第10話 君が見えない


 お兄ちゃんが一人暮らしを始める日は、無駄に天気のいい、引っ越し日和びよりだった。


「じゃあ、行ってくるわね。今日はそのまま、お兄ちゃんの部屋に泊めてもらっちゃうわ」


「行ってらっしゃい」


 荷物は先に入居先に送ってあって、お母さんとお兄ちゃんでこれから新居に向かい、一緒に荷ほどきをするという。玄関で、お兄ちゃんはわたしをちらりと見ると、いつも以上に馬鹿にした、いやらしい表情で笑った。毎月、わたしのアルバイト代を家に入れることになった話も聞いているくせに。


 もちろん、お礼を言ってほしいとか、感謝してほしいとは微塵みじんも思っていないけれど、そんなお兄ちゃんの態度に不快さとやりきれなさは増す一方だ。わたしの方は、学校が休みの今日も、夕方までシフトが入っているというのに。


 それでも、お兄ちゃんがいない生活ができる方がいい。そう気持ちを切り替えて、いつものように店で単調な接客をこなしていたら、帰る間際に現れたのは、瀬名くんと浅里さんだった。


「お疲れ様」


 レジのカウンターの前に、二人が笑顔で立っている。


「びっくりした。今日も水沢の家にいたの?」


 あれから、水沢や両親にも注意されたのか、夜ちゃんが来てくれることはなかったし、寂しい気持ちでいたところだった。


「うん。これから、水沢は家族で食事に出るっていうから、今日は早めに切り上げてね。で、佐藤、いるかなあと思って」


「いるよ。瀬名くんみたいに、毎日遊んでられないもん。5時までだけどね」


 瀬名くんは、学校でも人目を気にしないで話しかけてくれるし、唯一自然に口がきける人なのだけれど。


「もうすぐじゃん。じゃあさ、ちょっと話そうよ。駅前のスタバで待ってる。じゃあ、あとでね」


「えっ? 今から?」


 いまだに、その才能ともいえる人懐っこさには、戸惑いを隠せないこともある。






「佐藤。こっち」


「あ、うん」


 待たせてはいけないと走って、着いた先の店の奥のテーブル席で、瀬名くんと浅里さんはすでに楽しそうに盛り上がっているようだった。なんとなく、居心地の悪さを感じながら、わたしも浅里さんの隣の席に着くと。


「お疲れ様。いつも大変そうだね。何か、ほしいものでもあるの?」


 わたしを気遣って、話を振ってくれる浅里さん。


「ううん。特に目的はないんだけど……ただ、自分で自由に遣えるお金があった方がいいから」


「そうそう」


 約束どおり、音楽のことに触れずに答えたわたしに、こっそり頭を下げてから、瀬名くんが続けた。


「水沢とか浅里ちゃんが恵まれすぎてるの。楽器もCDも、普通はバイトでもしないと買えないよ?」


「お金だけあっても、しょうがないよ。うちなんて、最悪なんだから。お父さん、外に愛人作っちゃって。音楽とギターを教えてくれたことだけは感謝してるけどね」


「うーん……でも、エフェクターとか買い放題なの、うらやましい。親の浮気くらい、俺なら許しちゃうな」


「バーカ。当事者になってみなよ。キツいんだよ、けっこう。家の中の空気が険悪で、息が詰まる。想がいなかったら、家出くらいしてたかも」


 そうだった。浅里さんの家には事情があるって、水沢も言っていたっけ。わたしも誰かに愚痴を言えたり、相談できたりしたら、どんなにいいだろうと思う。


 でも、他人が聞いたら、わたしの家族のことなんて、たいした話ではないのかもしれない。これまで、浅里さんだって、つらい思いをしたこともたくさんあったはずなのに、何てことのない話をするように笑っている。


「だけど、想の家は特別だよね。生まれたときから、想は全部持ってた感じ。お父さんもお母さんも、すごい人だけど、優しそうだし」


「不公平だよなあ」


「大丈夫。瀬名には瀬名のいいところが、どっかにあるはずだから」


「えー。その慰め方、微妙」


 そんな瀬名くんと浅里さんの楽しそうな会話を聞きながら、改めて思った。やっぱり、あのお兄ちゃんのことだけは言えないし、知られたくない。


「そうだ。わたし、佐藤さんに聞きたいことがあったんだ」


「わたしに?」


 浅里さんの言葉で、我に返った。


「夜ちゃんのことなんだけど。最近も会ってる?」


「ううん。あれからは、一回も。夜ちゃんが、どうかしたの?」


 夜ちゃんがよく人の視線を感じていたという件を思い出して、緊張が走る。


「夜ちゃんをしつこくつけ回してる人のこと? まさか、何かあった?」


「えっ? ああ、あったね、そんな話。ううん。それじゃなくて」


 見当違いだったようで、浅里さんに笑われてしまった。


「夜ちゃん、佐藤さんには心を開いてるっぽいじゃない? 何か、きっかけとかあったのかなと思って。共通の話題とか」


「特に、思い当たることはないけど。でも、わたしには心を開いてくれてるとか、そこまでは……」


 だいたい、数えるほどしか会ったこともないし、話した時間も短い。ただ、たしかに、浅里さんといるときの夜ちゃんは、いつもの天真爛漫さがあまり感じられなかったのは確か。


