ポリアンナ④

 その日、ユウマは朝からベーカリー&カフェ『ポリアンナ』に来ていた。


 陽毬との散歩デートの後、誘いを断って別れたことがトゲのように心に引っかかっていて、そこで埋め合わせというわけでもないが陽毬に連絡をして、登校前に寄り道をしないか誘ってみた。幸いにも『いいよー』と返ってきた。『マコさんとの約束もあるしね』


 前回は休店日に開けてもらったので店内はがらんとしていたが、今日はいつも通り、売り物のパンが棚いっぱいに並んでいた。


 おやつパンと書かれた棚に菓子パンが、おかずパンと書かれた棚に総菜パンが置いてある。透明のフィルムには中のパンを輪郭りんかく代わりに動物の顔が描いてあって、手書きの品名が書かれたシールが貼ってある。塩パン、食パン、フランスパン、クロワッサンのようなプレーンなものから、あんパン、チョコパン、白パン、いもパン、りんごパン、ぶどうパン、くるみレーズン。カレーパンは種類が多く、ただのカレーパン、辛口ビーフ、グリーンカレー、チーズキーマ、クルトン付きで揚げたカレーパン。他にも、ピリ辛ソーセージ、フランクロール、サラダパン、シュトーレン、さらには目玉焼きトーストと、様々なパンが並んでいて壮観だった。


 陽毬は、卵とハムを挟んだコッペパンに、コールスローを詰めたサラダパン、フロランタンのようなアーモンドとはちみつを乗せて焼いたスライスバゲット、さらに中身がランダムのマコちゃんパンと意外に沢山を選び、トレイの上をいっぱいにしていた。


 一方でユウマは、あまり食欲がなかった。陽毬とパン屋に寄る約束だったので、朝食は食べずに家を出ようとしたものの、そのことを母親に伝えておかなかったので、「今日こそは許さん」と怒られたあげく既に用意されていた朝食を無理やり食べさせられた。だからといって、自分から誘っておいて何も食べないというのは決まりが悪いので、スパイシーさで詰め込んでしまえそうなカレーパンを選んだ。


 店内は、通勤のついでに立ち寄る人でそれなりににぎわっていたので、二人は奥のテラス席へと行くことにした。


 裏庭に張り出した横長いウッドデッキにテーブルと椅子が手狭に並び、周りには鉢植えが置いてある。晴れているので、テラス囲いのガラス扉は開けてあり、開放感があった。隣が古式ゆかしい民家の庭で木々が繁茂はんもしているので、植物園的な雰囲気もあった。


「ん~♡ 美味しい~」陽毬はパンを手に顔をほころばせた。「焼き立てのパンって、こんなに美味しいんだ」


 ユウマはその笑顔を見て、胸がときめくのを抑えるのに必死だった。いつもは穏やかに微笑む姿がよく似合う陽毬がこうやって無邪気に子供みたいな笑みを浮かべるところを見るのは、初めてだった。


「ぼ、僕も、初めて食べたときはびっくりしたよ」

「そうだよね。こんなに美味しいパンを食べたら、びっくりするよね」


 あらためて考えてみれば、ユウマにとってこれが陽毬と二人きりでする初めての食事だった。この笑顔が陽毬の自然な表情なのだろうか。前にこの店に来たときは、真子がいたので気を使っていたのかもしれない。そうだとすると、今こうして満面の笑みを浮かべているのは、二人きりで気兼ねなく振舞ってくれているということだろうか──もしそうなら、すごく嬉しい。ユウマの胸の内は幸せに満たされていた。


 そんななごやかな雰囲気で、二人は取り留めのない話をしていたが、話題は自然とエニスのことになった。


「エニスくん、本当に可愛かったぁ。イタズラして叱られたら、きょとん、て顔して誤魔化すの、ずるいよね。あんなことされたらつい許しちゃう」

「いつもはもっといい子なんだけど……なんだか桜町さんには甘えてたみたい」

「そうなんだ。この人間は甘やかしてくれそうだぞって、見抜かれてたのかな」


 陽毬は冗談めかして言うと「あはは」と笑った。


 実際、エニスは、ユウマと一緒のときは言うことをよく聞く、大人しいいい子だった。エンジュが『テーブルをひっくり返した』と言っていたりしたが、それもとても信じられないくらいだった。


