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「……これで説明は以上だけど、質問はあるかな? アルカ君」


「一つだけ、研究室の男女比をぜひ教えて頂きたいです」


「ええ……」


 露骨に微妙な顔をされた。教授とあろう人がそんな分かりやすく動じていいのかと憤慨した。アルカは真面目に聞いているのだ。


 ズッカ准教授の居室である。八畳くらいの小部屋。壁棚には所狭しと研究関連の浩瀚な書物が詰め込まれ、机にはファイルが山積みされている。他には怪しげな試薬瓶に、小難しい数式やグラフが載っているポスター、分子構造模型など。軽く整理はされているが、雑然とした印象はいなめない。書かれている言葉で目につくものには、「魔素」、「微生物」、「バクテリア」、「エーテル」、「魔鉱」……などがあり、部屋の主人の研究分野をよく表している。


「四対一といったところかな? 女子の方が多いね。理系だけど、生物系は理工学系に比べて男子が少ないんだよ。数学を用いることが少ないからと思うんだけど。全然、使うには使うんだけどね……はは」


 苦笑いしつつ、安っぽいひじ掛け椅子に座ったズッカ准教授は答える。三十路を過ぎたあたりの准教授にしては若い肌艶。整髪料で撫でつけたクリーム色の前髪に、リムレスの眼鏡をかけている。はしばみ色の瞳は柔和な印象を与えた。朝、公園を散歩するのが日課です、とでも言いたげな風貌だ。


 整髪料の放つ柑橘系の香りが鼻を掠めた。


「それはとても良かったです。なるほど、四対一……頑張ります。頑張らせて下さい」


「良かったならいいんだけど。でも教職としては、ぜひ研究にも興味を持ってもらいたいんだけどなあ」


「興味は津々ですよ。今日からいけます。やる気、あります」


「違う興味だよね、それ。……入ってくれるに越したことはないけど、うーん」


 ズッカ准教授は腕を組み組み唸って、


「……講義でも話したと思うけど、この研究室で扱ってる魔素って、危険で、未知で、すっごく面白いんだよね」


「存じております」


「自然科学と魔術が統合した学問として扱われるようになって、ようやく一世紀くらいだけど、やっぱり魔術の基礎となる魔素という物質群は、同じ天然物である他の自然科学領域の化合物と比べて、ブラックボックスな部分が大半なんだよね。ほとんど全部と言っていい。九十九パーセント、原理が分かっていないんだ。既知の物理法則や化学知識と照らし合わせても全く違う。別の斉一性が保たれていて、その分析は人智を拒んでいる……そんな魅力的な研究分野がこの魔素なんだ!」


 どうだいわくわくするだろう、とズッカ准教授は捲し立てる。自身の分野について話す研究者特有の早口熱弁を、アルカは「はいはいその通りです」と軽く受け流す。


 ズッカ准教授には申し訳ないが、正直どうでもよかった。アルカは三年で卒業して、大卒の肩書がもらえればそれでいいのだ。生命科学を選んだ理由は生物の成績が良かったからであり、特段好き好んででもなかった。典型的な腐れ大学生である。


 腐っていても大学生だったが。


 アルカの腐敗はちょっと進み過ぎていた。


 有り体に言えば成績が酷すぎた。


 進級できる白線のギリギリに辛うじて乗っていた感じである。


 故に最初から選択肢はなかった。嫌でも不人気の研究室に配属されるしかなかったのである。端からこの魔素微生物研究室の門戸を叩こうなど思っていなかった。もっと楽に卒業できる研究室はあったし、何よりここの研究室紹介が酷過ぎたのだ。


 あの未体験の衝撃は数分前のことのように思い出せる。


 二百人は入る第四講義室。研究室配属前に各研究室の生徒による、研究内容の紹介が年度末にあった。


 それは紹介ではなく、もはや恫喝であったが。


 ――挨拶を返せ! 


 ――そんな社会常識がないようでは、どこの研究室でも通用しない!


 ――やる気がない人間に、我等が魔素微生物研究室はおすすめしない!


 ――浮かれ気分の奴は、研究室の定款で細菌の餌になることが決められている!


 ――帰れ! ぶん殴ってやる! ゲートボールができない体にしてやる!


 ――老人になってから辛いぞ!