「仲良くしたいんだけど、難しいんだよね、夜ちゃんって。いつまでたっても、わたしにはよそよそしいの」


「それは、あれだよ。浅里ちゃんに水沢取られちゃったみたいで、複雑なんじゃない?」


「あ……そうかもね。わたしも、そう思う」


 瀬名くんの意見は当たっている気がした。水沢みたいな妹思いのお兄ちゃんが、自分以外の女の子に関心を向けているのを目の当たりにしたら、きっと寂しい。あんなにも大事にされてきたのだから、そういう感情を抱いても無理はないと思う。


「夜ちゃんにも好きな男とかできると、変わるんじゃん? まあ、水沢以上のやつが簡単に見つかるとも思えないけど」


「んー、そうだね。それを待つしかないかあ。今のままだと、一緒にいて、想も気疲れしちゃいそうでさ」


 瀬名くんの言葉に、弱ったような調子で息をついて、浅里さんが飲み物を口にする。水沢と同じように何でも完璧で、困ったり、迷ったりするところなんか想像もできなかった浅里さんの意外な一面を知った。わたしが思っていたよりも、何事にも一途で、一生懸命な人なのかもしれない。


「水沢も幸せだ。基本、自分以外のことなんか気にもしない浅里ちゃんに、そんなことまで考えてもらえて」


 瀬名くんも、そんなふうに浅里さんを茶化すと。


「うん」


 受け流すことなく、力強く浅里さんはうなずいた。


「わたし、想のためだったら、何でもできるよ」


「…………」


「うわー。どうした? 浅里ちゃん」


 その予想外の浅里さんの態度を、瀬名くんはおかしそうにからかったのだけれど、わたしは違和感を覚えていた。


「それに、想の役に立てるなら、怖いことなんか何もない」


「はいはい。もう、よくわかったってば」


 浅里さんらしくない。何度も会っていない人なのに、そんな思いがどうも心に引っかかる。まるで、自分で自分に言い聞かせてでもいるような……と、そこで。


「あ。もう、こんな時間。わたし、約束があるんだった」


 iPhone の画面を見て、浅里さんが声を上げた。


「え? のろけるだけのろけて、行っちゃうの? まだまだ、遊んでもらおうと思ってたのに」


 瀬名くんは、不服そうに口をとがらせている。


「行くよ。瀬名は、おとなしく家に帰って、ベースの練習でもしたら? スマガはね、他校とのイベントとか、高校生バンド大会なんて、生温なまぬるいところにいるようなバンドじゃないんだから」


「はーい、はい。想のためにね。練習は練習で、ちゃんとするけどさ……あ、佐藤は? このあとの予定」


 今度は、くるりとわたしの方を向く、瀬名くん。


「わたし? わたしは、今日は親もいないし、家で適当に」


 何も気にせず、部屋で音楽でも聴いていようと思っていたのだけれど。


「親いないの? 佐藤だけ? 行きたい! だめ?」


「えっ? うち、に?」


 そうくるとは思わなかった。


「いいじゃん。ヒマなもん同士、遊ぼうよ。それに、佐藤の家には行ってみたかったんだ、俺」


「うるさいから、遊んであげてたら?」


 すがるように目を輝かせている瀬名くんと、それをおかしそうに笑う浅里さん。


「えっと……」


 ちょうど、お兄ちゃんの引っ越しがあったから、家全体のいらないものなんかも処分して、片づいている状態ではある。でも、誰もいない家に男子を入れて、二人きりになるのはどうなのだろう? 同性の友達とのつき合いすらなくなっているわたしには、わからない。


「ね? 佐藤。お願い」


 いつもの調子で、目の前で手を合わせられた。悪びれない笑顔。瀬名くんはただ、わたしの聴いている音楽に興味を持ってくれているから、来たいというだけで。何より、学校に全然友達がいないわたしは、瀬名くんに助けられてもいるし……。


