第24話 影
孤島のあちらこちらから響いていたはずの戦いの音色は、今となってはどこからも聞こえてこない。
刃をぶつけ合う音、一撃がなにかを砕き割る音、肉が引き裂かれる音、雄叫び、悲鳴――わずか数十分程しか経過していないにも関わらず、『義賊連合』の根城は静まり返ってしまっていた。
その静寂を押しのけるように、無数の足音が洞穴内に響き渡る。
リオンをはじめ、『デュランダル』の面々が呼吸を荒げながら、アジト内部をくまなく散策していった。
残念ながら、生き残りの姿は見えない。
所々に交戦の傷跡こそ残ってはいるものの、生存している者や、事切れた誰かの死体すら発見することはできなかった。
一同は少し開けた場所で立ち止まり、いったん呼吸を整える。あちらこちらへと駆け抜けたせいもあるが、なにより通気性の悪い洞穴の湿った空気が、肌の表面に嫌な水滴を張り付けていた。
「どこもかしこも、もぬけの殻だな……一体、どうなってるんだよ」
リオンがわずかばかりに苛立ちをあらわにするなか、すぐ横を走っていたアテナも「ふむ」と冷静に周囲を見渡す。軽装とはいえ鎧を身にまとって走っているというのに、彼女はまるで呼吸一つ乱していない。
「アジトを襲った怪物だが、どうやら死体そのものに入り込んだり、肉体を取り込んだりもできるらしいな。何ともおぞましい話だが、もしやアジトにいた人間のほとんどが、奴らの手に落ちたのではないだろうか」
「まじかよ……それじゃあ、幹部の奴らも皆――」
あくまでそれは、推測でしかない。
だがリオンもまた、心のどこかでその最悪の事態を予測し、身震いしてしまう。事実、ここまで可能な限りアジトの内部を探ってきたが、それでも生き残りを発見することはできなかったのだ。
一団の最後尾にいた包帯男・ニーアが、片目に取りつけた奇妙な“機工”をのぞき込んでいる。彼はすぐ目の前に展開されるデータを読み取り、あくまで冷静に告げた。
「呼吸や心拍数、体温などの反応を検索してますが、どうにも感知できません。このアジトの地形が反応を遮断している可能性もありますが、もしかしたら隊長の予想通り、生き残りは我々だけなのかもしれません」
一切の私情を含まない彼の言葉に、やはりリオンは戦慄してしまう。ニーアの片目に取り付けられた機工には周囲にいる生物の“生体反応”が表示されているのだろうが、それをもってしても生き残りは発見できないらしい。
他の隊員たちは、その事実を受けたとて、別段大きく動揺する様子は見えなかった。隻腕の女侍・カンナは「あらあらぁ」と間延びした声をあげ、小柄なダークエルフの魔導士・ココはどこかつまらなそうに視線を走らせるのみだ。
絶望的な状況ではあるが、『デュランダル』の面々にとってはさほど想定外なことでもないのだろう。様々な任務を経験してきた彼らは、こういった最悪のケースを心のどこかで予測していたのかもしれない。
だが、リオンはというと、そう簡単に割り切ることはできなかった。
かつての『義賊連合』が再興していたということもさることながら、それを『タタラ教団』が一瞬で壊滅させたなど、到底受け止めきれることではない。
なにより、このアジトは見知った顔が数多くいる場所でもある。短い時間ではあるが、再会した彼らのことがどうしても脳裏によぎってしまった。
リオンは沸き上がった生暖かい汗を、両の手で拭い落とす。なんとか冷静さを取り戻そうとする彼を前に、アテナは刻一刻と変わる状況を加味し、素早く判断を下していく。
「連合の面々もそうだが、例の怪物たちの姿もどうにもまばらだな。もしかしたら、事の元凶――教祖であるタタラがすでに、この場から退散してしまっているということなのかもしれない」
「そんな……あの野郎、アジトを一方的に滅茶苦茶にして、とんずらこいたってのか?」
「確証はないが、彼がいつまでもこの場に留まる理由もないだろうな。奴からすれば、関係性を断とうとした連合を壊滅させることが、最大の目的だったのだろう」
あまりにも身勝手なタタラの立ち振る舞いに、リオンは強く拳を握りしめてしまう。いわばこれは、タタラが己の痕跡を抹消するために行った、一方的な虐殺劇といえるだろう。
