第8話 君と同じ光
「先日は迷惑かけて、すみませんでした」
ちょうどアルバイトの終わる時間に、夜ちゃんが店のレジの前に現れたのは、一週間後のこと。
「そんなの……迷惑なんかじゃなかったし、わたしも何もしてないし。水沢に迎えにきてもらえて、よかったね。体の方は、もう大丈夫なの?」
「はい。こじらせちゃったみたいで、長引いたけど、ただの風邪だったみたいです。ありがとうございます」
少し恥ずかしそうに、夜ちゃんがにっこりと笑う。水沢の妹だからとか、そんなことは関係なく、本当に可愛い子だと思う。素直で純粋な内面の綺麗さで、そのまま外見が形作られたような、まるで天使を思わせる子だと。
「それで、お礼を渡したいんですけど、外で待っててもいいですか?」
「えっ? いいよ、お礼なんて」
慣れていないことに、必要以上に戸惑ってしまったものの。
「ほんの気持ちなんです。でも、せっかく持ってきたから」
「そっか……うん。それじゃあ」
予想もしていなかった、そんな夜ちゃんの心遣いがうれしくて、帰る準備をすると、すぐに店の外に出たのだけれど。
「ごめんね、夜ちゃん。お待たせ……どうしたの?」
わたしが帰る仕度を終えるまで待っていてくれた夜ちゃんが、不安げな表情をしていたのが気になった。
「あ……いえ。気のせいだと思うんで」
はっとしたように、夜ちゃんが笑った。
「何が?」
「なんか、通りの向こうにいた人が、わたしのことをじっと見てた気がして……でも、大丈夫です。もう行っちゃいました」
嫌な予感が頭を
「それって……」
「はい?」
「あ、ううん」
どんな人だったかと聞こうとして、思い止まった。こんなに可愛い子なのだから、誰が見ていても不思議ではない。自分に言い聞かせるように、小さく首を振る。
「気をつけないとね。こんな時間に出歩かせちゃって、ごめんね。送っていくから、歩きながら話そう?」
「かえって、ごめんなさい。お礼って、これなんです」
夜ちゃんが差し出してくれたのは、丁寧に可愛らしくラッピングされた、ハート形のクッキー。
「もしかして、作ってくれた……の?」
「はい。こんなんで、申し訳ないんですけど。よかったら、食べてください。あの日、ついていてもらえて、すごくうれしかったんです。心細かったから」
「……ありがとう。大事に食べる」
涙が出そうになるのを我慢しながら、受け取った。こんなことで泣いたりしたら、夜ちゃんを困らせてしまう。
「あと、お兄ちゃんと知り合いだったんですね」
「うん。知り合いっていうか、中学に入学してからの一学期間、同じクラスだったっていうだけなんだけど。夜ちゃんにも、一回会ったことあるんだよ。家に上がらせてもらったとき。お母さんに頼まれて、焼菓子を運んできてくれたよね」
「そうだったんですね。わたしが小学校の低学年のときかな。恥ずかしいな」
そう言いながらも、うれしそうに笑ってくれる、本当に可愛い夜ちゃん。
「それなのに、ごめんなさい。わたしがお世話になったのに、お兄ちゃん……なんか、嫌な言い方してましたよね。わたし、あの日はしゃべるのもつらくて、何も言えなくて」
「水沢は悪くないよ。もちろん、夜ちゃんも」
わたしが考えなしに、よけいなことを言ってばかりいるからだ。ただただ、自分が嫌になる。
「でも、ちょっとだけ、お兄ちゃんのこと、弁護してもいいですか?」
「ん? うん、何?」
ためらいつつ、そんなことを切り出す夜ちゃんの続きの言葉が気になった。
「わたし、小学生の頃、同級生の男の子にからかわれて、泣いちゃったことがあったんです。わたしとお兄ちゃんは顔があまり似てないから、本当の兄妹じゃないんだろうって。そのときは本気で信じて、悩んじゃって」
「そんなことがあったんだ……」
