廃工場③

 エンジュは泣きそうな声でエニスの名を叫んだ。


 相手は腰が引けているとはいえ、刃物を持っている。いくらエニスが爪と牙を持ち、運動能力に勝っていたとしても、たった一撃が致命傷になることもあるかもしれない。


 しかしどれだけエンジュが代わりに戦いたいと思っても、体中に貼られた咒符じゅふで動きを縛られている限り、どうすることもできない。真子に吠えかかるエニスを横たわったまま見守るしかないエンジュの胸の内は、今にも張り裂けんばかりだった。


 そのとき、窓からもう一人が廃工場に入り込んできた。窓のへりに付いたままのガラスの割れ残りを砕いて、安全にくぐれるようにしてから窓枠を越えてきた少年は、少し危なっかしい様子でガラスまみれの床に着地した。


「ユウマ!」エンジュは弾けるように叫んだ。「いいところに来た、こいつをがしてくれ!!」


 ユウマはエンジュを見て目を驚かせた。服はあらゆるところが裂け、全身が血まみれで、とりわけ腕は直視するのが辛いほどむごたらしく肉がえぐれている。


「エ、エンジュ……この傷は──」

「バカヤロー、ビビってんじゃねえ! こんくらいツバでもつけときゃそのうち治る。いいから早く、このクソッタレな札を全部ひっぺがしてくれ!」


 ユウマは急いで咒符を剥がし始めたが、血でぬめる上にエンジュが傷だらけなので、一枚二枚を剥がすのにも時間がかかる。


「────っ」

「ご、ごめん! 痛かった?」

「気にすんな──こんなのは何でもねぇから、思いっきりやってくれ」


 痛みを声に出さないよう、エンジュはギュッと口をつぐんだ。


 ユウマが腕や胴の咒符を剥がしてしまうと、エンジュは待ちわびたように上体を起こした。スカートをまくって、脚の付け根まで貼られた残りの咒符を乱暴に引きちぎっていく。


「恩に着るぜ」


 エンジュはすぐに立ち上がった。


「こんなに早く来てくれるとは思わなかった」

「エニスが導いてくれたんだ。きっとエンジュの匂いを覚えてて、それを辿って──」


 そのとき、キャンと甲高い鳴き声がした。エニスが弾けるように真子から離れて、二人の元へ駆けてくる。


 真子はナイフを持ったまま、凄烈せいれつ形相ぎょうそうで睨んでいた。服を噛みちぎられ、血を流している。


「ユウマ、エニスを頼む」


 真子に向かっていくエンジュの代わりに、ユウマはエニスを抱き止めた。エニスは口に、ポリエチレン製のチャックの付いた透明の袋をくわえていた。その中には、白い輪のような、人骨らしきものが入っていた。


 しかしその骨が美晴の喉仏であると気づくより前に、ユウマは顔色を変えた。エニスを抱き止めた腕が、べっとりと赤く塗れていた。エニスの血だ。腹に創傷を受けていた。


 エンジュは真子に向かって真っ直ぐに駆けていった。


「か、かかってこい!」真子は自らを鼓舞するように叫んだ。「化け物なんかにあたしは負けない! 人を襲う悪鬼あっき羅刹らせつどもは、みんなあたしが退治してやる!」


 真子はナイフを構えたまま、もう一方の手で咒符を取り出した。掴み掛かるエンジュにカウンターで貼りつけようとする。


 だが、エンジュはたった一枚の咒符など意にも介さない。


 ナイフを弾き、力強く突き出した手で喉輪を極めると、腕をかかげて真子を宙吊りにした。


「ようやく捕まえたぜ──化け物殺しの犯人ブッダマニアさんよォ」


 真子は苦しそうに手足をばたつかせた。必死に逃れようとするが、ビクともしない。エンジュが本来の力を発揮すれば、普通の人間などとても太刀打ちできるはずがなかった。


「テメェにゃたっぷりと借りがあったな──仲間を何人もられたし、大事な友達ダチも殺された。それも散々苦しめてなぶり殺しにしやがって……あいつがどんだけえげつねぇ目にあったのか、おかげでよぉくわかったぜ」


 エンジュの手に力がこもる。絞められた真子の首に血管が浮かび、怯えた顔が赤く膨れる。


「ダメだ!」


 ユウマは思わず叫んだ。


「殺しちゃダメだ! 人間の法律ルールを守るんだろ!」

「うるせぇ! こいつには地獄を見せてやらねぇと気が済まねぇ!」


 エンジュは片手で真子を吊り上げたまま、もう一方の肩を後ろに引き絞った。拳をグッと握り固める。目は金色に光り、その憤怒に満ちた顔はまさに鬼の形相だった。


「エンジュ! 止めるんだ!」ユウマは再び叫んだ。ユウマが止めるのは、何よりエンジュのためだった。人情家で困った人を放っておけず、激情家のくせに敵にすら甘いエンジュは、ことさら人間より人間らしく振舞おうとしている。それは、昔話の鬼のように他人に恐れられるのが嫌だからだと、ユウマは知っていた。人間社会でも化け物の社会でも、過度の強さは人を孤独にする。寂しがり屋で他人と仲良くしたいのに、石を投げられ遠ざけられる可哀そうな鬼。エンジュはそんな風にはなりたくはなかった。

