第二幕 人ではないモノ
朧介は客と入れ違うようにして一度店の外へ出る。暗くなった街は至る所に煌びやかな提灯が下がり、少しばかり色味を帯びている。店から一区画先にある角の煙草屋に行くが、とっくに閉店時間を過ぎている。試しにこんこんと窓口を叩いてみれば、ガラッと窓が開き、そこから老婆の手と声が染み出してきた。
「煙草二箱、頼む」
言えば、すぐに無言で煙草が奥から提供される。それと引き換えにお金を奥へ突っ込めば、ヒンヤリとした空気を手に感じた後、しわくちゃの手が触れてきてお金を取っていった。礼を言えば、一拍置いてから窓がゆっくり閉じられる。
買ったばかりの煙草を一本取り出し火をつけて、元来た道を茶屋に戻るために歩けば、すぐに見慣れた日本家屋が見えて来る。ここは普通の茶屋ではない。所謂男と女の、そういう場所だ。ゆえに様々な念が溜まりやすい。
その時、茶屋に出入りする人々の中に、人ではないものを見た。大きさこそ成人男性程度だが、異様な形をしている。手と首が人より長く、目が四つ。肌の色は青白く、引きずるようにして茶屋の暖簾を潜っていった。
小走りに茶屋の入り口に戻って暖簾を潜る。左右見渡すが人以外は見受けられない。どこに行ったかと番頭を問い詰めそうになったが、見えていないはずの客人だ。聴取したところで意味がないと下唇を噛む。あれは、間違いなく写真のうちのひとつだった。
「雪田、今日は特上客はいねぇ。さっきのような輩が出ねぇ限りは、待機な」
「ああ、わかってる」
返事一つして奥に続く廊下を進み、中庭に出る。ぐるりと見渡せば、電灯で照らされた四階の北側の開放廊下に先ほどの妖怪の姿が見えた。
すぐさま一番近い階段を掛け合がって四階に出れば、妖怪の背がすぐ目の前にあった。まだ空室であるはずの奥の部屋に向かっている。
「…………」
ちらりと開放廊下から階下を確認する。幸いにも廊下と中庭に人の姿はない。姿勢を低くし、上着の奥、開襟シャツとズボンの間に挟んでおいた白鞘短刀にそっと手をかける。そのまま勢いよく足を踏み出し、妖怪の背に向けて抜き出した刃を突き立てようとした――まさにその瞬間。
「!」
突如、背後から何かが朧介の首に絡みついて気管を塞いだ。
あまりの勢いに後ろ向きにひっくり返る。ドンッと背中を打ち付けて思わず呻けば、目の前の妖怪がこちらを振り返った。
気づかれた、やられる。思わず鼓動が速くなり体が硬直するが、どういう訳かそいつは朧介を襲って来ようとはしなかった。それどころか、何かに怯えたように慌てて奥の部屋に入っていく。
(何で、襲ってこない?)
そう頭に過るが、今はそれどころではない、背後にいる何かが変わらずに首を絞め続けている。首に絡みついたそれをどうにかしようと手を触れれば、まるで髪の毛のようだと……。
『ウマソウ』
「…………!」
耳のすぐそばで、ねっとりとした女の声がした。途端、首を絞めている髪の毛ごと引っ張り上げられ、廊下の壁に背を打ち付けられる。足が床に付かず、首に全体重が掛かる。
「……ぅぐ」
締め上げられた喉が悲鳴を上げるように鳴った。首の髪の毛を解こうにも、鉄のように固まったそれは到底手では振りほどけない。
『ウマソウ、ウマソウ』
触手のように蠢くそれが今度は別方向から伸びてきて、朧介の服の中を弄ろうとする。大方急所に狙いを定めるためにマーキングをしようといったところか。腹部から入り込んだそれが蜷局を撒くように体に巻き付き、背中の表面をざらりと撫で上げた。
途端、血が沸騰するような感覚が全身を走り、体の奥から得体の知れない力が溢れてくる。憎悪を表すかのように全身から噴き出したオーラが朧介の瞳を赤く染めれば、それまで体に絡みついていた髪の毛たちが次の瞬間には吹き飛ばされた。
「俺に……触るな……!」
わかっている。高ぶるこの力は、持ち前の力ではない。全ては体に巣くった呪詛が朧介の体を介して暴走しようとしているだけだ。瞬間的に能力値が上がるとは言え、頼っていればいつか飲み込まれてしまうかもしれない。
「――……っ」
沈まれ、落ち着け……これに頼ってはいけないと自らに言い聞かせれば、瞳を赤く染めた高ぶりが正常に戻った。体の緊張が解けて脱力しそうになるが、なんとか廊下の壁に体を預けて持ちこたえた。
そこへ、再生した髪の毛が再度伸びて来た。手にしていた短刀でそれらを斬り捌くも、無数に伸び続ける全てを処理しきれない。
短刀に伸びた一束が腕を拘束した次の瞬間、目にも止まらない速さで伸びてきた太い束によって、再び首を強く締め上げられる。
「…………っぁ、ぐぅっ」
離せ、という声はもはや出てこない。締めつけられたまま持ち上げられ、再び足がつかなくなる。先ほどよりもかなり強い力を前に、視界が霞み始める。
