。