 軽く狂気であった。前時代的な体育系の部室に迷い込んだかと思うほどの怒声だった。壇上で夜空のような藍色ロングヘアの女が、凄まじい剣幕で檄を飛ばしていた。未だ経験したことのない五分間。その女たちが出て行き、言い知れぬ数秒の後、講義室が不思議な連帯感と安堵に包まれたことを覚えている。


 この研究室紹介の甲斐あって、魔素微生物研の志望者は見事に零であった。だから落ちこぼれのアルカが回された。どの研究室も満員でちょうど一人だけあぶれたのだ。


 だが、甘んじて受け入れよう、とアルカは考える。


 魔素微生物研の人員は、院生が各学年五人ずつ計十名だとズッカ准教授が言っていた。男女比を考えると女子の先輩は八名。


 つまりあの爆弾女は八分の一に過ぎない訳だ。そう考えれば割といい勝負とも言える。


 また思い返せば、爆弾女の両サイドに所在なさげに立っていた二人も、中々レベルが高かった。一人はいかにもなお嬢様風で、もう一人は髪の豊かな女の子。遠目からみても二人ともかなり美人に思えた。爆弾女も綺麗めではあったが……。


 そして新しく入るのはアルカ一人。同年代の女の子がいないのは残念だが、競争率はいいのかもしれない。これすなわち春到来ではないか。


 胸がわくわくした。


「そうだよね! わくわくするよね!」


「はい! わくわくします!」


 反射的に答えたら噛み合ってしまった。若い准教授は糸目を更に細めて、うんうんと顎を引いた。頭を恋愛モードから切り替える。流石に女のことで上の空では申し訳ない。


 興味あるふりしてさっさと面談を終わらせよう、と思った。


「やる気があって何より! ちょっと授業と重複して申し訳ないんだけど、続けるね。知っての通り、この魅力的な魔素を人類が得る手段は極々限られているんだ。アルカ君の方が詳しいかもしれないけど……」


「魔獣ですね」


「そう、魔獣だね。魔素を体内で代謝し、随意に魔法を扱える生物のカテゴリー。エネルギー収支の合わない自然現象を攻撃的に操り、人類にあだなす害獣だよ。硬化の魔素が積層された外装は非魔術的武力を無効化し、無敵の強さを誇る……らしいけど、アルカ君にしてみれば御しやすい相手だっただろうね」


「……そう、ですね」


 歯切れ悪く、アルカは答える。


「魔素耐性を持っていれば火を噴きかけられても無傷なんだろう? いいなあ、僕も子供の頃はハンターに憧れたものだよ」


「鎧は多少融けますけどね。熱を完全に防げる訳じゃあないです。それにハンターは辞めたんですから」


「そう言うってことは戦ったことがある訳じゃないか。アルカ君は凄いなあ」


「まあ、はは」


 急に褒められてこそばゆい。褒められる人間でもないし。


「魔境に行くなんて考えるだけでぞっとするよ。そう言えばアルカ君は何を使うの? 魔法使いは魔法だろうけどさ」


「もっぱら魔鉱剣で。ミスリルとグライトを混ぜたオリハルコンで、魔法使いから魔素を注入してもらうんです。自慢じゃないですけど、まあまあ純度は高いっす。今は素振りにしか使ってないですけどね」


「高価だなあ。うちの研究室では媒質に魔鉱じゃなくて、魔素溶媒としてキサルやセトネアとかのエーテルを使っているよ」


「エーテルですか」


 いきなり専門的なことを言われても分からない。魔鉱は魔法使いの魔素をインクルージョンする物質だから、そのエーテルとかも同じ性質を持つのだろう。


「液体の方が扱いやすいしね。微生物から抽出するには魔鉱だと難しいから」


「先生の研究室では魔素産生微生物を扱っているんですよね。細菌とか」


「そう! アルカ君は勉強熱心だなあ」


 大げさに笑って見せるズッカ准教授。魔素微生物研究室が魔素微生物を扱っていない訳がないので、馬鹿らしく思った。


「そこが本題だよ。近年の研究で――といってもここ半世紀くらいだけど、バクテリアとかアーキアの中にも、魔素を生成するものがいるらしいことが分かってきたんだ。これまで魔法使いに頼るか、危険を冒して魔獣をハントするしかなかった人類の魔素獲得手段が覆った訳だからね。これは凄い発見だよ。上手くいけば試験管だけで完結することになるだろうね。種や株によって生産する魔素の種類も多様だから、誰でも魔法使いになることができるかもしれない。魔素微生物学は世界各国が注目している、超最先端のイノベーティブな学問なんだ!」


