エピローグ
エピローグ
あれから数日、わたしたち兄妹は何事もなかったように過ごした。
いつも通りの距離感で、仲のいい兄妹を取り繕って、誰にも──特に両親には──あのことがバレないように、細心の注意を払って生活していた。
それでも、友達は何かを感じ取ったようでわたしに訊いてきた。
「なんかいいコトあった?」
嬉々として、そんなことを言う。
いいこと。
……いいことなのだろうか? 兄と身体を重ねたことが。
……そんなわけがない。近親相姦の、どこがいいことなんだ。
満たされているのは、わたしだけ。両親も、友達も、世間も、そして兄も。誰も幸せになれない。わたしひとりの身勝手で、数えきれないほどの不幸が生まれていく。
でも。
わたしは、幸福を感じた。
わたしは確かに、幸せだ。
だから、間違いではない、のだろうか。
「……内緒」
意図せず緩む頬に、嫌悪が貼り付く。生温い罪の意識が、体温に同化していく。血管の内側を泥にように流れ回って、わたしの一部になっていく。
「ちぇー」
なぜかふくれている友達の横顔を見て、正体不明の優越感が芽生える。それは瞬く間に成長して、体内を隅々まで侵食し、蔓延っていく。道端に放置された動物の死骸を直視するような、気色の悪い感覚だった。
兄と禁忌を犯すことの異常性を、少しでも疑問に感じたわたしは、もう……。
兄は、以前よりも明るくなった。
それはわたしが気付く程度の変化だけれど、かつてあの人が隣にいた時のような、蒲公英の綿毛みたいにふんわりとした微笑みを浮かべるようになった。
兄はきっと、元通りになっている訳じゃない。昔みたいに優しくて、頼れる兄が返ってくるわけじゃない。
ぼろぼろと零れ落ちた心は、掬い上げることができないんだ。壊れた心の片隅に、兄はあの人を見出している……わたしに対して。 だからわたしは、いつまでもあの人の代わりに、あの人として兄の傍にいると決めた。
決めた、はずなのに──。
四階の音楽室で、誰かがベートーヴェンのピアノソナタ第十四番『月光』を弾いていた。昇降口でその躓きがちな音色を聴きながら、靴を履いて正門へ向かう。赤く燃える世界の中を、一人歩く。
通学路から少し逸れたところにあるドラックストアに立ち寄って、コンドームを買った。露骨に期待している自分に嫌悪感を抱きながら、それでも、仮初の幸福が身体を満たしていくあの感覚が忘れられずにいた。
レジで会計をしている時だって、気恥ずかしさは微塵もなく、ただ胸の奥で暴れ回る自己嫌悪と鎮静化されない欲望が、神経痛のようにちくちくとわたしを嬲っていた。
わたしが、みんなと同じように幸せを求めるだけで、たくさんの人が傷つく。わたしの幸福とみんなの幸福は、表裏一体で切り離すことができない。
もちろん、世間的にも倫理的にも、わたしが兄と結ばれることは許容されることじゃない。
だからわたしは自分の気持ちを、頑丈に重りを縛り付けてピンク色の海の底へ投げ落とした。何があっても浮き上がってこないように、自分を律して欺きながら、このまま一生を過ごすのだと。
そんな決心は、一夜にしてガラクタと化してしまった。
一度でも許してしまえば、堰を切ったように流れ出す感情を——想いを止めることはできなくなった。自分自身を統御できなくなった。後はもう、爛れていく関係に身を委ねるだけ。わたしをあの人と錯覚している間は、兄とわたしが幸せでいられる現実に酔っていればいい。それから先のことなんて、考えたくない。
──再び、わたしの内側で何かが蠢いた。
今度はハッキリと分かる。
それが、貪欲で痛みを伴う、怒りを纏った嫉妬だということに。
(そうだよ。もうあの人は……アイツは、いない)
恐ろしいまでに底無しの渇望。尽きることのない独占欲。
わたしが今まで溜め込んできた、六年間の蟲毒。
わたしをわたしに繋ぎ止めていた、兄の想い人への妥協、許諾、遠慮──それらの鎖が、バチンッという音を立てて、弾け飛んだ。
そうだ、もういないんだ。 アイツはもう、どこにもいない。
死んだ人間と比べるなんて馬鹿馬鹿しいかもしれないけれど、お兄ちゃんへの想いはわたしの方が強いに決まってる。
だからわたしが、お兄ちゃんを奪う。
手に入れた幸せを、みすみす手放すなんてしたくない。
これからまた、誰かのものになるくらいなら。
爛れたこの関係から抜け出せないように。
どんな手を使ってでも。
お兄ちゃんを、溺れさせるんだ。
「……死人に口なし──」
