旦那様は、――お怒りです。
「何があった?」
カイルは部屋の中に素早く視線を走らせると、低い声で冷徹に問いかける。
マートルはずり下がった眼鏡を押し上げながら端的に答えた。
「ルゼンティア伯爵家の使用人が、中庭で魔道具を作動させました」
マートルの話によれば、ルワナという侍女がなぜか主のもとを離れ、単身で立ち入り禁止の温室の中にいたという。三階のコーデリアの私室へ向かう途中、偶然その姿を見かけ、何をしているのかと声をかけた瞬間――侍女の手の中で、魔道具特有の光が弾けた。
気がついた時には、あの奇妙な植物が彼女を呑み込んでいたという。
侍女は予期せぬ出来事に驚き、必死に助けを求めて叫んだが、すぐに蔦の触手のようなものが迫り、逃げることができなかった。その後、植物は瞬く間に温室を包み込み、成長を加速させて屋敷中に広がり、壁を突き破りながら瘴気を撒き散らし始めたらしい。
「屋敷に残っていた使用人たちは一部を除き、退避を終え、訓練所に残っていた騎士達と共に防御陣を整えております。瘴気がこれ以上広がらないよう、簡易的に結界を張る準備を進めていると伝え聞いています」
「けが人は?」
「重傷者はおりません。軽症者は若干名いるようですが、各々がいつも通り臨機応変に、冷静に対応しています」
「そうか」
カイルは一度ほっと息をついたが、すぐに緊張を帯びた表情に戻り、さらに問いかけた。
「どう思う?」
「私の見立てでは、あれは音に反応しているようです」
先ほどフェンネルの叫びと共に、速度を増した植物の動きを思い返し、カイルは一つ頷く。
「勝算は?」
「瘴気除けの魔道具。もしくは、聖術に似た術式の魔法ならあるいは――。ただ、怯ませるだけで直接的な効果は見込めません」
「やはり現実的なのは、核を叩くことか」
マートルは確と一つ頷く。
「数が多すぎるため、本体を叩くよりまず、陽動である程度潰しておいた方がよさそうです。どこから湧いてくるのか、それとも成長速度が異常なのか――。ゴミムシのように湧く蔦が非常に厄介です」
「陽動か……」
そのとき、足元から呻くような声が聞こえた。カイルが視線を落とすと、マートルの下で苦しむフェンネルが床を叩いている。
「――、ははうえ、そろそろ、どいていただけませんか」
「あとでお父様にお仕置きしていただきますからね」
情けない、と呆れながらマートルはさらに体重をかけた。
「ぐえっ……!」
フェンネルが絞り出すような悲鳴を上げるが、容赦はしない。
「侍女がいた位置は?」
「東の回廊を抜けた中庭の扉の正面。……温室の裏側にあたりますが、瘴気が濃く、近づくのは困難です」
「ここから一番近いのは……北の窓だな」
「ちょっ! まさか窓を壊して突入するつもりですか!?」
フェンネルが絶叫する。だが、マートルはその悲鳴すら意に介さず、さらに押しつぶした。
カイルはフェンネルの
剣の柄を強く握り、静かに息を整えた。フェンネルも口を閉じ、表情を硬くこわばらせるとナイフを
その瞬間――。
轟音とともに、屋敷全体が
壁がひずみ、空間そのものが歪んだかのような衝撃が走る。窓が震え、建具が軋む音が響いた。
扉の向こうの気配が、一瞬静まり返る。
「雷……? 中庭に直撃したんでしょうか?」
フェンネルが顔を上げる。その瞬間、マートルの表情が凍りついた。
扉の向こうを見つめる瞳が、微かに揺らぐ。
「奥様――」
その言葉と同時に、立ち上がったカイルの剣が閃いた。
扉が一撃で叩き斬られ、破片が爆風のように四方へ飛び散る。
木片が宙を舞い、床に落ちるよりも早く、カイルは駆け出した。
音に反応し、蔦の一部が獣のようにのたうち、行く手を阻むが如く鋭く伸びる。
壁を這う蔦がギチギチと軋み、怒ったように存在を主張する。
床板を裂いて黒い根が螺旋を描きながら這い出し、跳ね上がった蔦が天井の装飾を叩き落とす。砕けた破片が散乱し、廊下は異形の植物に呑まれていく。
瘴気が脈打つように広がり、空気が重く沈んだ。
カイルは剣を構え、静かに息を吸う。
「――邪魔だ」
一閃。
蔦の群れは
だが、間髪入れずに新たな蔦が壁を突き破り、
カイルは剣を振るい、時には軽くいなしながら、目的の位置へ急ぐ。
ほどなく、大窓の端を視界に捉えた。
回廊は無残な姿をさらし、足元には割れたガラス片が散乱している。大窓の半分以上が砕け、そこから這い出た蔦が床を這い、壁に絡みつく。
巨大な窓の向こうに中庭が広がっている、はずだった。
だが、そこはもはや庭ではなかった――瘴気と絡み合う無数の蔦が覆い尽くし、まるで異形の怪物の胃袋のように変貌している。
再び轟く爆音。
衝撃に耐えきれず、割れ残っていたガラスが粉々に砕け、無数の破片となって飛び散る。煙のような残骸が紫の瘴気の靄に混じり、さらに廊下へと流れ込んだ。
――その中に、揺らぐ人影が浮かび上がる。
カイルの息が詰まる。
駆けるままに、その横顔を捉えた。
艶やかな黒髪は雨に濡れ、滴を垂らしている。白い肌には無数の赤い線が走り、闇の中で生々しく浮かび上がる。
ギリ、と歯噛みし、剣を握る手に力がこもる。
見開かれた水色の双眸は、何かを見上げていた。
鋼のような蔦が、その瞳を飲み込もうとしている。
「コーデリア!」
刹那、カイルは跳んだ。
雷鳴が轟き、雨が降り注ぐ闇の中、銀色の刃が一筋光を放つ。
蔦が断ち切られ、雨とともに崩れ落ちた。
「旦那様……!」
焦燥から安堵へ。
その顔が一瞬で変じるのを確認する間もなく、カイルは体を寄せると背を向け、低く頷いた。
コーデリアのぬくもりが、ただ、愛しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます