1 女神に教わる異世界のルール

 深い緑の匂いが鼻をかすめたことに気付き、ケンジは目を開ける。


 気がつくと、ケンジは森の中に寝転がっていたのだ。


「……なんだ、どうなった?」


 周りを窺うと木々が立ち並び、地面には草が生い茂っている。


 近くで鳥の鳴き声と羽ばたき音が聞こえ、見覚えのない場所である事も理解する。


 加えて、近くで観光バスが転がって炎上しているような状況ではないようだ。


「バスが消えた……ボクが放り出されたのか?」


 足腰を確かめ、自分の身体に傷がない事を確認する。


 腕にも頭にも痛みはない。運動するのに問題はないようであった。


 立ち上がって木に触れてみたが、これも幻と言うわけではないらしい。


「どういうことだ……? まさか死後の世界とかいうワケじゃないよな」


 多少の混乱を抱えつつ、ケンジは耳を澄ます。


 何か人の話し声でも聞こえないかと思ったのだ。


 だが、聞こえてきたのは鳥の鳴き後と風の音、そして水のたゆたう音であった。


「水場があるのか。……そっちに人がいるかも」


 古来より水場は生命の集まる場所である。生きるために水は絶対に必要不可欠。川や湖があればそこに生物が集まるのは当然の理なのだ。


 であれば、そこに集落がある可能性もある、とケンジは水音の方へと向かった。




 森が切れた場所までやってくると、急に視界が開けてまばゆい日光に目を細めてしまう。


 そこに現れたのは大きな湖であった。


 水面は陽光を跳ね返して揺れ、遠くの対岸の茂みが揺れたのも見えた。


「やっぱり飲み水に使ってる動物とかがいるのかな」


 ケンジも湖に近付き、その水に触れる。


 冷たい水はどことなく清廉せいれんさを感じさせた。


「飲める……のかな」


 先ほど、茂みが揺れたのを見たが、アレが湖に飲み水を求めにやってきた野生生物なら、この湖の水も飲めるだろう。だが、都会生活に慣れているケンジにとってこの水は果たして大丈夫なものなのだろうか。


『異世界から来た方ですね』


 ケンジが水を飲もうか否か迷っていると、聞き覚えのある声が降ってくる。


 この声は、バスの中で聞いた。


「誰だ! ボクをここへ連れて来たヤツか!」

『その通りです』


 ケンジが顔を上げると、湖の一部が光っている事に気付く。


 陽光を跳ね返しているわけではなく、不自然に、水の底から光源が近付いてきているかのような光り方であった。


 ケンジがしばらく様子を見ていると、水面が膨れ上がり、水の中から女性が現れた。


 ウェーブのかかった長い金髪を揺らし、水の中から出てきたはずなのに全く濡れていない白い布を纏い、身の丈を越す長い杖を持った女性は、見るからに湖の精霊と言った出で立ちであった。


