漆黒の腕の内に抱かれて。


 イェニーのお仕置きが無事終わると、アステリーゼは蒼白な顔で泣き叫びながら部屋を飛び出した。


 ミレッタとキャリーンが一瞬顔を見合わせ、慌ててその背中を追い、扉の向こうへと駆けていく。


 扉が閉まると部屋の中には静寂せいじゃくが戻り、残されたコーデリアは背もたれに体重を預け細く息を吐いた。


「疲れた……」


 ふと視線を向ければ、イェニーが一仕事を終えたとばかりに、壁を背にして佇んでいた。パンパン、と埃を落とすように手を払い、どことなくうっとりと頬を紅潮こうちょうさせている。


(絶対に怒らせないようにしよう)


 コーデリアは、ひそかに誓った。


「奥様」

「は、はい!」


 いつもと変わらぬ落ち着いたイェニーの声に、微かな恐怖を感じたコーデリアは思わず肩を跳ねさせる。


「新しくお茶をお持ちいたしますね」


 けれどもイェニーはいつも通りだった。コーデリアは肩透かしを食らった気分で、目を瞬く。


 彼女は普段と何も変わらない様子で扉の方に足を向けた。時だった。


 ――甲高い悲鳴が響いた。


「!?」


 コーデリアは反射的に身を起こす。


 耳を澄ませると、既に悲鳴は消えていたが、背筋を冷たくなぞるような不吉な気配が伝わってくる。肌が粟立ち、気づけば長椅子から立ち上がっていた。


 イェニーと視線を交わすや否や、言葉を交わすまでもなく、コーデリアはすぐさま部屋を飛び出した。


 薄暗い廊下。


 壁に取り付けられた照明用の魔道具の淡い光だけが、おぼろげに空間を照らしている。


 廊下は静まり返り、雨の音だけが遠く響く。


 叩きつけるように降る大粒の雨が、部屋の正面の張り出し窓を濡らしながら、静かに零れ落ちていった。


「どこから、声が……?」


 コーデリアは足を止め、集中する。


 再び、鋭い悲鳴が響いた。


 今度は先ほどよりもはっきりと、先ほどより近くから聞こえたように思えた。


 アステリーゼの声ではない。


 ミレッタやキャリーンとも違う。


 知らない女性の悲鳴だった。


 声は聞こえるも、位置が判然はんぜんとしない。


「何が起きているんでしょう」


 恐々と言った様子で表情を強張らせているのは、イェニーだった。


「わからないわ……」


 答えながら、音の答えを探し、コーデリアは窓に近づく。指先で窓のひんやりとした感触を確かめながら、ふと目を落とした。


 闇のうち


 漆黒にしずむ中庭のその根元に、光もないのに揺れて存在を主張するがある


 視界の端で、何かがちろりと動いた気がした。


「……なにかしら」


 目を凝らすと、暗がりに慣れはじめた目がそこにあるものを映し出す。


 ガラス屋根の大部分が壊れ、大穴を開けている建物。


 剥き出しの柱の先端は腐食しているようで、途中で折れたり、内側に折り込むように倒れている部分も朧げに見える。


 カイルが危険だからと「立ち入り禁止」にしている場所。


「温室?」


 風雨に晒され荒れ果てた温室の中では、かつて植えられた植物が生き残り、自由に生い茂っているというが。



 直感が危険を伝える。


 温室の中。


 漆黒の緑陰りょくいんの内側で、確かに何かが蠢いている。


 確認しようと大窓に近づき、首を伸ばした。


 その刹那。


「――っ!!」


 温室の天井がぜた。


 コーデリアは反射的に飛び退き、窓から距離を取る。びりびりと空気が振動し、屋敷中が悲鳴を上げるようにガタガタときしんだ気がした。


 衝撃波が伝わったのか、窓ガラスの幾枚かに大きなひびが入り、イェニーがコーデリアの名前を叫ぶ声が耳に届いた。


「奥様!!」


 呼び声に応じる間もなく、コーデリアは体を強張らせる。


 僅かに残った温室のガラス屋根を突き破り、猛然と空へと駆ける巨大な何か。


 廊下の大窓に、迫る勢いでその巨体が姿を現した。


「いったい、何が」


 気が付けば窓の向こうに広がる景色が一変している。


 漆黒の大樹。


 ――いや、大樹とは呼ぶべきではない。巨大な荒縄が複雑に撚り合わされたようなその奇怪さ。


 幹と呼ぶべき部分は異様に膨れ上がり、無数のこぶが呼吸をするように次々と浮かび上がっていた。


 黒々とした蔦があちこちから這い出ており、まるで俊敏な蛇のようにそこここをのたうち回っている。それらは螺旋状に絡み合いながら太さを増し、高く、高く鎌首をもたげながら四方へと伸びていく。


 ただの植物でないことは明白だった。


 遠目にもその表面はてらてらと液体を零したかのように鈍い光を放ち、まるで生き物のように脈打っていた。


「これは……」


 目の前の光景が信じられず、コーデリアは息を呑む。


 窓の外でのたうち回っていたひと際大きな黒い蔦の群れが、猛然とこちらへと向かってきた。


「コーデリア様!!」


 イェニーの悲鳴が響く。


 壮絶な破砕音はさいおん


 コーデリアはイェニーの声が届くよりも早く、右へ半回転し、床へと受け身を取った。


 直後、ガラス窓が粉々に砕け散る。


 細かな煌めきが宙を舞い、砕けた破片が床に降り注ぐ。


 冷たい雨と風が怒涛のように吹き込み、室内の空気を乱す。


 しかし、それだけではない。


 ――異形の蔦が侵入してきた。


「くそっ」


 無数の触手のような蔦が、躊躇なくどっと屋敷の中へと流れ込む。


 壁を這い、天井へ絡みつき、あっという間もなく床をも飲み込んでいった。


 波のようにうねりながら、あらゆるものを蹂躙しようとしている。


 まるで、この屋敷そのものを喰らおうとしているかのようだった――。





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