「本当に相手を選んでるのかも」

「そうなの?」

「僕と一緒のときはすごくお利口だから、前の飼い主がしっかりしつけてたんだろうなぁって思ってたんだけど……」

「……前の飼い主さんってどんな人だったの?」


 陽毬にそう聞かれてユウマは答えあぐねた。前の飼い主というのは物倉美晴のことだが、それをそのまま言うわけにもいかない。陽毬が知っているかはわからないが、多少なれどメディアに取り上げられた事件の被害者で、どういう関係でその飼い犬を引き取ったのか、説明することになるとややこしくなるだろうと思った。


「うーん……実は僕もよく知らないんだけど」

「……もしかして、若い女の人?」

「えっ…………どうしてそう思ったの?」

「なんとなく、そんな気がしただけ」


 陽毬はそう微笑んだが、さっきまでの心からの笑顔とは少し違ったものに見えた気がした。


 三十分ほどそうやって話をしていたが、陽毬のパンは中々なくならなかった。トレイの上に、英字雑誌の記事風に英文がプリントされた包み紙の中で、マコちゃんパンがそのままになっていて、陽毬はそれを持て余すように見つめていた。


 そろそろ学校へ向かわないと遅刻する時間だ。それがわかっていても、陽毬はどうにも手がでないらしい。


「取り過ぎちゃった?」


 ユウマにも経験がある。パン屋とか、ビュッフェとか、メニューから選ぶのではなく自分で取り分けるスタイルの食事だと、つい多く取り過ぎてしまうことがある。お腹が減っていると、ついあれもこれも、食べてしまえそうに思えるものだ。


 しかし「……そうかも」と困ったように微笑んだ陽毬の様子は、単にお腹がいっぱいなだけには見えなかった。


「もしかして、どこか具合悪い?」


 ユウマが聞くと、陽毬は戸惑うように目を泳がせたが、申し訳なさそうに「うん」と言った。


「……実は、お店に来てから、なんだか少しずつ気分が悪くなって」


 ユウマはちょっと心配になった。ただの体調不良だろうか。


「大丈夫? 無理しないほうがいいよ」

「でも、残すと悪いし……」

「じゃあ、僕がもらっていい?」

「え?」


 ユウマは陽毬のトレイから手付かずのマコちゃんパンをひょいと取ると、口に入れた。こってりとしたチーズ味だ。重い。お腹いっぱいのところにカレーパンまで食べてもう限界だったが、平気な顔をして飲み込んだ。


「……ごめんね、ありがとう」

「ううん。カレーパン一個じゃちょっと足らなかったかなって思ってたから。それより大丈夫? 学校、行けそう?」

「うん、少し胸やけがするくらいで、大したことないから……」


 陽毬は平気そうな素振そぶりで言ったが、席を立ったところで足元をふらつかせた。同じく席を立とうとしていたユウマが慌てて抱きとめる。支えをなくした陽毬の体重が、ずっしりとユウマの腕にかかる。


「さ、桜町さん! だ、──」


 大丈夫かと聞きかけて、ユウマは言葉を失った。


 ユウマの腕の中で、陽毬の首が力なく後ろにもたれた。まだ首のわっていない赤ちゃんのような力のなさで、上向きになった陽毬は、大丈夫かと聞くのもはばかられる形相ぎょうそうだった。白目を剥き、口を無造作に開け、痙攣けいれんするように時折ビクビクと震える。