 彼女はケンジを認めると、頭を下げる。


『……まずは急にお呼び立てした事をお詫び申し上げます』

「あ、いや……」


 突然現れた美女に丁寧な対応をされて、ケンジは目に見えて動揺する。


 元々、あまり女子から相手にされた事もないケンジ。まともに会話が出来る女性と言えば母親ぐらいであった。


 そんな彼が急に現れた美女とまともに会話しろ、などとかなりハードルの高い案件である。


 しかし、そんなケンジを気にせず、女性は話を続ける。


『私はこの泉、ひいてはこの辺り一帯を治める土地神、エストと申します』

「エスト……さま?」


『そして、あなたをこの世界へ呼び出したのも私です』

「呼び出した……そ、そうか、異世界召喚!」


 エストの言葉を聞き、ケンジもようやく状況に見当をつける。


「死地に際して隠された超能力が開花する展開かと思ったけど、そうか……異世界召喚! そういうのもあるのか!」


『……あの?』

「あ、すみません、続きをどうぞ」


 話の腰を折られたエストは、気を取り直すように咳払いをはさみ、話を続ける。


『今、この地域は危機に瀕しています。あちらをご覧ください』


 エストが杖で指した先を見る。


 背の高い木々の向こう、かなり遠くのほうに雪をかぶった山脈が見えた。


「あの山が、どうかしたんですか?」

『あの山に、邪竜が住み着いたのです』


「邪竜……その竜がこの地を滅ぼそうとしてるんですね?」

『話が早いですね。その通りです』


 エストが手をかざすと、彼女の手の中に一つ、小ビンが現れた。


 中にはなにやら紫色の煙が充満しているようである。


『これはこの世界の生物に毒となる魔界の空気、魔瘴気ましょうきと呼ばれるモノです』

「魔瘴気……? その紫色の煙が?」


『その通り。まともな生物がこれを長く摂取し続ければ体調に異常をきたし、最悪の場合は死に至ります』

「その魔瘴気とやらがどうしたんですか?」


『あの山に住む邪竜、アグリム・ドゥガルはこの魔瘴気を無限に生み出し続ける事が出来ます。このまま放っておけば、この地だけではなく、世界全てに影響が出るでしょう。それを防ぐために、かの邪竜を討ち滅ぼさなければなりません』

「全世界を埋め尽くすほどに、その魔瘴気を生み出すんですか……」


『かの竜が生み出す瘴気は、文字通り無限です。アグリム・ドゥガルは一切の補給もなしに魔瘴気を生み出す事が出来ます。……既に近隣にある町のすぐ傍まで魔瘴気の汚染が進んでいるのです。ことは一刻を争います』


 手に持った小ビンを再び消し去り、エストは代わりにひし形の小石を出現させる。


 それを手で扇ぐと、フワリと宙に浮き、そのままケンジの目の前まで飛んできた。


「……これは?」

『それはブレイヴと呼ばれる石です。これを砕けば、あなたに特殊な技術が宿ります』


「スキルを手に入れるって事か……。何か代償が必要になるとかは……?」

『あなたから対価を得ようと言うことはありえません。この世界を救ってもらおうというのに、どうして対価を背負わせましょうか』


 何気ないエストの言葉であったが、確かに『この世界を救ってもらう』と言った。


 やはり、ケンジはこの世界を救うために召喚された勇者なのだ。


 否応にもケンジの心がたかぶってしまう。


「まるで小説や漫画の世界だ。……本当に、こんな事があるんだ!」


 目の前に浮いているブレイヴという石を握り締め、ケンジは興奮に打ち震える。


 夢にまで見たファンタジーの世界。そしてそれを救う使命を帯びた自分。


 元の世界にはゴマンと存在した夢物語を、今自分自身が体験し、その当事者となっているのである。これに興奮を覚えずにいられようか。


 力の入った手に握りつぶされ、ブレイヴがパキリと音を立てて割れる。


 その瞬間、ケンジの目の前が一瞬白く埋め尽くされ、次に瞬きをした時には元の景色に戻っていた。


「な、なんだ……?」

『ブレイヴによってあなたに特殊な力が宿りました。今、あなたは基本的な体術、剣術等の知識と技術を会得えとくしたのです』


「そんな簡単に……。いや、でも確かに」


 なんだか知らないが、頭の中には知らない知識が埋め込まれたような感覚もある。

 ケンジは試しに、その辺の木の枝を折り、軽くその場で振るう。


 枝を剣に見立て、演舞のつもりで枝を振ってみたが、自分に覚えのない動きが身体に染み付いているかのようであった。


 次にどう動き、どう剣を振れば相手をしとめる事が出来るのか。


 それが理屈ではなく、感覚で捉えられたのである。


「すごい! これが異世界の力!」

『その力があれば、ある程度は戦う事が出来るでしょう。ですが過信しすぎないでください。その力はあくまで基本的なモノ。格上相手には通用しないものとお考えください』


「うーん……そういう手間をすっ飛ばして、達人クラスのスキルって手に入らないものなんですかね?」


 茶化す調子でエストに尋ねると、彼女は小さくため息をついた。


『可能ではあります。私の元には、今お渡ししたブレイヴよりも強い効果を持つブレイヴが幾つか存在していますが……これを今のあなたが使用したなら、恐らくあなたは廃人と化すでしょう』


