第二幕 殺すために

「朧介殿!」

 離れた場所からシヅルが叫ぶも、反応を示さない。

 酔が倒れた朧介の顔を覗き込むように膝をつく。ぽつりと、暗くなりつつある空から雨粒が落ちてきて、辺り一帯を濡らし始めた。

「やはり、魂は奪えぬか」

「……酔、貴様!」

 操られた人間を突き飛ばしながら叫べば、フッと酔が目元を歪める。雨のせいで湿りつつある朧介の腰から短刀を奪い取り、鞘から抜いた。ぬらりと、刀身が鈍い光を放つ。横向きに倒れた朧介の体を仰向けにひっくり返し、心臓部分にそっと切っ先を当てる。外さないようにマーキングするかのようなその行動に、人々に群がられたシヅルの血の気が引いた。

 殺そうとしている。

 刹那、酔が刃を振りかぶる――、


「――っやめてー‼」


 だが、喉が千切れるのではないかと錯覚するほどのシヅルの大声は、すぐに鳴りやむこととなる。

 酔が心臓めがけて落とした刃は、次の瞬間には朧介の手によって奪い返された。空いた左手で酔の顔面を一度強く殴打し、怯んだ隙に奪い返した短刀の柄で肋骨を力任せに殴りつければ、ゴキッと嫌な音が響いて酔が大きく呻き声をあげた。

 そのまま馬乗りになるように朧介が酔を地面に押さえつけ、両足で両手を踏みつける――。



「……驚いた。雪田朧介、貴様……あの術で意識を失わなかったか」

 一瞬で満身創痍となった酔が、鼻血を出しながら濁った目を向ける。

「……形勢、逆転……だ」

 ぜえぜえと肩で息をする朧介は、遠目にシヅルとシロクが見てもわかるほど、顔色が悪い。意識こそ手放さなかったが、地面に倒れ込む程度に大きなダメージを体に受けたことは明白だった。

 ざあざあと降る雨の音が、次第に大きくなる。木々の葉に打ち付ける雨粒がばらばらと小気味のいい音をさせる。

「…………」

 朧介が、短刀の切っ先を酔の心臓部分にあてがってから、両手で持ち直して顔より上に掲げる。雨が刃を伝って、ぽたぽたと酔の和服に落ちていく。

「……殺してみろ」酔が歪んだ笑みで言う。

「朧介駄目だ! 殺すな!」錫杖で人を薙ぎ払ったシロクが叫んだ。

「…………っ」

 短刀を更に頭上に持ち上げて、酔を見下ろす。 

 何もかも、始まりはこの男だった。酔に入れ知恵をされた故郷の人間によって、朧介の人生と体は大きく歪まされた。あったはずの幸せも、手に入るはずだった健全な未来も、何もかもが覆された。

 この男が、呪術を村に持ち込まなければ……今頃自分は百八十度違う人生を送っていた。こつさえいなければ。こいつさえ、存在しなければ。

(こいつを殺すために、俺は……今日まで……)

 握る手に力を込め直す。なぜか手が震えた。それに気が付かないふりをして、手を振り下ろそうと構える。

 力を込めて、心臓に向かって振りかぶろうとしたその時――、

「!」

 シャランと、ふいにシヅルの耳飾りの音が耳に滑り込んだ。

 手は、震えたまま止まった。胸のすぐ上で停止した刃から雨が滴る。視線を前に向ければ、少し離れた場所にいたシヅルの瞳が縋るように朧介を見る。

 殺してはいけないと、彼女の瞳がそう訴えかけていた。再び刃に目を落とす。もうあと数センチこの短刀を押し込めば、憎き男をあの世へ葬れる。ずっと成し遂げたかったことの終わりが、すぐそこにある。あるはずだと言うのに……。

「殺してはいけない……朧介殿」

 意識の中に、シヅルの声が滑り込んでくる。

 つられて再び顔をあげれば、必死な中にも、悲しみを含んだ眼差しが朧介を見ていた。操られた人々にしがみつかれ、身動きが取れない状態でも、その視線を真っ直ぐに朧介を見る。

「……そんなことをしても、なんの意味もない」

 遠くにいるはずの彼女の声は、耳の鼓膜を撫でるように静かに浸透しながら音になる。

「……っ!」

 カッと、頬が熱くなった。頭に血が上り、全身が震える。両足にも力が入り、手を踏みつけられている酔が低く唸る。

 緩んだ手に力を込め直して、朧介は叫んだ。

「意味がないわけないだろ‼ 俺は……こいつを殺すために今日まで歩いてきた‼ 人間だと知らなかったとはいえ、指示されてこの手だって汚した! 俺は……俺の人生は、全部こいつに狂わされたも同然だ! だからその報いを受けさせる……これに意味がないわけあるか! そんなこと……あってたまるか!」

 息が苦しくなるまで捲し立てる。肩で息をすれば、耳のすぐ近くで心臓の音を感じる。己の興奮を提示してくるかのようなそれが酷く煩わしくて、思わず耳を塞ぎたくなった。

 シヅルの言葉に血が上ったのではない――一瞬でも己の中に生まれた躊躇いを認めたくなかったのだ。だから振り払うように声を荒げたに過ぎない。そんな事、自分が一番わかっていた。

 わかっていたのだ。


「……ならば、」

 興奮する朧介とは相反して、シヅルのその声は静かだった。

「その男は、私が殺してやる」

「――……は?」

 何を言い出すのかという言葉は声にならない。彼女の瞳が本気だと告げていたからだ。

「どうしてもその男を殺すというのならば……私が殺す。私が、人殺しの穢れも罪も、全て背負うと言っている」

「なんでお前がそんな事をする必要がある! シヅルが手を汚すことなんかあってたまるか!」

「私だって殺したくはない‼」

「!」

 シヅルの大きな声に怯む。これまで聞いたことがなかった彼女の怒声に、何も言えなくなる。

「……人殺しは魂に穢れをため込む行為だ。私はこれ以上……貴方にそれをさせたくはないんだ」

「……なんで、」

 思わず短刀を握った手を見る。

 この手はもう、汚れているのだ。今さら綺麗ごとを言った所で、犯した事実は消えやしない。


 地獄に、席は予約されている。


「俺の手はもう……穢れているんだぞ」

「……確かに過去は変えられない。だが、過去の過ちを持って、未来を変えることは出来る」

「…………!」

「貴方は私の手を汚したくないと言ってくれたな。私だって同じ思いだ、朧介殿。貴方の人生をめちゃくちゃにしたこの男は罰を受けるべきだと思う。しかし……貴方の心も魂も、この男のためにこれ以上穢れて欲しくない……」

「…………」

 ゆっくりと視線を下げ、自らが馬乗りになっている酔を見た。この男を殺すために、ずっと過去を引きずって生きてきた。それは紛れもない事実だ。全ての始まりであるこの男を殺せば何か変わると、そう思っていた。

 復讐を終えれば、今度こそ本当に……普通の人と同じように生きられるかもしれないと。

 それが例えそうでなかったとしても、孤独だった朧介にはそれしか信じられる術がなかったのだ。

 だが、今は――。

「……朧介殿」

 懇願するかのように、遠くでシヅルがもう一度名前を呼んだ。

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