ひとり、呟く。
ふと口をついたその言葉に、思わず背筋が凍る。氷水の入った桶を、頭上でひっくり返されたみたいだ。
けれどその冷たさは、わたしの決意を固めるのに十分なものだった。液状で、指の隙間からするりと零れてしまう、そういう曖昧模糊な意思の群れを、氷の如く確かな、結束されたひとつの形へと変貌させる。
二度と引き返せない、わたし以外が不幸になる道でも、それはわたしが幸せを求めてはいけない理由にはなり得ない。
アイツにばかり囚われているお兄ちゃんを、目覚めさせる。
お互いに、お互いがいないとダメになるくらい依存させる。
エゴでもなんでも、知ったことじゃない。
……これは、臆病なわたしの、身勝手な復讐だ。
口の端がつり上がる。それを左手で隠しながら、冷たく妬心に揺らぐ瞳で帰路につく。 もう、いまの兄は狂っている。家族の一人に亡き恋人を重ねるほど、心が壊れている。伝えたい想いも染め上げたい劣情も、ぼやけた恋人が重なったわたしに対して吐き出してしまうほど。
けれど、わたしも狂っているんだ。そうなるように唆して、兄の想いを踏み躙るように、叶わないはずだった欲望を満たしていった。人肌を、体液を、甘く囁く恋人への言葉を、自分に向けられたものだと勘違いできるほどには、狂っている。
わたしたち兄妹は、狂気に陥った。
もう、互いに抜け出すことはできない。
爛れていく。朽ちていく。──依存していく。
帰宅して、制服から部屋着に着替える。
普段ならそのまま自室で適当に過ごしているが、リビングで兄の帰りを待っていようと思い、本棚から適当な本を──いや、あの後味の悪い不倫話の本を引っ張りだした。
ふと、真横に置かれている化粧鏡を覗いだ。
わたしにはそこに映る顔が、自分のものだと認識するのに時間が掛かった。
見たことも浮かべたこともない、そういう笑顔をしていた。
きっと、あの夜。兄を抱きしめた時にしていた表情。淫靡な気配を湛えて、据わった焦げ茶色の瞳が見つめ返している。
額に汗が浮かんだ。
兄には見せられない表情を、強引に引っ込める。自室を出て、階段を下っていく。リビングの椅子に座って、本を開いた。もう既に知っているバッドエンドへの導入をなぞるように、文字を追っていく。
「ただいま」
しばらくして兄が帰宅した。
わたしは玄関まで小走りに近づいていく。分厚く重たそうなコートを気怠そうに脱いでいる姿がそこにはあった。
おかえり、と声を掛けようとして── 戦慄した。
見慣れたアイツの姿が、兄の背後に見えた。
影のように暗く、べったりと兄を抱きしめるように佇んでいた。おどろおどろしいまでの気配が、一帯の空気を凍り付かせるようだった。
息が止まる。背骨が軋むようだった。ありとあらゆる筋肉が硬直して、喉が引き絞られていく。心臓が悲鳴を上げ、野角が狭窄し、一点に吸い込まれる。
──双眸。
まるでわたしたちがしたことを、見ていたとでも言いたげな様子で、わたしの方を無表情で見つめている。
虚ろで、深い漆黒の双眸が、わたしをじっと見ている。
もちろん、幻覚だ。アイツはもう死んでいるのだから当たり前だ。まだわたしの心の中に残っている、後ろめたさや後悔が見せた、触れることのできない偽りの存在。
瞬きの間にそれは消えて、少しだけ怪訝な表情を滲ませる兄が、こちらを見ていた。
「どうした……?」
その声で、現実に引き戻される。苦虫を噛み潰したような、歪んだ表情を浮かべる前に、慌てて取り繕う。
「……ううん、なんでもない」
「そっか」
「そうなの」
──わたしの中に、明確な怒りの灯が熾った。
それは静かに、そして確実に、わたしの心に燃え移った。
死んでまで、お兄ちゃんに近寄ろうとするな。
お兄ちゃんの中から出ていけ。
お前のことなんて、直に忘れさせてやる。
わたしのことしか考えられないように。
その頃にはきっと、わたしも爛れた関係に溺れているから。
誰にも──お前にも、奪わせない。
お兄ちゃんは、わたしのものだ。
ゆっくりと兄に近づいて、抱きしめる。
色情を誘うように、胸を押し付ける。
下腹部の疼きを抑え込むように、膝を擦り合わせる。
兄の首に手を回して、頭を抱き寄せて、表情を見られないように。──淫魔のように艶めかしく光る瞳を、見られないように。
「おかえり、お兄ちゃん──」
キスの代わりに、軽く爪を立てた。
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