「は、廃人!? いったい、どうして!?」

『ブレイヴを手に入れると言うことは、即ちその石に刻まれた時間と経験をその身に宿すと言うこと。急激に大量の時間と経験を身体の内に収めようとすれば、身体の方に無理が来ます』


「つまり……いきなり強力なスキルを覚えようとすると、脳がパンクする、と」

『そう考えていただいて結構です』


 急に達人レベルのスキルを身につけるのはどうやら無理らしい。


 世間ではチートと呼ばれるレベルのスキルを一気に身につけるのがトレンドであるが、ケンジの場合はそうはいかないようである。


 少し不便さを覚えて口を尖らせていると、エストが優しく微笑みかける。


『ご安心ください。いずれあなたにも強力なブレイヴを宿す事は出来ます。しかも、そう遠くはない未来に』

「どういう事ですか?」


『この世界にはあなたの世界にはなかったマナと呼ばれる空気のようなものが存在しています。それはこの世界の生物に必要不可欠な存在ですが……あなたのような異世界人には、その身体を進化させるきっかけになります』

「進化って……ボクの身体がどうにかなるんですか!?」


 進化と言われてケンジの脳裏に浮かんだのは某モンスターのゲーム。


 あのゲームの場合、進化に際して大きな力を得ると共に、見た目が大きく変わることがほとんどであった。


 もしかしたらケンジも人間としての姿を失うのではないか、と危ぶんでいると、エストが柔和に微笑みながら首を横に振る。


『見かけは恐らく、今とほとんど変わらないでしょう。ですが、その内容は大きく変化します。筋肉はより少量で、より強い力を発揮します。骨は鉄のように頑丈になり、それでいてしなやかさを失いません。また、その目は千里を見通し、耳は遠くの葉擦れさえ聞き漏らさず、一度に百の事を理解し、また解決する力を備えます』


「なんだか良くわからないけど……すごく強くなれるって事か」

『端的に言うと、そうなります。あなたはこの世界で呼吸をするだけでマナを摂取し、刻一刻と進化し続けるのです』


「そして、その進化が強力なブレイヴを許容できる程度まで進めば……!」

『あなたは達人クラスのブレイヴを手に入れても、軽々とその力を振るう事が出来るでしょう』


 なんて簡単なのだ、と心の中で吼える。


 まさか呼吸をしているだけでレベル上げが出来るとは、これほど簡単な作業があるのだろうか。まるで詐欺にでも遭った気分である。


 しかし、これは現実。


 エストの話を聞く限り、彼女がケンジを騙す必要も感じられない。


 竜の脅威に晒され、それを取り払うために異世界から勇者を呼び寄せ、その成長を見守り、いずれは竜を倒す。道理にはかなっている。


「……わかりました、エスト様。ボクはこの力を使って、必ず竜を倒して見せましょう!」

『そう言っていただけると助かります。異世界の勇者様、どうか、この地をお救いください』


 ケンジの言葉に満足したように深く頷いたエストは、そのまま光の粒子となって消えた。


 その光の粒子が全て消えるまで、ケンジは湖のほとりで実感を噛み締めていた。


 くそったれな世界を捨て、異世界にやってきた。


 そしてその上、楽してレベル上げが可能で、人生楽勝コース。


 これほど恵まれた環境があろうか。


「ボクは……この世界で生きるぞ!」


 決意を言葉に出し、ケンジは踵を返す。


 ブレイヴによって植えつけられた知識には、このあたりの土地勘もある。


 どうやら湖の北部にそこそこ大きな町があるらしいのだ。


 まずはそこへ行って拠点を構えよう。そう思ったのである。


 ケンジが新たな人生の一歩を踏み出した――その時。




「きゃあああああああああ!!」




 森の静謐せいひつさをつんざくような悲鳴が木霊こだまする。


「……イベントか!」


 ケンジは弾けるように森の中を駆け出した。

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