第10話 異動勧告
春樹の「母親として恥ずかしくないのか」という言葉は、七海の心に深く根を下ろしていた。
それは棘のように刺さり続け、時折鋭い痛みを走らせる。表面上は平静を装い、海斗と陽菜のために母親としての役割を懸命に果たしていたが、心の奥底では深い絶望と孤独が渦巻いていた。張り詰めた糸のようにいつ切れてもおかしくない状態だった。
夫からの愛情や優しさを求めるのを止め、ただ子どもたちの母親としての役割を果たすことに専念していた。感情を押し殺し、周りに悟られないようにいつも笑顔で鎧と仮面を身にまとって生きているようだった。
春樹とは、海斗の保育園の行事など連絡事項以外は話をしないし話しかけても来ない。
子どもたちの話題以外に何を話したらいいかも分からないし、話す気も失せていた。しかし、誰かがいる時は付き合っていた頃のような笑顔で何事もなかったかのように話しかけてくるため周囲からは育児に協力的な夫で仲睦まじい家族だと思われていた。
変化が起こったのは陽菜が保育園に入園し、2回目の育児休暇から復帰してすぐのことだった。
「今日、院長に呼ばれて4月から県外の医局に異動になった」
帰宅後、春樹からそう告げられた。今のポストよりも上がる栄転らしい。春樹の口調はどこか弾んでおり、昇進の喜びを隠しきれない様子だった。
プロポーズを受けた後に、「将来、子どもを授かりたいと思っているが転勤もある。子どもたちに自分の都合で転校させてしまうのは申し訳ないと思うんだけれど、どう思う?」と聞かれたことがあった。
その時は、「年齢にもよるけれど子どもたちなりの考えもあるだろうから意見を聞いたうえで判断するのがいいと思う。小さいうちは、家庭の存在が大きいから転園を気にしすぎず一緒について行ってもいいと思うな。……でも、その状況になってみないと分からないよね」と答えた。
春樹もその時になったらみんなで考えていけばいいよねと言って微笑んでいた。
そして今、その「いつか」が来た。
しかし、いつかは七海が想像していたものとは全く違っていた。
「…そうなの。今からだと4月の入園に間に合うかしら…。役所に相談しなきゃ。仕事もその地域だと通うのは難しいから上司に相談して…あと住むところも探さないとね」
頭の中で、様々なことを考えていた。陽菜の保育園の手続き、自身の仕事、引っ越し…きっと春樹は何もやらない。すべて私の役目だろう。七海の肩に重くのしかかるが、私がやるしかない。
「そのことなんだけれど…今回は一人で行こうと思っているんだ」
「え……。」
七海は、再び何を言われているのか分からなかった。まるで、異世界の言葉を聞いているようだった。理解が追いつかない。
「結婚前にも話したけれど、子どもに転校・転園はさせたくないんだ。その気持ちは今も変わらない。だからここで子どもたちのことを任せるよ」
春樹の言葉を理解するのに時間がかかった。意味を理解した瞬間、七海の心は深い絶望に突き落とされた。底なしの暗い穴に落とされたように何も見えなくなった。
(一人で行く……?子どもたちのことを任せる?つまり私と子どもたちを置いていくということ?)
「その時になったらみんなで考えていけばいいよね」と笑顔で微笑んでいたはずの夫は”みんな”の意見を聞く前に、「一人で行く」と結論を出していた。その事実も七海の心を傷つけた。
「でも海斗は4歳。陽菜はまだ2歳よ。受験や部活もないし動ける時期だと思うけど?」
「そうかもしれないけれど、僕だって新しいことを覚えなくてはいけないし、やることも多いんだ。新天地で家のことまで手が回るか分からないし、それなら七海と子どもたちは、慣れ親しんだこの地にいた方がいいんじゃないかな。いざとなったら七海のご両親や友人たちにも助けてもらえるだろう。」
春樹は淡々と言った。
その言葉に、七海は耳を疑った。
そして深い悲しみと怒りが込み上げてきた。春樹は、七海や子どもたちの気持ち、家族の気持ちを全く理解していない。ただ、自分の都合だけを考えている。
春樹の「母親として恥ずかしくないのか」という言葉が再び七海の頭の中でこだました。その言葉に加えて「お前は、一人で子どもたちを育てられないのか」というメッセージが込められているように感じて、七海の心は完全に打ち砕かれた。
これまで、母親としての務めを果たそうと必死に過ごしてきた。それは、もしかしたら自分が母として認められれば家族4人で楽しく暮らせる日が来るかもしれないという微かな希望でもあった。しかし、それは空想だった。砂の城が波にさらわれたように七海の努力は全て無に帰した。
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