リオンにとってかつての『義賊連合』の面々は、家族や親友と呼べるような親しい間柄ではない。だがそれでも、一定の時間を過ごし、共に同じ志を共有した存在として、その安否が気がかりでならなかった。
たとえわずかな時間でも、かつての思い出を蹂躙されるということは、胸がすく状況ではない。
「身勝手な野郎だ……自分たちの保身のために、このアジトにいる連中、根こそぎ殺戮するなんざ……」
「怪物を行使するその不可解な力もさることながら、つくづくまともな人間の思考じゃあないな。タタラ、か……もっと早く、我々がその存在を感知していられれば」
リオンは歯噛みしつつも、隣に立つアテナの横顔を見つめてしまう。彼女の凛としたまなざしはなおも強さを失っていないが、それでも青い瞳のその奥底にどうしようもない憤りや焦りが浮かんでいるように思えた。
壁際のわずかな蝋燭の光に照らされ、一同の影がゆらゆらと岩壁の上で揺れる。仄暗い通路の空気は、一同の体から滲み出た感情が滞留し、いやにひりついていた。
そんな沈黙を、魔導士・ココの言葉が不愛想に打ち砕く。
「とにかく、延々とここにいるわけにもいかないでしょ? 私たちだって帰る手段がないんだから、救難信号でも発信して助けを呼ばないと」
「ココの言うとおりだな。このまま生存者を探しながら、ひとまずは島の外――空が臨める場所まで移動しよう。そうすれば、本部に救援を要請できる」
力強く言い放つアテナの姿を見ていると、リオンの体にもわずかばかりの力が戻ってくる。方法は定かではないが、彼女たちは『デュランダル』に救援を要請する方法を用意しているらしい。
一団が合流できたとしても、状況が好転したわけではない。いまだなお、リオンらはこの孤島に取り残され、怪物たちに囲まれたままなのだ。このまま延々と消耗戦を繰り広げ続けるのは、それこそ悪手というものだろう。
わずかばかりに目標が決まったことで、一同の体に活力が湧き上がってくる。孤島の構造こそ定かではないが、それでもリオンたちはとにかく前に進むことで、島の外への脱出を目指した。
だが、駆け出そうとした一同の足が、不意に止まってしまう。リオンは通路の奥を見つめ、思わず「なに?」と声をあげてしまった。
洞穴の奥底から、おびただしい量の“黒”が湧き出てくる。それは先ほどまで一同が相手取っていた怪物たちを形成していた、あの“靄”と同様のものだった。
当初こそ、黒い怪物の増援かと身構えていたリオンたちだったが、その黒をかき分けるように姿を現した一つの“影”に、たじろいでしまった。
歩み出てきたそれは、やはり全身が黒一色に染まっていた。
しかし、先程まで一同に群がっていた怪物のような、いびつな体つきはしていない。すらりと伸びた細い手足と、洗練され引き締まった肉体を有した人間である。
黒い布地を全身に巻き付け、肌の表面を一切見せていない。顔にも漆黒の仮面をはめていることから、それが男なのか、女なのかも定かではなかった。
そんな謎の人物が、一歩、また一歩と躊躇することなく一同に近づいてくる。黒い肉体が進むたび、肉体にまとわりついていた靄が揺れ、宙へと溶けていった。
ただならぬ気配に誰しもが戦慄するなか、口火を切ったのは先頭に立つ女隊長・アテナだった。
「連合の生き残り――というわけでは、なさそうだな。一体、何者だ?」
彼女の何気ない言葉に、「しゃりん」という乾いた音が続く。こちらに向かってくる“影”の動きがあまりにも自然かつさりげなかったため、アテナですら一手、反応が遅れてしまった。
気が付いた時には、目の前の黒い存在の右手に、湾曲した黒い刃が握られていた。その鋭い切っ先からも靄が流れ出し、大気の動きを可視化する。
次の瞬間、戦場が一気に動いた。
黒い影は地面を蹴り、急加速することでリオンらに突進してくる。向かってくる圧を受け、緩みかけていた一同の意識が再び張り詰めた。
突進してくる殺意を前に、なおもアテナはひるむことがない。彼女は強力な踏み込みと共に、持ち上げた盾を目の前の影に向けて叩き込んだ。