 しかし今のエンジュは、そんな彼女がみ嫌う恐ろしい鬼そのものだ。その上、人の社会に暮らす化生の者にはご法度である〝人間殺し〟をしてしまったら、それこそ真子が言った〝悪鬼羅刹〟と変わらなくなってしまう。「──その人は、人間の法律で裁ける!」


「知るか! 地獄で閻魔に裁かれやがれ!」


 エンジュの拳が真子の腹を打ち抜いた。


 背中から衝撃が抜けるのが目に見えるかのような威力だった。恐怖に引きっていた真子の目が裏返る。四肢がだらんと下がる。


 エンジュが腕を下すと、真子は糸の切れた人形のように力なく床に崩れ落ちた。


 その一部始終を、ユウマは見ているしかなかった。


 化生の者が人間を殺してしまったらどうなるのか──ユウマも詳しく知っているわけではなかったが、前に紅葉から聞いた話では、これまでと同じように暮らしていくことができなくなるのは間違いなかった。人間に害を及ぼさないという南木なぎとの取り決めを破った者を組合がかばい立てするわけにはいかず、エンジュは人間殺しの悪鬼として、南木の刺客や、潔白を証明すべき組合からも追われる身となる。


「エンジュ……」


 ユウマは力なく呟いた。


 長らく誰にも使われていなかった工場での戦いで、薄く積もったほこりが宙に舞っていた。薄暗い廃墟ではそれもほとんど見えないが、窓から差す陽の光を横切るときだけは、空気の流れに乗ってゆっくりと漂うちりがキラキラと光る。


 そこに一人だけ立っているエンジュは寂しそうな顔をしていた。化け物殺しの事件を解決するという目的を果たしたのに、喜びの色は少しもない。思えばこの事件はエンジュにとって失うものばかりだった。犯人が裁かれたとしても、戻ってくるものは何一つない。


「ばーか、なんて顔してんだ」


 エンジュはユウマの方を向くと苦笑した。


「心配すんな、殺しちゃいねぇよ。もう悪さしねぇように、ちょっと恐怖をきざみ込んでやっただけだ。オレが本気で殴ったら内臓が10メートル先まで飛んでる」


 そう言ったエンジュの口ぶりは、どこか物悲しくも、普段の穏やかさを取り戻していた。


 ユウマはそれを見てホッとしたが、しかしそれで安堵しきってしまうわけにはいかなかった。抱きかかえたエニスは、さっきから血が流れ出て止まらないままだ。


「エンジュ、エニスが刺されてるんだ!」


 ユウマは止血を試みるが、腹の深いところに傷を負っているらしく、どこを圧迫すれば出血を止められるかわからなかった。エニスを抱えたユウマの制服が、どんどん赤く染まっていく。このまま血を流し続ければ、エニスはすぐに失血死してしまうだろう。


 それなのに、エニスはむしろ、立ち上がろうとしていた。


 苦しそうに息をついて、震える脚で体を支える。動かないようにユウマが抑え込もうとしても、深手を負っているとは思えないほど力強く、確固たる意志で、どこかへ歩いていこうとする。


「エニス、ダメだよ。動いたりしたら、余計血が──」

「行かせてやれ」


 エンジュが言った。驚いてユウマが目を向けると、エンジュは真顔だった。怒っているのでもなければ、悲しんでいるのでもない。感情を強さという仮面の下に押し隠した表情で二人を見ていた。


「でも、このままじゃエニスは──」

「だからだよ。行かせてやれ」


 エンジュのきっぱりとした口調に、ユウマは腕の力を緩めた。


 エニスは透明の袋を口にくわえ直すと、ふらふらと歩いていった。向かう先には、気を失ったまま床に横たわる陽毬がいる。


 いや、そこにいるのは陽毬ではなかった。陽毬の枕元に立つようにして、物倉美晴がたたずんでいた。納骨堂で見た死に顔とも、新聞の似顔絵とも違う。紅葉に見せられた写真にそっくりの、だけどそれよりも安らぎと慈愛に満ちた、穏やかな表情。


 歩いていく途中、エニスはふと足を止めた。何か心配するようにエンジュを振り返る。


「行け」エンジュは凛とした声で言った。「お前のご主人様はあっちだろ」


 それでもう、エニスは振り返らなかった。


 美晴は微笑むと、両手を伸ばして膝を曲げた。エニスが前足を上げて飛びつく。美晴の肩に前足を掛け、ほおずりするように美晴の緩やかな髪を鼻で掻きわける。


 ずっと会いたかった大好きな飼い主とようやく一緒になれたことを、心から嬉しがるように。


 そのまま美晴が腰を上げると、エニスは軽々と抱き上げられた。日溜まりのように、天からの光が二人に降り注ぐ。美晴はまるで天女のような羽衣はごろもを身にまとっていた。そしてやはり古い絵巻物のように、天女は天へと昇っていく。


 光が薄れて見えなくなる前に、地上を見下ろす美晴の口が優しげに動いた。美晴が何を言ったのか、今度はユウマにもちゃんとわかった。


 アリガトウ──その言葉を贈り物として、美晴はエニスを抱いてこの世界を離れていった。


 後に残されたのは、横たわり穏やかな寝息をつく陽毬と、そのかたわらに眠るように伏したエニスの亡骸なきがらだった。安心しきった顔で、ようやく取り返した美晴の骨を大事そうにくわえていた。

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