第15話

 こそこそと身を屈めるのは慣れている。卑屈に、なるべく目立たぬよう生きてきた。

 酷い眩暈にさいなまれている。悪寒がやまない。

 雄姿郎ゆうしろうは昼日中にもかかわらずほぼ無人のアーケード街を歩いていた。海が近いせいか坂が多く、車道も歩道も起伏の上に延びている。廃ビルや廃屋も多く、身を潜めるにはもってこいともいえた。

 寂れた街だと雄姿郎は思っている。

 蒸れたアスファルトのにおい。一雨来るかと空を見上げる。 

 車が一台向かってくる。反射的に雄姿郎は顔を背けた。逃亡者だからだ。膝や足首が軋む。腰から下が異常に重たい。これからどうなってしまうのか、死ぬのはごめんだ。

 死にたくないならせめて食わなくてはならない。

 雄姿郎はまたふらふらと歩き出し、やがて曲がり角に立つビルの一階にある立ち食い蕎麦屋に辿り着いた。

 蕎麦が好きだ。

 ここ一年ほどの記憶はガタガタだが、好きなものというのは身に染みている。目の前の店も何度も通った店だった。

 ガラスの引き戸を開け中に入る。雄姿郎は伏し目がちのまま、壁に貼られたメニュー短冊に目をやることなく小声で注文した。

「紅生姜天とお稲荷さん」

 曇天による肌寒さも、店内の湿った暖気によってずいぶん緩和された。寒さや暗さは人の気持ちを萎えさせると聞いた。生きようとする意思が殺がれるのだろうか。

 雄姿郎は生きなくてはならない、復讐するためにだ。そんなザラリとした思いも、強烈な出汁と醤油のにおいが希釈してくれる。

 裸銭で前払いの代金を支払っていると、うしろの戸が開く音がした。

「山菜蕎麦、ネギ抜き生卵トッピング、麺やわ。汁熱々で」

 雄姿郎が振り返るとひょろ長い男が白い笑顔で立っていた。

「どうも、氷頭ひずと言います」

 身構える雄姿郎を目で制し氷頭は重ねた。

「だいじょうぶ、僕は味方だから」

 店内のテレビからは国会中継が流れている。

「どういう意味だ」

「その体。維持するには専門的な知識が必要だ。逃げ回って消耗もしている。自棄やけになって死に場所探しているというなら放っておいてやらないでもないけどもね」

 珍妙な会話だ。

「ぼくは君を助けたんだ。心臓を奪われた君を助けるため、最低限必要な部分を残して君が生き残ることを優先させた。死んだらそれまでの手術だったが君は耐えた。たとえばその足は、心臓の替わりに君の全身に血を送る機能を備えている。爪先から腰の側面までが機械製だ。動力は蓄電池によるものだが、その充電方法すら君は知らないだろう? 足が動かなくなれば君の全身に血が巡らなくなり、死に至る。君は逃亡中の身、僕がこっそりメンテしてやろうという提案だよ」

「なぜ」

「君は僕の作品でもあるからさ」

 内臓、両足そして心臓。体の半分を失いながら雄姿郎はまだ生きている。いや、氷頭の言葉に従うならば生かされているといったほうが正しいか。

 雄姿郎の注文した紅生姜天の乗った蕎麦ができあがった。雄姿郎は蕎麦といなりずしの載った盆を手に空いている卓に移動する。つづいて氷頭の品もできあがる。氷頭も代金を払い、雄姿郎の隣に立った。

 雄姿郎は横目に店の入り口を見た。

「大丈夫、これは僕の単独の行動だ。だいたい君の行方は組織は把握できていない。電池切れで遠からず野垂れ死ぬと思っている。下半身が機械化された死体なんて派手に目立つ。間違いなく組織の人間に回収され、秘密裏に処分されるだろう」

「あんたは何者だ、組織ってなんだ」

 正直に言うとは思えない。

「正直に言うと思うかい」

 雄姿郎は鼻で笑って紅しょうがの天ぷらに齧りついた。揚げたての衣は歯に歯茎に心地いい感触をあたえやがて噛み切れる。鼻腔に紅しょうがの酢のにおいが立つ。間断なく汁を啜る。カツオではない魚系の出汁と昆布、濃いカエシの味。舌も鼻も生きている。好きな味は目が覚める。アゴとサバだろうか。

「僕は味方さ。稼動実験を行ったあの日、逃走に容易なあの場所を決めたのもぼくなら、どうして鍵付きのバイクがあったのか」

 黒のインデアンスカウトボバー。

「メットインには小銭まで」

 蕎麦は二八。蕎麦好きは十割とか真っ黒な田舎蕎麦を好むとか聞くが、雄姿郎はこの割合いが好みだ。

「君はあの凄惨な手術に耐えた。だからこそ実験体になれた」

「だからなんの実験だよ」

 蕎麦を手繰たぐり汁を啜る。個性の強い出汁や蕎麦には白葱がよく合う。あまり噛まずに飲みくだす。蕎麦切りが喉や食道をぐいぐいと抜ける感覚に思い出すものがある。少しみなぎる。

「人体の可能性、かなあ」

 氷頭はどんぶりの中の生卵を箸の先で潰して掻き混ぜ、一口すすった。一見優男だがなかなか堂に入ったしぐさだ。

「いいかい、君の心臓が摘出されるのはもはやどうにもできないことだった。それを望んだ人間に抗える奴はいない。心臓を奪われた君はそのまま死んでいく運命だったのだ。もともとが死刑囚、その執行時間が少し延びただけだとね」