アテナの“シールドバッシュ”が、大気を跳ねのける。秘められた怪力と洗練された体捌きが鋼の延べ板に確かな破壊力を生み出し、狭い洞窟内に突風を生み出した。
だが、彼女の放った一撃必倒の技は、空を切ってしまう。盾が向かってきた黒い影に直撃したかに見えたが、誰しもが一拍遅れ、それが残像であったことを悟る。
一手早く、黒い肉体は宙高くに飛翔していた。
影はそのまま身をひるがえし、洞穴の天井に逆さに着地してみせる。リオンのみならず、精鋭部隊である隊員たちまでもその人間離れした身体能力に息をのんでしまった。
逆さになり、天井からこちらを見下ろすその姿は巨大な“コウモリ”を彷彿とさせる。異様な光景にリオンがどこか躊躇してしまうなか、やはり『デュランダル』の面々はいち早く攻撃に転じた。
一団の後方に控えていたココ、ニーアが動く。それぞれが武器である杖とライフルを構え、直ちに彼方の“影”目掛けて仕掛けていた。
無数の火球と、ライフルの弾が空気を裂いて飛ぶ。おびただしい熱と岩石が爆ぜる音色、弾丸が岩を跳ねる歪な金属音が洞窟内をぐわんぐわんと揺らす。
だが、なおも黒き襲撃者はひるむことなく、迅速に行動に出た。
黒い影は天井を蹴り、高速移動することで飛来する魔法と弾丸を避けてみせる。闇の中を異質な黒が走りぬけ、緩急を織り交ぜた動きで遠距離攻撃をかわしていった。
ときには壁を走り、宙がえりをし、影は天地上下などまるで無視して空間そのものを駆け抜ける。
ココ、ニーアの猛攻によって変形していく洞窟の景色もさることながら、その破片にすら当たることなく鮮やかに、そしてどこか妖しく駆ける黒い影を、リオンはただ呆然として目で追うしかない。
それは、ただの“盗賊”の動きではない。
明らかにもっと洗練され、人としての殻を幾重にも破った、次元の異なる動きだった。
幾度となく攻撃をかわされたことに苛立ちつつ、ついにココたちが苦々しい声をあげてしまう。
「ったく、何者なのよこいつ!? 化け物かっつーの!!」
「ただどうやら、味方じゃあないってことだけは、確かみたいですね!」
二人の頬を汗が伝っていた。どれだけ通じないと分かっていても、なおもココとニーアは狙いを定め、それぞれの力を彼方へと押し込んでいく。
しかし、黒い影もついに打って出る。火球と弾丸を鮮やかに跳躍してかわした影は、回避しながらも懐に忍ばせていた武器を掴み取り、二人目掛けて投げつけた。
その軌道を、誰一人視認することができなかった。「とすっ」という乾いた音に続き、ココたちの痛々しい声が響く。一拍遅れ、リオンたちは何が起こったのかをようやく把握してしまった。
ココとニーアの肩に、やはり黒く染まった“刃”が突き刺さっている。柄すら取り付けられていない薄刃は二人の関節を見事に射抜き、その動きを止めてしまっていた。
この一瞬の隙を逃さず、影が跳ぶ。黒い肉体が一瞬で距離を詰め、遠距離で応戦していた二人へと迫っていった。
振り上げられた刃は、近い位置にいたココを狙っている。少女はなおも歯を食いしばり杖を持ち上げようとしたが、関節に突き立てられた刃が痛みを走らせ、思うように肉体を制御することができない。
間に合わない――誰しもが騒然とするなか、しかし不意に黒い影が突進を止め、急停止してしまった。
リオンがたまらず「えっ?」と声をあげる。だがすぐさま走った刃の風切り音に、何が起こったのかを理解した。
突進してきた影とココの間に、いつの間にか女侍・カンナが割って入っている。彼女は愛刀で影を薙ぎ払ったのだが、刃は襲撃者のすれすれを通過し、かわされてしまった。
「あらあらあらぁ、えらい勘のええお人ね。もうちょいで、縦にばっさりやったのに」
彼女は相変わらず笑っている。だが、その柔らかな笑みの奥底に、“斬り裂き魔”の冷たい光が覗いていた。
黒い影は割り込まれたことで、その標的をカンナに絞ったらしい。影はまるで躊躇することなく、逆手に持った刃をカンナの首目掛けて薙ぎ払う。