「ははあ。超最先端ときましたか。そいつは確かに凄いですねえ」


「どうだい、興味が湧いてこないかい?」


「それはそれは興味深いです。全く」


「でしょう!」


 無邪気に手を叩く准教授。ほっそりした指の柏手が部屋に響いた。


「じゃあ円満にうちに配属でいいね」


「もちろんですとも先生」


「進路希望調査票にはうちの名前は書いてなかったけどね」


「今渡されれば、第十希望まで同じ研究室で埋めますのに」


 調子いいなあとぼやいて、ズッカ准教授は机の引き出しを漁ると、一枚の紙を摘まみだした。アルカはそれを手に取りしげしげと眺める。


「何ですかこれ。文字がいっぱい書いてありますけど」


「契約書だね。見ての通り」


「準委任契約……? とりあえず名前書きますね」


「そういうのはよく読んでから記名した方がいいと思うよ……」


 たしなめられて、筆箱から取り出したボールペンを一旦置く。読んでみたがかなり分かりずらかった。契約書とはなぜこうも難解に書くのか。


「……これは、つまりどういうことですか?」


「魔獣化実験について、講義とかで聞いたことあるかな?」


「一応は」


「実は僕の研究室でも魔獣化実験を始めようかなーって思っててさ。主は魔素微生物だけど、派生としてね」


 魔獣化については詳しくは知らない。動植物に対して魔素などの試薬を与え、人工的に魔獣を作り出す実験、という程度の理解である。


「魔素を生産する分野ではどの研究者でも通る道だね。魔素はエーテルを含んだ生物種で働くものも多いから。この魔獣化実験は当然、危険を伴うこともあるんだ。だからハンター資格を持った人が立会いの下に実験して下さいね、って国際的に決められてる。注入する魔素の量は規定以下を遵守するから、過度に危ない魔獣が生まれることはないけど、もしもって事があるからね。でも外部から雇うと金が……」


 言いかけて、不自然にズッカ准教授は咳き込んだ。


「ゲフンゲフン。……何でもないよ。この契約書は、アルカ君にそのハンターとしての立ち合いを依頼するものなんだ」


「……俺にもしもの時に、魔獣と戦えってことですか?」


「そうだね。でも、必ずしも危険な能力を得る訳じゃないよ。水を生み出したり、体毛が変化したり、透明になったり、魔畜みたいに食味がよくなったり……。そういう数ある魔獣化の中で、もし人に害を成す反応をとった時だけの話だよ。心配するに越したことはないけど、そこまで気負う必要もない気がするなあ」


「でも俺は……」アルカは言い澱む。


「アルカ君のハンター資格はまだ残っているだろう?」


「あと一年ありますけど……」


「剣もまだ持ってるって言ってたよね? いま手元にある?」


「……下宿にあります」


「オーケー! なら資格は十分だ。人助けだと思ってサインしてくれないか? 給料も出るし、魔獣の暴走なんて滅多に起こらないと考えれば悪い話じゃないだろう?」


「……」


 どうしよう。確かにこんな資格が役に立つならその方がいい。しかし現実問題、職務を遂行する必要に迫られた時を考えると、自信がなかった。自分にはハンターを名乗る権利はないと思った。


「……すみませんけど、できないです」


「ほう」准教授は目を丸くする。「それはどうして?」


「ちょっと精神的な理由でして……上手く説明できないんですけど。あんまり聞かないで下さい」


 アルカが言うと、准教授は両手で押し出すジェスチャーをして、


「ああ、ごめんごめん! 配慮がなかったね、無理に言わなくていいよ。つらいこともあっただろうしね。でも、そういうことなら心配しなくてもいいよ」


「心配しなくていい?」


 よく分からない台詞だった。何を心配する必要がないのか。


 この話はオフレコにして欲しいんだけど、とズッカ准教授は前置いた。


「実はうちの研究室に一人、魔法使いがいるんだ。だから本当のところ、アルカ君はハンター資格を貸してくれさえすればいいんだ。害を成す魔獣の処理はその魔法使いにしてもらおうと思ってる。彼女は資格はないけど、魔法使いとしては優れているし、正直へたなハンターより強いからね」


「……」


「ああ、アルカ君がそうって意味じゃないよ。……アルカ君はハンターを辞めて大学に入った訳だし、何かしら事情はあるだろうなって予想ついてたからね。初めから彼女に実務を担当してもらおうって思っていたよ。そうなるとアルバイト代は折半だけどさ」


 ほとんど犯罪すれすれだから他言無用ね、とズッカ准教授は微笑みながら言った。なるほど、魔法使いがいるのか。呆れつつ、しかしこれほど割のいい仕事はないな、と頭の隅で考えた。



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