わたしと兄〈二〉
兄の通っている大学──わたしの志望校でもある──は、電車で四十分ほどの距離にある。わたしが通っている高校は比較的駅の近くにあるので、途中まで一緒に登校する。
一年前はわざわざ遠回りしてまで、エリカさんがわたしたちの家に迎えに来ていた。二人きりで登校する今は、少し……いいや、結構静かで物寂しい。
「じゃあ、兄さん。気を付けて」
「はいよ」
素っ気ない返事。だけど、そのくらいがいいんだ。
兄と別れて、制服を着た生徒たちの波に乗る。有象無象の一つに溶けていく。
教室に入って、自分の席に着く。すでに友達は登校していて、わたしの席の近くで喋っていた。こんなわたしでも環境に慣れて誰かの輪に入れていることを、時折わけもなく恐ろしく感じることがある。ゼリーのように柔らかく、けれど決して消えることのない、過剰気味な配慮と誰にでも線を引いているような空気の中で、絞め殺されそうになる。
端的に言えば、わたしはあまり学校が好きじゃない。
それは先程述べた所感もそうだけど、もうひとつ決定的な理由がある。
別に勉強が嫌いという訳でもない。運動も同じように。
確かに大人数で活動することは苦手だけれど、それほど大きなストレスでもなければ忌避しているわけでもない。
では、なぜ?
それは簡単なこと。
「ねぇねぇ聞いた? あの子、バスケ部の先輩と付き合い始めたらしいよ!」
──恋愛話が持ち上がるから。
みんなは普通の恋をしているだろうし、常識的な範囲内で恋愛をするはずだ。そんな『普通』の中に入れていないわたしを、勝手に非難されているような気になるから。
もっと言えば、学生に限ったことではなく、人間にとって恋愛はひとつのアイテムで、ステータスだ。誰かの恋を、誰かが勝手に解釈して、価値を見出す。もしその対象に、わたしがなったら?
周りからの反応は、火を見るより明らかだ。実の兄を異性として認識しているわたしは異常で、格好の的になる。笑いものにされるに決まっている。
そう、わたしは異常だ。普通の枠には収まることができなかった。たとえそれが無辜な幼い頃の恋心でも、捨てることができずに引き摺っているわたしは。
だから毎回、そういう話題が持ち上がるたびに肝が冷えるし、わたしが異常だと再確認させられているような気分になる。だから、学校はあまり好きじゃない。
退屈な時間ほど長く感じるもので、六時限目が終わる頃には大分体に疲れが出ていた。
一足早く大学受験が終わった生徒たちは、張り詰めた雰囲気や焦りなんてものは微塵も感じさせない、軽やかな足取りで教室を出ていく。わたしは一般受験なので、他の大半の生徒と同じように、まだもう少し気の抜けない期間が続く。学力が足りていたとしても、勉強を続けることに損はないし、継続していなければ成績が落ちる可能性もある。
後悔先に立たずだと心に言い聞かせ、あまり気乗りのしない足取りで、参考書の分だけ重くなっている鞄を背負い、自習室へ向かった。
各々集中できる環境に差異があるように、わたしと同じく家よりも学校の方が勉強に集中しやすい生徒たちが集っている。
向かい合って小声で問題を出し合っている人達もいるが、多くは黒板と向かい合う形で勉学に励んでいた。
英単語帳を捲る音、シャープペンがノートの上を走る音、消しゴムを机に置く音。……程よく静かな雑音が、わたしの耳に届いてくる。一番後ろの席で、辺りが暗くなるまで暗記科目に没頭した。
疲労に重なる疲労で、少し眠気が出てきたころ、ようやく下校する。
頼りない街頭の灯りが、舗装の荒い歩道を照らしていた。時折点滅しているその黄色がかった白い光を見上げながら通学路を帰っていると、三十メートル向こう側の暗闇から、人が歩いてきた。よく見るとそれは兄だった。
「あ」
その声が聞こえたのか、俯きがちに歩いていた顔がこちらに向いた。
笑顔で小さく手を振ってくれた。
少し翳が掛かった温情を感じる微笑みに、心のどこかが痛んだ。
そんな微かな痛みをやり過ごして、同じように胸の前で小さく手を振る。
「ずいぶん遅いじゃん」
「そっちこそ」
「俺はまあ、ちょっと寄り道してただけ」
「そうなんだ」
「……もしかして、この時間まで勉強してたのか?」
「まあね」