迷うことなく相手を殺戮する致命的な一撃も、侍の見切りの前では無効化されてしまう。カンナはすれすれを避け、逆に隻腕で握りしめた刃を影の喉元目掛けて突き立てた。
影がかわし、さらに切りつけ、それをカンナがかわす――瞬く間に刃と刃の“咬み合い”が始まり、無数の風切り音が響き渡った。
両者は互いに一歩も引かず、ただ目の前の相手を切断するため、ひたすらに手にした得物を駆り続ける。
二人は呼吸すら止め、思考すらせず、感覚のままひたすらに肉体を動かしていた。本能のまま奔る刃は一度たりと互いの体をとらえはしないが、それでも飛び散る汗を、舞い散る粉塵を、踏み込みにはじかれた石の欠片を刻み、散らしていく。
誰一人、その濃密な“殺し”の間合いに踏み入れなかった。
負傷したココ、ニーアはもちろん、リオンとアテナも距離を取り、臨戦態勢を取ったまま攻防の行く末を見守る。
二人の攻防に変化があったのは、斬撃の数が30を超えた時であった。
カンナは大きく踏み込み下から一刀を振り上げたが、やはり影はこれを身を引くことで鮮やかに見切ってしまう。絶妙かつ精密な体重移動で、影はすぐさま肉体を前に切り返し、カンナの胴体目掛けてナイフを捻じ込もうとした。
相も変わらずの巧妙な見切りだったが、この一瞬、カンナが纏っていた殺気の濃さが増し、その場にいた全員の背筋を凍らせる。
カンナの攻撃はまだ、終わらない。
彼女は肉体をさらに急加速させ、刃を凄まじい速度で返し、切り下してくる。初めて見る剣技にリオンが絶句するなか、それをすでに見慣れた隊員たちだけが技の全容を察し、戦慄してしまう。
燕返し――カンナの得意技が、ついに影の肉体へと到達する。
襲撃者は急停止し、真後ろに飛び退くことで刃の直撃を避けてみせた。しかし、それをもってしても侍の放つ凶刃を防ぎきることはできない。カンナの刀の切っ先は黒い影の胴体を斜めに斬り裂いてしまう。
ついに攻撃が通ったことで、誰しもが息をのむ。たった一撃ではあったが、その一太刀は明確にその場にいる仲間たちの士気を昂らせた。
リオンも心の奥底で、「よしっ!」と唸る。だが、一瞬笑みが浮かびかけた彼の表情を、再び驚きの色が塗りつぶしてしまった。
切り裂かれた影の胸元からは、一滴の血も流れ落ちていない。黒い影は悠然と宙がえりをしながら、懐から取り出した小さな物体をカンナ目掛けて放り投げた。
飛来するそれを、カンナは反射的に刃で切り裂く。影の投げつけた丸い“球”は、空中で真一文字に切り裂かれてしまった。
その正体にいち早く気付いたのは、この場でただ一人、“盗賊”の技術を色濃く学んだリオンだけだった。
「――ダメだぁッ!!」
彼の叫び声を追うように、切り裂かれた球から粉塵が放出された。黒い煙は瞬く間に洞穴の景色を染め上げ、通路にいる互いの姿を覆い隠してしまう。
視界が覆われただけではない。
煙は吸い込んだ者の肉体を蝕み、瞬く間に力を奪っていく。粘膜に触れるだけで激痛が走り、目を開くことすら容易ではない。息をすればするほどに喉の奥に激痛が走り、呼吸が困難になっていく。
暗闇の中に、『デュランダル』の隊員たちが苦しむ声と、咳き込む音が響き渡った。さしもの精鋭たちも、予想だにしなかった事態に大混乱を起こしているようである。
そんな黒煙に包まれながらも、リオンは口元を押さえ、目を細めたまま闇の奥を睨みつけた。必要最低限に呼吸を続けながら、必死に志向を巡らせていく。
手にした短剣、投げナイフ、そして煙幕――どれもこれも、リオンが身に着けたものと同じ“盗賊”の技術ばかりだ。
それらをあの黒い襲撃者は、見事に、的確に使いこなしてみせている。
(一体……何者なんだ――?)
リオンは歯を食いしばり、片手で自身のナイフを握りしめた。通路が混乱に包まれるなか、意識を集中し、必死に闇の中で気配を探る。
一歩、また一歩と濃厚な殺気が動く。
正体もまるで分らない黒い殺意が、視界を奪われたリオン目掛けて着実に距離を詰めてくるのが分かった。
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