体に呪詛が刻まれて以降、人ならざるものが見えるようになった上、いざという時は今さっきのように制御装置が外れたかのような力を使うことだって出来る。だが、だからと言って体の構造が人以上の何かになったわけではない。息が出来なければ普通に死ぬ。
『ウ マ ソ ウ』
力が入らなくなった手から短刀が滑り落ちた。酸欠を起こした脳が視界を強制的に暗転させようとする。この怪異はひょっとして自分の呪詛に呼ばれたのか。頭が回らない。
気が、遠くなる――。
「――
シャランと、綺麗な音。そして麗しい女性の声が微かに聴こえた。
その途端、首に巻き付いていた髪の毛が嘘のようにバラバラにほどけ、体が解放されて床に尻餅をついた。肺に一気に酸素が回り込んで思わず咳き込む。呼吸が追い付かず苦しい。生理的な涙が眦に浮かんだ。
「雪田……朧介殿」
名前を呼ばれて顔を上げる。目の前にひらりと可憐な少女が着地した。
黒髪を耳の横に垂らし、残りを後ろでお団子状に赤いリボンで結っている。桜の柄の入った白い着物に深紅の袴、茶色のブーツを合わせたその姿は、見た感じにもハイカラさんと呼ばれる女学生を彷彿とさせた。綺麗な音をさせていたのは、両耳についた金色の細長い耳飾りだったようだ。
名を呼びながらしゃがみ込んだ彼女に合わせて、それがまた音を立てる。
「き、みは……」
しっかりと声を出したつもりが、思ったように音にならない。少女はじっと朧介の瞳を覗き込むように見つめ返してきた。透き通った宝石のような瞳に、思わず見入ってしまう。
「やはり、貴方が……」
そう彼女が呟いたのとほぼ同時に、突然大きな爆発音がして地が揺れた。
「なん、だ……?」
遠くの空が赤く明滅している。その光景は戦時下を生き抜いてきたものならば誰しもが見覚えのあるものだった。
燃えている、どこかの建物が。それを理解したと同時に、さらに二度三度と近くで爆発音がして、今度は先ほどよりも強く建物が揺れる。一階の方から「火事だ! 逃げろ!」という番頭の叫び声が聴こえて来た。
(火事? これが……?)
どう考えてもただの火事ではない。まるで何かに上空から爆撃されたかのような火事だ。米軍? いや戦争はもう終わったはずだ。ならば何がこれを起こしている?
ギギッと奇妙な音がして、先ほどまで朧介を拘束していた妖怪が再度こちらに髪の毛を伸ばそうとすれば、それを少女がどこからか日本刀を取り出してバッサリと切り落とす。十二単を着たその妖怪は、髪の毛を切られた事で怯んだのか、二・三歩後ろに踏鞴を踏んだ。
次の瞬間、大きな音と共に妖怪のいた位置に火の玉が降ってきて建物を抉り壊した。物凄い爆風に、朧介と少女は後ろへと吹っ飛ばされる。頭から仰向けに転がって、壊れた建物の隙間から燃えるように赤い夜空が見えた。そしてその上を、大きな影が横切った。
「――な、」
なんだ今のは、幻か。そう声に出そうとしたが、突然胸が苦しくなって上手く呼吸ができなくなる。この発作は身に覚えがあった。これは、呪詛が良くないことを呼ぶ前触れだ。
「朧介殿」
朧介より後ろに飛ばされていた少女が駆け寄ってきて、蹲った朧介の体に触れた。
「苦しいのだな……私に任せてほしい」
この短時間に焼け落ちそうになっている茶屋の有様に怯むこともなく、少女は立ち上がるとピューッと一度指笛を吹いた。
「
少女がそう叫ぶと、屋根の上の方から突如全身に紅い毛を纏った大男が勢いよく飛び降りてきて、倒壊しかかっている廊下にドンッと着地した。衝撃でグラっと廊下が更に中庭側に傾くが、少女は気にすることもなく猩々に向かって命令する。
「すまないが朧介殿を頼む。すぐさま脱出する」
少女の割に勇ましい喋り方で言えば、猩々はふーむと唸って朧介をまじまじと見た。それから大きな手で朧介の体をそっと持ち上げると、俵を担ぐようにして肩に乗せる。お腹が圧迫されて苦しいのか、発作のせいで苦しいのか、もはやよくわからなくなる。荒い呼吸を繰り返せば、ちらりと猩々が朧介を見た気がした。
「シヅル、こいつ大丈夫かぁ? 苦しそうだぞぃ」
少女――シヅルが振り返る。シャランとまた綺麗な音がした。
「街はずれまで走る。この炎は
言葉を遮るように再び近くで爆発音がして、同時に人々の逃げ惑うような恐怖に染まった声が響き渡った。そしてそれを合図にしたかのように、建物が再び倒壊を始める。
「時間がない、行くぞ猩々」
「あいわかった、酒の約束忘れるなぁ」
シヅルが先だって建物から飛び降りれば、猩々も朧介を抱えたまま後に続いた。
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