第一章 砦墜とし編・終幕1
敵拠点墜ちる――その報が東壁にいたエストラーゼ伯爵の下に届いた時、彼が無言で立ち上がり執務室を足早に立ち去るのも無理はなかった。
彼が向かったのは、城壁の最上階で今も外を監視している【遠見】ができる兵士達の所だった。
エストラーゼ伯爵が城壁に上がり日光の眩さに目を眇めた時、周囲の警備兵たちが俄かに騒めき敬礼した。
城壁の上で警備する者たちは、つい数分前に壁内へ向かった巫女が操る霊装気球を見送っている。今度は何事かとここ数日で噂の的となっていた巫女が、今日は壁外へ出てから昼を待たずして帰ってきているのだから、森の先で異常があったのではと勘ぐるのも無理はなかった。
そんな兵士たちの中から、伯爵は隊長格の兵士を見つけ出すと、【遠見】に優れたものを呼ぶように告げた。程なくして兵士長は眼の良い弓兵を四名ばかり連れてきて、伯爵の前に整列させた。
「魔物の砦が墜ちたというのは、誠か」
開口一番、エストラーゼ伯爵は兵士に答えを求めた。弓兵たちはその言葉を聞くと、身体を震わせながら言葉を紡いだ。
「申し上げます。エストラーゼ閣下、川の向こうにあります森林の砦は、小生が見る限り、間違いなく機能しておりません……それどころか河川が氾濫し、砦の壁が半壊、砦内部で動くものは件の巫女が移動した後に確認できませんでした。閣下、これは一体何が起きたのでしょうか、教えてください、目に見えるモノが信じられません」
弓兵たちは一様に同じことを報告した。巫女の乗る気球が移動する度に、異変が起きたのだと。突然現れる魔物の群れ。同士討ちを始める魔物たち。突然反乱した河川。気球から投下される岩石。森から立ち昇る噴煙。
そしてほんの僅かに太陽が動いた間に、濁流で削られた森の隙間から姿を現した砦は、すでに崩壊していた。
下級兵士達にはアコニタムの情報が知れ渡っていないため、この動揺は当然と言える。アコニタムを監視していた兵士達ならば、それらの情報を結びつけることができるのだが、余りの荒唐無稽さに下級兵士達の動揺は酷かった。
伯爵自身、アコニタムの荒唐無稽な力を知った時、初めは不信を表していた。
しかし目の前で起きる数々の特異事例に、埒外な存在であることを十二分に理解した。その上で今回の出来事である。
遠く、徒歩半日以上の距離にあると考えられていた砦――そこはこれまで何度も東壁周辺の民と兵を苦しめてきた元凶共の根城である。
己の目で見て、同じものを見る者がいなくては、到底信じられない出来事なのだ。
「あいわかった、職務ご苦労。兵士長、我が兵を招集させよ! 砦が墜ちたか確かめに行くぞ」
「閣下⁉」
踵を返し昇降機に向かうエストラーゼ伯爵に、側近の男が慌てて追従した。
「巫女に先触れを出せ。現地まで案内させよ」
「閣下、危険で御座います! 如何に教会に身分を保障された巫女であっても、あやつは魔物を使役しております……閣下も宣われたでは御座いませんか、あれに入れ込むな。不用意に近付くなと」
しかしエストラーゼ伯爵は部下の諫言に渋面を作る。
アコニタムが魔物を使役しているのは、もう既に三日も見ているのだ。
それがいつ反旗を翻さないか監視の目を強化していたが、彼女からは野心よりも何かから逃れようとする脅えの方が強いことを心呪術士が分析していた。
アコニタムが恐れる者。それは、間違いなくあの手紙に書かれていた『魔王』に他ならず、それを知っている伯爵としては彼女の扱いや距離の取り方に悩んでいた。
だが今回の戦果を鑑みる以上、魔王が特別視することも納得であった。
アレは知恵ある者側にいることも、魔王の側にいることも不自然な存在なのである。
「見極めねばならん。それを先延ばしにすれば、どのような厄災になるか分かったものではない。これは王国の城壁を預かる武門の者としての務めである」
アコニタムは果たして、獅子身中の虫か、それとも救世主か。エストラーゼ伯爵とその側近は悲壮な覚悟で彼女の下へ向かった。
◇
「ねえ、兵士長。私って臭いかな?」
唐突に尋ねられた鳥翼の女怪の
「なぜそのようなことを仰るのですか? ご主人様から不快な臭いがするはず御座いません……大変愛くるしい香りで御座います。私の鼻は常にご主人様を求めて止まないのですから」
「え、なにそれ、恐い」
急に妄言が飛んできたため、アコニタムは兵士長から数歩離れた。
アコニタムが自身の臭いを気にしたのは、先程まで伯爵一行と対談していた際に気が付いたことだ。
終始渋面のまま話を進めていた伯爵やその傍に侍る精鋭たちの様子を見てそう思ったのだった。
確かに勇者召喚の儀式当日に聖油と聖水で身を清めた後は、身体すら拭いていなかったと思いだした。
約四日間も身綺麗にするのを忘れていた訳で、しかもフードローブは洗ってもいない。
垂れ下がった髪を手に取って鼻に近付けると、今日は微かに煙臭い。岩を焼いていた時に煙が移ったのだろう。もしくは野宿の時の焚き火か。
この臭いが全身から出ているとなると、沐浴もせずに貴賓の前に出るべきではなかったなとアコニタムは思った。
まあしかし、戦場帰りなどそんなもので、報告のためにいちいち身支度を整えることは下級兵士は行わないものだ。
伯爵一行が気にしていたのはアコニタムの態度や様子であって、そこまで気にする余裕などなかった。彼らが懸念していたのはアコニタムの機嫌であり、自分たちとの交渉条件が拒絶されることだった。
アコニタムに砦までの同行を願ったことや、アコニタムが持ち帰った様々な物資の換金をもうしばらく待ってほしい旨を伝え、それを快諾してもらった段階でエストラーゼ伯爵は内心で大きく安堵の息を吐いていた。
当然ながらそんな下手に出ている貴族の内心などアコニタムは知る由もない。
それでもエストラーゼ伯爵のアコニタムへの警戒心が顔に出ていることをアコニタムは自身の粗相と勘違いしていた。
色々経験値の足りないアコニタムであった。
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