どう考えても、ただ夜ちゃんを構いたかった男子のいいかげんな作り話に決まっているけれど、当時の夜ちゃんはすごく傷ついたのだろう。家族を大事に思っている水沢が、わたしの発言が気に障った気持ちがよくわかった。
わたしも昔は同じバカなことを言ってしまったし、自分のお兄ちゃんのことを気持ち悪いとも言った。水沢にしてみたら、嫌悪感しか抱かないはずだ。
「もちろん、今はそんなふうに考えてないです。だけど……自分の中で、いくつか結びついちゃったことがあって。名前とか」
「名前?」
「あ……はい」
少しためらいながら、夜ちゃんが続けた。
「想と夜って、共通点が何もないなあって。お兄ちゃんの名前はお母さんがつけて、わたしの名前はお父さんが考えたらしいんですけど」
「どっちも綺麗な、いい名前だけどね」
可愛らしい話だけれど、大好きな家族だからこそ、そんな些細なことも心配になってしまったのだろう。たしかに、わたしも最初は水沢と夜ちゃんを似ていないと思った。
でも、こうして話をしていると、共通する育ちのよさを感じさせる雰囲気だけでなく、顔も表情も似ていると思う瞬間がたくさんあるし、まぎれもない兄妹に決まっているのだけれど————。
「あ」
不意に、つながった。
「どうしたんですか?」
「夜ちゃん、わかった……! 名前のこと」
「えっ?」
目を見開く、夜ちゃん。
「わたし、クラシックはくわしいわけじゃないんだけど、ショパンの
絶対に、間違いない。だって、四年前に水沢の家でこっそりCDのアーティスト名を書き留めたとき、ショパンの曲集もたくさんあったことを覚えている。
「ノクターンって、お母さんがよく弾いてる曲です。今まで、全然気づきませんでした」
「そっか。やっぱり」
夜ちゃんの表情がぱっと明るくなったから、わたしもうれしくなる。こんなことで、小さな不安を取りのぞいてあげることができたのなら。
「帰ったら、すぐお父さんに聞いてみます。教えてくれるかなあ」
「そうだね……あ、ここだよね。夜ちゃんの家」
四年前のまま、きちんとした
「家の前まで、ありがとうございました。そうだ」
ぺこりと丁寧に頭を下げたあと、夜ちゃんが顔を上げて、わたしを見た。
「佐藤さんの名前は、何ていうんですか?」
「わたし? わたしは……」
水沢と夜ちゃんの名づけのエピソードを知ったあとに、自分の名前を口にするのがみじめに感じられた。
「光。佐藤 光」
適当につけられた、響きにも字にも思い入れのない、つまらない名前。わざと、ぶっきらぼうに答えた。
「光さん? わたしと反対ですね。わたしは夜で、真っ暗だから」
「本当だ」
このわたしが光だなんて、何の皮肉なんだろうと思うけれど。
「あ……そっか。だからなのか」
「何が?」
一人納得する夜ちゃんに、聞き返す。
「だから、わたしは光さんに会いたくなるのかもしれないなって。暗い場所に光が見えたら、近づきたくなるから」
「…………」
ねえ、夜ちゃん。水沢と夜ちゃんは、誰をも明るく照らしてくれる、太陽みたいな兄妹だね。二人こそが、この真っ暗なわたしの世界の中の唯一の光だよ。
「……光さん、だなんて、恥ずかしいよ」
こんな気持ちになったのは、中学のときに水沢に
「じゃあ、光ちゃん……で、いいですか?」
「好きに呼んでもらって、いいけど」
「それなら、光ちゃん。本当に、ありがとうございました」
「ううん。ありがとうは、こっちの方だから。クッキー、ありがとう。大事に食べるね」
かつてないくらいの幸せな気持ちで、自分の家に向かった。そして、家に着くと、お母さんから、いい話と嫌な話のふたつを聞かされた。
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