 ──あの時と同じだ。ユウマは咄嗟にそう思った。前回この店に来た帰り、辺りを徘徊する霊に陽毬はりつかれてしまった。そのときと同じ反応だ。


 ──だけど違う点もある。今回はあの時のように、霊的な何かが陽毬に憑りついてきたようには見えなかった。そうするとこれは、この間憑りついた霊が、また陽毬に何らかの影響を及ぼしているということだろうか。


「ア゙……ア゙ァ……ア゙……」


 陽毬は力なく開いた口を震わせて、苦しそうな声を出した。まるで何か喋ろうとするように。しかし、その声は言葉になりそうで、どうしても言葉になりきれないでいた。


 ──何か伝えたがっている。直感的にユウマはそう思った。


 陽毬との散歩デートの後、ユウマには一つの仮説が浮かんでいた。他愛のない思い付きと言ってもいい。陽毬はなぜエニスの名前を知っていたのか──あの時はなんとなくお茶を濁して済ませたが、ユウマはやはり陽毬に犬の名前を伝えた覚えはなかった。


「もしかして……物倉美晴さんですか?」


 ユウマはそう陽毬に呼びかけた。すると、け反るように体を引きらせていた陽毬は、ビクビクと震えるようにしながらも頭を起こし、コクコクとうなずくように小さく頭を振った。


 ユウマは驚いた──やはり、この霊は物倉美晴だったのだ。


 しかしそう考えると色々と辻褄つじつまが合う。霊は生前に所縁ゆかりのあった場所に現れるというから、よく散歩に来ていたらしいこの近所を美晴の霊が徘徊するのも納得がいくし、陽毬がエニスの名前を知っていたのも、りついた美晴の影響でそういうことが起こるのかもしれない。


「物倉美晴さん──もしかして貴女はずっと僕に何か伝えようとしていたんじゃありませんか」


 ユウマが初めて美晴を見かけたとき、美晴は道路の向こうにたたずんでいただけだったが、それ以降、エンジュと一緒だったときには後を追いかけてきたり、陽毬に憑りつく前はユウマのことをジッと見つめたりしてきた。あれは、ユウマには幽霊が見えているということに気づいた美晴が、何かを伝えたがっていたんじゃないか──。


 あくまで推測に過ぎない。しかしユウマにはそう思えてならなかった。


「もしそうなら、教えてください。僕は貴女の命を奪った犯人を探しているんです」

「ア゙ァ……ア゙……ア゙……」

「それが誰だったのか……名前を知らなければ、年齢、性別、背格好、どんなことでもいいんです。何か手掛かりがあれば教えてください」

「ア゙……ア゙ァ……イ゙……イ゙……」


 陽毬の口は何かを喋ろうと必死に動いていた。ユウマは確信した。美晴が陽毬の肉体を使ってユウマに何かを伝えようとしている。


「イ゙……ア゙ァ……イ゙……」


 ユウマは懸命に口の動きを読んだ。何かの単語だ。一音目は口を横に引っ張って、二音目は口を開け、三音目はまた口を横に引っ張っている。二音目はよく見ると、唇と唇を合わせようとしているように見える……その動きを美晴は繰り返す。


 同じようにユウマも口を動かしながら考えた。イ・マ・イ、イ・マ・イ、イ・マ・イ………ヒマリ?


「陽毬? 桜町さんのことですか?」


 美晴はなおも同じ口の動きを続ける。


「ど、どういうことですか? 桜町さんが、事件に何か関係するんですか? 教えてください、物倉美晴さん!」

「どうしたの!? 大丈夫?」


 後ろから声が掛かった。ユウマが振り向くと、エプロン姿の真子がテラスに出てきたところだった。その向こう、視界に入った店内は客足が一段落したようで、手の空いた真子は二人の様子を見に来たのだろう。


「だ、大丈夫です。ちょっと気分が悪くなったみたいで──」


 真子にそう告げて、ユウマがあらためて美晴の方に顔を向けると、すでに美晴は陽毬に戻っていた。先程までの引きった苦悶の形相ぎょうそうは見る影もなく、安らかな表情で穏やかな息を繰り返していた。

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