「うん。じゃあ、よかったら」


 少し時間が空いてしまったけれど、なるべく自然に返事した。


「やった」


 素直によろこんでくれる、瀬名くん。


「よかったね、瀬名。これで、わたしも心置きなく帰れるわ」


 浅里さんもそんな調子だったし、断らないでよかったと安心した。それに、瀬名くんがわたしを友達だと認識してくれていることもわかって、温かい感情が胸に広がっていくのも感じていた。






「おじゃましまーす」


 誰もいない静まり返った家の中に、元気な瀬名くんの声が響く。瀬名くんの手には、駅の近くのスーパーで買い込んでくれた、二人分のお菓子と飲み物。


「早速、佐藤の部屋見ていい?」


「うん。こっち」


 まさか、自分の部屋に瀬名くんが来ることになるとは想像もしなかった。瀬名くんは、こんなふうに、友達の女の子の家に遊びに行くことにも慣れているのだろう。一人で意識しているのも変だから、わたしも普通にふるまう。


「おー、さすが。すごいCDの数」


 部屋のドアを開けるなり、瀬名くんはCD棚に飛びついた。


「中古ばっかりだけどね」


「いや、全然いいでしょ。水沢の部屋にあるのと同じくらいの数かな」


「……そう」


 そんな些細ささいなことにも、うれしさを感じている自分がいる。


「あ、でも」


 しばらく夢中で並んでいるCDをながめたあと、瀬名くんが口を開いた。


「面白いなー。水沢んとこのリビングにあるCDと、けっこう被ってる気がする。佐藤、水沢のお父さんと趣味が似てるのかも。60年代とか? 古いのが多いよね」


「そ……そうなんだ? 偶然」


 中学のとき、わたしが見たのは、水沢のお父さんのCDだったということか。


「それじゃあ、水沢は?」


「水沢? 最近のイギリスとかアメリカのインディーズで、格好いいのが揃ってるね。あと、俺もよくわからないけど、クラブミュージック的な? この前は、DEERHUNTERディアハンター っていうバンドの曲聴かせてもらったなあ。よかったよ」


「そっか……最近のとか、そういうのは、わからないな」


 DEERHUNTER というバンドも、どこかで名前を目にした記憶くらいしかない。水沢の曲を聴いたとき、わたしと水沢が同じような道を辿たどってきたのではないかと思ったのはただの錯覚で、水沢のお父さんが聴いていた音楽という出発点が同じだっただけ————。


「もちろん、時代関係なく、いろんなジャンルの主要バンドっぽいのは押さえてるみたいだけどね。だから、佐藤の知識が役に立ってるわけで」


「えっ? うん。そっか」


 バカだな、わたしも。さっきから、いちいち、一喜一憂して。


「そんなに気になる? 水沢のこと」


 不意に、瀬名くんに聞かれた。


「だから、そんなんじゃ……」


 また、ひやかすつもりなのだろうと思って、反論しようとしたのだけれど。


「無理だよ。浅里ちゃんがいるから」


「あ……当然でしょ? そんなの、わかってるってば」


 思いのほか、瀬名くんの反応は真面目なもので、一瞬戸惑った。


「何度も言うようにね、SMART GIRLS の曲はいいと思ってるけど、水沢は元同級生っていうだけで」


 好かれていない、むしろ嫌われていることがわかりすぎているのに、この気持ちが知られてしまったら、みじめすぎる。


「それなら」


「え……?」


 気がつくと、瀬名くんに体を引き寄せられていた。


「何? どう……」


 からかっているのか、何かの冗談かと思ったけれど、違う。


「やめて……!」


 反射的に、瀬名くんの体を押し離す。今、瀬名くんは、わたしにキスしようとしていた。


「佐……」


「そういうつもりで呼んだわけじゃない」


 突然の状況に体が震える。だって、瀬名くんは、いつものように、音楽の話をしにきたんじゃないの?


「や、ごめん。ごめん、佐藤」


 慌てたようすで、瀬名くんが平謝りしてくる。


「前から、佐藤のこと、いいなと思ってたから、つい。本当、ごめん」


 一生懸命に説明されても、頭がついていかない。瀬名くんから、そんな対象に見られていたとも、こんな状況になるとも、夢にも思っていなかった。


「えーと、今日は帰るよ。これ、置いてくから、食べて」


 さっきの大量のお菓子が入った袋を強引に差し出して、瀬名くんが階段を下りていく。


「反省してるから、本当。ごめん」


「ちょっと、こんなに食べられないよ。瀬名く……」


 何がどうなっているのか、頭の中が整理できないまま、玄関のドアが閉まって、一人になった。もう一度、わたしの部屋で数分前に起こったできごとを思い出してみる。瀬名くんが、わたしのことをいいと思っていた……?



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