「勤勉なことで」
「褒めてる? 貶してる?」
「もちろん誉め言葉だよ──」
こんなにも普通の会話が、何の気なしにできることを嬉しく思う。それはわたしが『普通』から逸脱していて、特殊な人間だということを突き付けてくる。嬉しいのに、後ろめたいものが紛れている。
二人並んで、少し肌寒い緑道をとぼとぼと歩く。
薄く赤色に染まった手を繋いで歩きたい、なんてことは思っていても、どうしても行動には移せない。兄はおそらく拒まないし、だからこそわたしはもどかしい気持ちのまま空を見上げる。取り留めのない、くだらない話をだらだらとしながら歩いていると、気付けばもう家についていた。
帰宅すると、珍しく父がいた。
「おお、おかえり」
「ん」「うん、ただいま」
リビングに置いてあるテーブルで、難しそうな顔をしてパソコンと睨み合っている。その様子を気にも留めず、兄は自室へと行ってしまった。画面には何かしらの資料なのか、色調の少ないグラフやメモ書きが表示されている。
その画面を人差し指で小突きながら、父はいかにも面倒くさそうに溜息をついていた。
「明日から三日間、出張入れられちゃってさ」
「そうなんだ」
父の出張に関しては、決して多くはないけれど珍しいという訳でもない。
本人も「旅行気分で頑張るしかないなぁ」なんて呑気なことを言っている。その三日間で変わることと言えば、毎食一人分少なくなることと、洗濯物の量が少し減るくらい。
流石にこの歳になると、寂しいとかそういう感情もない。いつも帰りが遅いから、会話自体も母に比べると少なく、どことなく家族の中では存在が薄い。そう思ってしまうわたしは薄情なのかもしれない。
「母さんには?」
「もう連絡したよ」
そう言うと軽く伸びをして、台所へ向かった。次いで冷蔵庫が開く音。
緑茶を引っ張り出してきて、父はそれを飲みながらまた席に着いた。始発に乗らないと間に合わないかなぁ、なんて残酷な発言は聞かなかったことにした。心の中で労いの言葉を掛けておく。
そしてわたしも自室にて勉強をする。
と言っても、今日の授業で解いた過去問をざっと浚う程度のこと。それほど時間もかからないし、夕飯まで少し時間を持て余す。
最近は一応受験生なわけで、書店に立ち寄ることも、友達とどこかに遊びに行くこともしていなかった。
趣味と呼べるものは、強いて挙げるならば読書くらい。この趣味は兄の影響かもしれないけれど、わたしという存在に兄を構成する要素が組み込まれていることに、安心感というか ……そういう感情があった。
特定の作家が好きで追っているわけでもなければ、新刊情報を元に書籍を購入しているわけでもない。ふらっと立ち寄った時に目に入った、面白そうな本を手に取るくらいのものだけど。それでもその習慣を中学の頃から続けていれば、必然的に本棚は窮屈になっていくもので。空きスペースは一番上の段だけで、他は埋まってしまった。
その本棚の前に立ち、無作為に一冊を引っ張り出す。読破済みの本しか読むものは無いのでどれでもよかった。その本を読み始めて数ページのところで、内容を思い出す。確か不倫に走った夫が、妻と不倫相手両方を失い破滅する物語。非常に後味が悪く、気分を害するような、肚の奥から静かな虚しさが込み上げるような、そういう作品。
文字を追っていると、どのくらいの時間が経ったのか分からないが、兄がドアをノックして報せを持ってきた。
「夕飯できたってさ」
「うん」
わたしは密かに、あの作品の不倫相手に対して劣等感を抱いている。
不倫すら許されないような関係性がすでに構築されていて、その枠組みの中から出ることができないわたしにとって、恋も愛も、嘘同然だった。
それに、エリカさんは既に故人だ。仮にわたしが常識を捨てて、兄と結ばれようと行動したって、それを咎めて、嫉妬し憎悪する相手はいない。きっと上手くいったって、虚しさが残るだけ。
……考えても意味のない事ばかりが、いつも頭の隅の方で燻っている。
いつまでも諦めきれない、往生際の悪いわたし自身に腹が立つ。
喉元まで出かかった溜息を押し戻して、食卓に着いた。
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