 夕刻近い蕎麦屋は客の数も少ない。

「俺はなにもやってない、冤罪だ」

「そんなことは知らない。それは別の話だろ?」

 雄姿郎はどんぶりを卓に置いた。一味を振る。

「僕の存在なくして君はもう生命活動を維持できない。それは弁えておくべきだ」

「だから言うことを聞けと?」

「いやいや。組織は君を見失った。僕は君の存在を組織に伝えるつもりはないよ。僕はね、ひとりの研究者として、自分が作り上げたものが一体如何程のものか見てみたいのだ」

 雄姿郎は音を立てて蕎麦を啜る。

「高崎はどうなった?」

「それは誰だい」

「俺と一緒に車に乗っていた男だ」

「僕は心臓を奪われた後の君を拾ったのみ。それも知らない」

「人を物みたいに言いやがって」

「人は物さ。物言う物。勝手に動いたりエネルギーを摂取したり、そんなことは今時掃除機でもするんだ」

 雄姿郎はいなりずしをまるごと頬張り、片手でどんぶりを持ち上げると出汁を啜った。

 氷頭は雄姿郎の左胸を箸で指し示した。

「君から心臓を強奪した人間を知りたくはないか? 君はまったく変わっている。友達の行方などよりまず、そちらを気にすべきだ」

 雄姿郎は箸を置く。

 雄姿郎は心臓を強奪した人間に復讐せんがため逃げた。しかし今は、行方の知れない親友のことを考えることのほうが多くなっていた。もし高崎が俺と同じような苦しみを受けながら今もどこかで生きているのだとしたら、それは救ってやらねばなるまい。

「気にならないのかい? 君の心臓を奪った人間のことが」

 相変わらず雄姿郎の左胸を指し示す氷頭の箸の先にはかまぼこが挟まれている。

「取り返せばまた俺の心臓は元通りになるのか」

「ならないね。もはや君の体に本物の心臓を受け容れられる隙間はない」

 雄姿郎は押し黙る。

「俺はもしかして、世間的には死刑囚として死んでいるのか?」

「そうだね。凶悪犯村雲雄姿郎の刑はつつがなく執行された。今の君は元死刑囚という立場であり、世間的には鬼籍きせきに入っている」

「俺と高崎は一体何に巻き込まれたんだ?」

「君は君の記憶を信じているようだが、本当に人を殺していないと断言できるのかい?」

 雄姿郎は思わず息をのんだ。

「本当に殺人鬼じゃないと言いきれるのか?」

「俺は殺していない!」

 一瞬だけ店の中の時が停まり、また何もなかったように動き出す。

「しかし実験時……ああ、君が逃走したとき、兵士のような連中を君は躊躇なく殺しただろう? それ以前に同じことをしていないとどうして言いきれる?」

「それは」

 ふふんと氷頭は鼻を鳴らす。

「応酬話法で負けないコツは、対話者の言葉に納得しないことさ。嘘でも自己欺瞞でもね。ともかく、僕が興味あるのは今の君さ。あんな苛酷な手術にも耐えた体と精神力」

 だから逃がしたのか。

 その理由がわからないが、今の雄姿郎の体は、氷頭が手を入れた謂わば彼の作品なのだろう。実験であるとか試作であるとか、そんな言葉を耳にしたことを雄姿郎は思い出す。

「な、なんなんだあんたら、悪の軍団か?」

 それはいいねえと呟いて、氷頭はテレビに目を向けた。

「計画の名前を知りたいかい?」

「どうでもいい」

「ああ、そう? 結構苦労して考えたんだけどなあ。聞きたくない?」

 氷頭は呷るように残った出汁を啜った。雄姿郎は細くて長い氷頭の首の、喉仏が上下するのを無感動なまなざしで眺めていたが、

「俺はあとどのくらい生きられるんだ」

 ぼつりと訊いた。

 氷頭はどんぶりを置き、口元を拭った。

「……ううん。施設に戻りおとなしくしていれば、或いは年を越せるかもしれない。派手に動き回るなら、そう、あと一ヶ月」

 雄姿郎は思う。

 行方不明の親友を捜したい。そして、冤罪も晴らさなくてはならない。多少なりとも存在する世話になった人間が、今後俯かねばならない人生を送らないようにだ。

 雄姿郎はいまだ死刑執行された大量殺人鬼なのだ。 

 誤って巨鯨の背に乗ってしまったような、儘ならなさに目が眩む。

「新たな心臓を望む誰かに君の心臓が合致した。君だからじゃない、君の心臓だから、なのだ」

 氷頭はテレビのほうを向いたまま口角を釣り上げた。

 ちなみにだけどと氷頭が言う。

「君が復讐を果たすべき相手をしりたくないのか」

 雄姿郎は反応の悪い犬のような顔をする。知りたくないわけではない。少し前までどす黒い感情に支配されていたような気もしている。

 氷頭はまだテレビを見ていた。

 雄姿郎もその目線の先を追った。

 相変わらずテレビは国会中継を映しており、今は新たな首相が答弁をしていた。

「そう、君が殺すべきは、」


「内閣総理大臣閣下だ」

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