第4話 実は私

「……ぎりぎり、間に合った」


 走ったせいで乱れた呼吸を整えながら、共通講義棟の301号室へ入る。授業開始3分前。よかった、遅刻じゃない。

 一番後ろの席に座り、鞄からパソコンを取り出す。この授業はいつもパソコンでメモをとっているのだ。


 教養科目の授業は人が多い。それでもリアクションペーパーで出席をちゃんと管理しているのだから、教授もなかなか大変だろう。

 雑談をしながら、教授がリアクションペーパーを配り始める。前の人が振り向いた瞬間、え? とつい声を漏らしてしまった。


 だって、そこにいたのはうさぎだったから。


 時がとまったように、私たちは見つめ合った。


 教養科目は全学部・全学年の生徒が受講できる。だから、うさぎと私が同じ授業をとっていてもおかしくない。

 でも、まさか、こんなことってある?


 呆然としている私を見つめ、うさぎは声を出さずに笑った。そして、囁くように小さな声で言った。


「また会っちゃいましたね、翡翠さん」





 うさぎの背中を90分見つめ続けて、授業は終わった。それでもちゃんとメモをとったあたり、私はそれなりに真面目だと思う。

 いつもなら授業後はすぐに教室を出るけれど、今日はそうじゃない。


 だって、声をかけてもかけなくても、変な感じになっちゃいそうだし。


 だから、先にうさぎが席を立ってほしい。

 そう心の中で願っていたのに、うさぎが立ち上がるよりも先に、二人の男子学生がうさぎの周りを取り囲んだ。


有栖川ありすがわさん、一緒に昼飯食わない?」

「奢るし。どうせ、3限もあるでしょ?」


 うさぎの本名は、有栖川というらしい。苗字まで可愛いなんて、さすがに神様の贔屓が過ぎるんじゃないだろうか。


「ね、いいじゃん」


 慣れた様子で男が声をかけるけれど、うさぎ……もとい、有栖川の顔は引きつっている。明らかに歓迎していないのが丸分かりだ。

 それでもはっきりと断らないのは、どうしてなんだろう。


 断るの、苦手なのかも。私と違って、愛想のいいタイプだし。


 もしかしたら、男子学生たちは同じ学科なのかもしれない。だとすれば、冷たい態度をとるのも角が立つだろう。


「よくない」


 つい、立ち上がって口をはさんでしまった。ぽかん、という顔をした有栖川の肩に手を置き、男たちを睨みつける。


「この子、私と昼ご飯食べるから。行こ、有栖川」


 覚えたばかりの苗字で呼んでみる。数秒の後、有栖川は眩しい笑顔で頷いた。





「さっきはありがとうございました、翡翠さん!」


 教室を出ると、有栖川は深々とお辞儀をした。長い髪が揺れていい匂いがする。よく分からないけれど、高いブランドの香水でも使っているのだろう。


「別に。……なんか、困ってそうだったから」


 らしくないことをした自覚はある。だけど、身体が動いてしまった。

 理由をつけるとしたらきっと、有栖川には笑顔が似合うからだ。


「じゃあ」


 手を振って立ち去ろうとすると、あの! と有栖川に手首を掴まれた。華奢な身体のくせに、意外と力強い。

 根本から睫毛の上がった大きな瞳で、有栖川がじっと私を見つめる。


「よかったら本当に、一緒にお昼ご飯、食べませんか!?」


 白い頬が赤く染まっているし、不自然に目線が動いている。

 どうしてこの子はこんなに緊張しているんだろう。私を昼食に誘うだけなのに。


「……いいよ」


 断る理由は見つからない。やったー! と分かりやすくはしゃいだ有栖川は、やっぱり眩しかった。





「翡翠さん、どれにします?」


 学食のメニューは日替わりで、800円前後で定食が食べられる。すごく美味しいわけじゃないけれど、一人暮らしの学生にとってはありがたい。


「サバの味噌煮定食にしようかな」

「じゃあ、私もそれにします」


 サバの味噌煮定食は860円だ。合計、1720円。2000円を取り出して支払いを済ませると、有栖川が慌てて財布を取り出した。


「あの、お金……!」

「いいよ。有栖川、一年生でしょ」


 確信があったわけではない。しかし事実だったようで、有栖川は頷いた。

 もし二年生以上なら、敬語を使う前に私の年齢を確認したはずだ。


「……でも、悪いですよ」

「そう? こういう時、先輩が奢るんじゃないの?」


 世間一般的な常識がどうなのか、私には分からない。今まで後輩と食事をしたことなんてないから。


「まあ、気にしないで。とりあえず食べよう」


 ありがとうございます、と頭を下げた有栖川を見て不思議な気持ちになる。

 先輩に奢られるなんて経験、この子なら慣れているだろうに。


 有栖川って、どんな子なんだろう。


「翡翠さん」

「なに?」

「実は私、翡翠さんのこと、初回の授業の時から知ってたんです」


 そう言って、有栖川は悪戯っぽく笑った。

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